帝王院高等学校
そうだ、天寿を全うしよう。
『気が強ければ強いほど、悦い。
 気丈な人間の糸が切れる瞬間を知っているかい?

 プツン・と、それは容易く切れるんだ。抵抗なんて出来やしない。

 その時、人間は産まれた瞬間に戻る。言葉を知らなかった頃に戻って、泣きわめくのさ。



 それはそれは醜い顔で。
 それはそれは哀れな声で。



 そこで俺は優しく笑って、やっと手を伸ばしてあげる。



 さて、ここで一つ問題だよ。
 頑張って考えてごらん。





 母親から初めて抱き上げられた赤ちゃんは、どうなってしまうと思う?』













「俺は聞いていた」

何を、と。
山田太陽は掠れた声で囁いた。

一ヶ月に満たないとは言え、共に過ごした日々の記憶がないと言われても、何故か悲しみはない。
いつもの賑やかな声音とは違う、静かな声で呼ばれる違和感は拭えなかったが、新しく始めれば良いのだと。囁かれて、無抵抗に納得するほどには。

山田太陽の知る、たった数週間の遠野俊とは何だった?
初めて会ったその瞬間から友人気取りで、一体自分は、俊の何を知ったつもりになっていたのだろうか。

うなじのチクチクした痛みが消えている。
けれどまだ、不安でならない。何が不安なのかは全く判らなかった。


「聞いていたけれど興味はなかった。父の恨みは彼のもの、遺伝子は血となり受け継がれたが、感情までは俺には継承されてない。他人の物語の主人公は常に、他人でしかないからだ」
「自分の世界の主人公、は」
「自分しか居ない。普通は」
「…うん、そうだね」
「俺は常に読み手だった。何にも属さず全ての中立にある、それでこそ俺は、自分を人だと思えたんだ」
「どうして」
「俺は嘘つきじゃない」

俊の奏でる声は、眠りを誘う。うつらうつらと、太陽の双眸が閉じられていく課程。

「初めて瞼を開いた日、初めて世界の音を聞いた日。初めて見たのは、聞いたのは、祖母の言う『初めまして』だ」
「…生まれた、日の、こと?」
「誰も信じやしない。信じて貰えない事実は、嘘と同じなんだ」

不味い、と思ったのは要だけで、至近距離からその声を聞いた太陽と、転がっている健吾が真っ先に瞼を閉じている。
他の皆も今や微睡みの中だ。賑やかな行事に当てられ、自覚がないまま疲弊した状況にも関わらず、真夜中まで起きていた。無理もない。

「総長、」
「大丈夫。要、今は間違えてない」
「でも、これじゃ…」
「俺の声は仕方ないんだ。元の声で話すとどうしても、半催眠状態にしてしまう」
「…声?何ですかそれ、初耳ですが?」
「意志が強い者は掛かり難い。そうだな、イチは耳が良すぎて掛かり難いんだろうが、裕也ほどじゃない。…まァ、裕也も完全じゃないが…」
「は?」
「いや、気にしなくてイイ。俺の話が終われば目を開ける。お前も目を閉じていろ、カナタ」

錦織要は勝手に下がろうとする瞼に意識を委ねた。

「俺の名は遠野俊。母親の姓だ。父親の名は遠野秀隆。けれど本当の名は、帝王院秀皇」

空気が僅かに乱れた。

「健吾にはまだ話してなかったな。隠しててごめん」
「了解、許したげる(・∀・) 大丈夫っスよ、その辺は何とか判ってっから。総長はタイヨウ君の義理の従兄で、ハヤトの再従兄って事っしょ?俺だけ仲間外れだったらキレてたけど、」
「仲間外れなんていない。俺達は家族だ。タイヨーや隼人だけじゃない。カルマは皆、家族だと思ってた」
「…本気で言ってんの?何かそれってさ、偽善的っしょ。綺麗事にしか思えねーよ」
「そうだな」
「あのさぁ、否定しろや…」

殆どの人間が健吾を見やる黒い双眸に狼狽えている気配。
けれど誰一人、口には出さなかった。緊張感に怯んでいるのだろうか。当の健吾は目を逸らし、詰めていた息を吐く。

「学園長が俺の祖父だと初めて知ったのは、三歳の時だ。存在感の薄い父親が、その時ばかりは良く喋った」
「その時って、どんな時なんだい?」
「二人きりの時。誰もいない近所の道場で、生徒数が少ないのか、剣道を週に二回、土日に教えてくれた師範が居た。平日は夕方まで無料で解放してくれる。俺が始めた時は近所の子供達で溢れていたけど、皆すぐに飽きて来なくなるんだ」

もしかしたら、抗うだけ無駄だと本能が告げているのかも知れない。
瞼を閉じれば暗い世界、けれど皮膚の向こうに光が透けている。毛細血管が描く赤が見えたのだ。

「その道場に併設された弓道は人気だった。ドラマの影響だろうか、若い女性や子供でいつも賑わってる」
「…何のドラマ?」
「さァ、当時は家にテレビがなくて、観なかったから知らない」
「そっか」
「土日しかない剣道の稽古で平日も足を運んでいた俺は、保育園にも幼稚園にも通っていなかったから、毎日道場に足を運んだ。人が少ない時に弓に触らせて貰って、後は竹刀を振り続けるんだ」

子守唄の様なソフトバス。
低い低い声音が支配する空間には、他人の吐息さえ響かない。

「そんな俺に、迎えに来た父親が話し掛けてきた。大半は母親ののろけ話。父親がどれほど母親を愛しているか、何度も聞かされる」
「俊のご両親は仲良しなんだねー」
「そうだな。喧嘩してもすぐにいつも通りに戻ってた。怒るのはいつも母さんで、謝るのは父さん。年下だからかも知れないけど、父さんが母さんに逆らっている所は、見た事がない」
「俊江姉さん、何か怖いもんねえ…」

隼人の呟きに、要と健吾が口を塞いだ。
首を傾げる太陽は意味が判らない様だが、北緯は何となく察した。隼人が胸を揉んだ相手だ。ボコボコにされた隼人の表情を思い出したのか、要と健吾の肩の震えは中々収まらない。

「彼は自分の大切な世界を奪われた」
「お父さんの事?」
「そう。けれど彼は自分の最も大切な世界を守ろうとした。二兎追う者は一兎も得ずと言うだろう?でも、彼は捨てた世界への未練を断ち切れず、かと言って今ある幸福を犠牲にする勇気もなかった。葛藤は嘆きとなり刃へ化し、彼は自分を殺したんだ」
「自分を、殺す…」

誰かが寝言の様な声音で呟いた。
遠野俊の紡ぐ声に身を委ねる者全てが、酷く安心した表情で目を閉じている。

不安も焦りもない、穏やかな表情だ。

「彼には親友が二人。一人は空駆ける者、一人は大地を這う者。天地、それは時空の狭間だ。三次元の証明。二人はこう呼ばれた。…マスタークロノス。左席委員会初代会長と、初代副会長だ」
『プライベートライン・オープン、ステルスモードセキュリティ機能しません。コード:ファーストに通信要請』
「会長には赤い首輪がついていた。黒い毛並みの彼から名付けられたクロノス、けれど彼の事を知る者はいない。彼の名は、灰皇院秀隆」
『繰り返します。コード:ファーストにマジェスティより通信要請、応答願います』
「人は彼を騎士と呼ぶ。人は彼を知らない。人は彼を見た時こう呼んだ。地を這う犬。…そう、彼は迷い込んだ野良犬だった」

深夜に響く機械音声は一種異様だった。
けれどその異様な音声に反応する者はない。ちらりとスピーカーへ目を向けた俊だけが暫し動きを止め、何かを抱えて戻ってきた、窓の向こうの佑壱を一瞥する。

『拒否は許されません。コード:ファースト、応答願います』
「ああ、俺は此処に居る」
『声紋確認…100%、コード:ファーストを確認』

俊の口から漏れた声に、息を乱した佑壱が苦笑いを零した。
精度の高いシステムすら騙すほどに、俊の声真似は似ていたのだ。佑壱本人が自分の声だと認めるほどには。


『侵入者を捉えたのはそなただと聞いたが、真かファースト』

何処かで聞いた声だと、遠野俊は瞬いた。
微かに肩を動かせた佑壱へ近寄り、安心させる様に頬を撫でてやれば、感嘆じみた吐息が指先に触れる。

「あー、俺が取っ捕まえたんだ。何か文句あんのかコラァ」
『…?それならば今すぐ戻れ、高坂が探している。そなたがつまらぬセキュリティを敷いた所為で、随分荒れていたぞ』
「何だ、じゃあ現在地バレてんのか。うぜぇ、放っとけ」
『………やはり、聞き間違えではないらしい。そなた、ファーストではないな』
「はは、…もうバレた。機械は騙せたんだけどなァ。…流石はABSOLUTELY、名に恥じない、優等生だ」

ぱちり。
指を鳴らした瞬間、船を漕いでいた皆が弾かれた様に目を開けた。夢から覚めたかの様に、互いに互いを眺めている。

「あ。物語が一つ、繋がった」
「…俊?」
「きっと大丈夫だ。…イチ、落ちるぞ」

聞こえていたが頭が理解していなかったと言う不思議な体験をした全員がスピーカーを凝視する中、目の前に俊を認めた佑壱は、背中に何かを背負ったまま不自然に仰け反り、倒れそうな所を俊から支えられて事なきを得る。

「裕也を見つけたのか。お帰り、ご苦労様」

山田太陽は下がり気味の眉を潜め心配げに俊を見つめたまま、何か言おうとでもしたのか、口を開いたがすぐに閉じた。

「イチ、これが皇帝だろう?」
「…そうっス、ABSOLUTELY、マジェスティノアです。アルビノが黒なんざ名乗りやがって…って、その楽しそうな目やめて貰えますか、総長」
「こんばんは、神帝陛下。気高き陛下におかれましては、地を這う犬如きがご無礼、平にご容赦願いたい」
『………俊』
「その声は、…そうか。じゃあ、君が神様だったのか。そうとは知らず、ごめん」
『何を謝っている?』
「俺はお前を覚えてない」

真顔だ。
真顔で堂々とほざいた男に、一同は青褪めた。腐り果てたオタクの時も度々噂されていたが、一年Sクラスの帝君は余程、恐ろしいものがないらしい。青褪めたまま硬直している佑壱と要を余所に、困った様な表情の隼人もまた、顔色が宜しくない。

「きっと何か言ったんだろう。俺は君に、酷い事を」
『…雨だった』
「雨」
『高坂の誕生日に、お前は傘も差さず』
「高坂日向?」
『そうだ』
「8月18日、そうか。それは俺の記憶より未来だ。俺の記憶じゃまだ、健吾の誕生日が来てない。梅雨入り前の6月だった」

小さく吹き出した健吾は慌てて口元を押さえたが、小刻みに震えている。会話が通じている事が不思議なくらい、この二人の言葉は足りなかった。いっそ笑わせたいのではないかとすら疑うほどに。

「お前は俺を探していたんだろう?でも俺は隠れていた訳じゃないんだ。今の俺は昨日までの俺ではないが、それだけは判る」
『そうか』
「だから終わりにしよう」
『私がそれを許すと思うのか』
「どうして俺がお前の許可を貰わなければならない」
『…』
「ああ、お前じゃ失礼だな。名前は…グレアム?」
『違う』
「違う?」
『真っ先に俺はお前に言った筈だ。神威、俺は駒ではない。よもや帝王院でもない。神威だ。他に名など必要としない。それすら、忘れたのか』

その意味に気づいたのは、嵯峨崎佑壱だけだ。
二葉ですら許されていないそれを、佑壱が知る限り一人だけ。許されているのは、俊だけだった。幼い佑壱が何度教えてくれとせがんでも、神威が自分の名前を口にした事はない。

「みかどいん、かい」
『…ああ』
「字は?」
『神の威』
「神威」
『………本当に覚えていないのか』

太陽と桜も口にはするが、神威が返事をした事はなかった。少なくとも、俊の前以外では。嵯峨崎佑壱の記憶にある限り一度も。

「何なんだ、アンタ。いつかそんな、人間みてぇな事、言うようになっちまったんだよ…」
「イチ先輩?大丈夫、ですか?」
「…畜生」

だからこそ、つまらない変装で騙されたのだ。
神威の名を呼ぶ者がこの世に存在する筈がないと、無意識に思い込まされた。
心配げに覗き込んでくる太陽の目から顔を逸らし、唇を噛み締める。誰に嫉妬しているのか自分でも判らなかった。

「神威」
『そうだ。お前の前でのみ、俺は駒ではなかった』
「俺は知らない間に何を奪ってしまったんだろう。恨まれても仕方ないと思うよ」

俊の台詞は、誰にも理解出来なかった。
ぽつりと「逆だろ」と呟いた隼人に、目を伏せていた佑壱が顔を上げる。

「総長、は。コイツを、恨んでたんですか?」
「俺が?」
「アンタが本物の、帝王院だ。本当なら兄貴は、中央委員会会長だった。俺は…復讐の材料ですか?ルークの従弟だから、扱い易い餓鬼だったから」
「ちょいとイチ先輩!自分が何言ってるか判って、」
「違う。多分きっと、違う」
「多分だと?!何だよそれ、自分の事だろうが!」
『…起きた過去は淘汰されない。何一つ、終わる事はない』

叫ぶ佑壱の声は掻き消えた。
囁く様な声音が支配する中、勝手に溢れた涙を呆然と眺めた山田太陽は目を丸め、忙しなく瞬く。

『黒は極彩色を混ぜた成れの果てだ。消す事など出来ない。虚無の色を知らぬ人間には、決して』

酷く悲しい声だ。
太陽だけでなく、他にも泣いている生徒らが見える。皆、同じ様に呆然とした表情だった。

「けど終わらせるんだ。過去なんて今を生きるには必要ない。俺は俺ではないのかも知れないけれど、それでも今は俺なんだ。俺は遠野俊、それ以外の誰でもない。だから俺は、帝王院の一切を放棄する」
『何を馬鹿な事を…。俺はお前と、そんな下らん話をするつもりはない』
「無責任だった父を許して欲しい。俺の所為で嫌な思いをさせたなら何度でも謝る。ごめん」
『やめろ。これ以上俺を、』

錦織要は静かに、己が主人と慕ってきた男を見ていた。
スピーカーから漏れる声ではなく、直に鼓膜を震わせる、その声の主を。






「産まれてきてごめん、義兄さん」


















叩き切った回線が、まるで引き裂かれたかの様にブチリと音を発てた。精神が理解から逃げたのだろうか。それすら判らない。
執務室のドアノブへ手を掛けたまま動きを止めていた事に気づいたのは、重厚な一枚木の扉を殴り付けた直後だった。

胃の奥が燃えている。
殺意、憎悪、後悔、憤怒、あらゆる負の感情を混ぜた目には見えぬ黒い何かが、出口を求めて荒ぶっているのが判った。


罪。
罪。
罪。
繰り返される幻聴は金髪の悪魔が奏でた、言葉。


「これを俺が、招いたのか」

誰に投げつければ良い。誰に吐き出せば良い。
こんな結果を望んでいたのかと問われれば否と叫ぶ。けれど何を求めていたのかと問われれば、今はもう、どんな言葉を尽くそうと、答えられないだろう。

暗い。暗い。
目の前は果てしなくノア、純粋なまでに一つの色もない。

惨めだ。哀れだ。
何故か、眼球が熱い。

「何の罪か判らない…」

今更実感したなどと、そんな筈はない。判っていた事だ。予想していた事だ。血などどうでも良い。ただ、名で繋がっていた。それだけの事だとして、けれど。何がしたかったのだろう。退屈凌ぎ、ただの時間の浪費、それだけなら救われた。けれどこれは違う。想像したどれもと、違う。

何の罪か判らぬままでは、償う方法もまた、同然なのではないのか。


「いつまでそこに突っ立ってるつもりだ、馬鹿が」

ドアを殴り付けたまま微動だに出来ずに居ると、背後から呆れた様な声が掛けられた。
振り返れば大差ない目線に琥珀の双眸が見える。自分のものより深みのある、飴色の瞳だ。何と美しい月の色だと、いつか感じた事がある。自分のものとは違う。決して同じではない。

自分の瞳は、血まみれだ。

「…座らせたいのであれば椅子を持て。それまで俺は、立ち続ける」
「ちっ。デケェ図体で通り道に張り付くな。日本の規格を考えろ規格外野郎、邪魔で敵やしねぇ」

目に見えて驚いた表情の高坂日向が、何処から話を聞いていたのかは定かではない。驚愕を振り払うように目を逸らした日向がドアノブを掴み、扉を開けるのを見ている。

「おら、いつもの目薬差しとけ。嵯峨崎より真っ赤だぞ」
「今日は差し忘れた」
「あんま珍しいもん見せんな、明日は地球崩壊かぁ?…日本列島が沈没しても、アンタの泣き顔なんざ見る事はねぇと思ってたぜ、俺様は」
「…泣き顔だと?随分面映ゆい事を宣う。この私がか」
「鏡見てみろ」

ずかずかと中へ入っていく背を追った訳ではないが、無意識に執務室の中へ踏み込み、壁の姿見を見た。成程、右目の下、頬に水滴が伝った筋が一つ刻まれている。

「高坂」
「あ?」
「鼻の奥が痙攣している。止まらん。どうすれば良い」
「これだから泣き慣れてねぇ奴は…。んなもん、放っておけば治る」
「そうか」
「ったく」
「高坂」
「何だよ」
「誰彼構わず惨殺したい時はどうすれば良い」
「………AVでも観て、溜めてるもん出せ。出せば多少マシになる」
「ならばそなた、俊の声真似で喘いでみろ。幾らか興奮するかも知れん」
「俊の喘ぎ声なんざ俺様が知るか!」
「ほざくな。そなた如きが知っていればこの場で殺している」
「…あー、何なら誰か好みの奴でも口説いてこい。アンタなら秒殺だろ」
「今振られたばかりだ。遠慮のないそなたは、どうせ聞いていたのだろう」

静かだ、と。会長席に腰掛けた男は呟いた。
気まずげな日向は無言を貫いてティーポットへ紅茶を落とし、電気ポットから小さめのケトルへ注いだお湯を、ガスレンジの火に掛ける。

「…アンタですら上手く行かねぇとはなぁ。所詮現実なんざ、こんなもんって事か」
「そなたは随分、私を買い被っていたらしい」
「はっ。買い被っちゃいねぇよ。アンタは人間としては不良品だが、そこらのサイコパスが束になっても勝てやしねぇ程度にはイかれてる」
「誉めているつもりか」
「誉められてると思ってんなら、沸騰したボイルドウォーターぶっ掛けてやろうか」
「…夢見がちなセカンドにも教えてやらねばなるまい。所詮、頭で考えた通りにはままならない世だ。俺は生に見切りをつけた。この世は微塵も楽しくない」
「自殺するなら俺様から見えない遠くでやれよ」
「死にはせん。理由は、そなたと同じ様なものだ」

ケトルの蒸気口を何ともなく眺めていた日向は、呆れた様に顎を掻いた。目薬を差している神威は背凭れに深く凭れ掛かったまま、両目を差し終えて尚、無防備だ。
今なら殺せるのではないかと一瞬考えた日向は、いや無理だとすぐ頭を振る。

「強い…っつーか、女々しい男だな、テメェもよ」
「人の雄に過大な差異などない。欲情すれば吐き出し、腹が減れば喰らう。そなたの様に欲情せん相手とて、己を奮い立たせ励もうと努める奇特な雄には、通じぬ道理か」
「そりゃどう言う意味だ、首絞めんぞテメェ。何っつー可愛いげのねぇ餓鬼だ、顔だけ見れば性別不詳の癖に」
「曰く、そなたより4ヶ月年上だからではないか?私は免許を持っている」
「若葉のペーパードライバーだろうが。ちっ、何の自慢にもなってねぇんだよ」
「だが俊を娶るなどと言う余りにも下らん戯れは俺が生涯を懸けて邪魔してやるから心得せよ。生かして帰すと思うな」
「だったら嵯峨崎を寄越せ」

言ってから、ピーっと吹き出したケトルを凝視したまま日向は口を押さえた。今更遅すぎると気づいたのは、火を止めてからだ。軽口にしては物騒な台詞に対する八つ当たりみたいなものだったのだが、言葉は選ぶべきだったのかも知れない。

「…今のは撤回する」
「良かろう、結納金を上乗せしてくれてやる。あんなものは要らん」
「本気かテメェ…」
「俺は常に本気だ」
「悪ぃ、俺様のが殺意沸いたわ。いつかぶち殺してやるから覚えとけ人格崩壊者」
「高坂」
「何だよ」
「呼んだだけだ」
「頼む。アンタを殺す方法を教えて下さい、マジェスティ」

困った様に首を傾げた日向に、同じく困った様に首を傾げた無表情は目元を押さえていたティッシュを離し、

「天寿」
「ちっ、そりゃまた糞長そうだな…!手っ取り早く毒殺か銃殺か刺殺か絞殺しかねぇか!」
「高坂」
「今度は何だゴルァ!」
「胃が痛い」
「んだと?気の所為だろう、アンタに胃痛は有り得ねぇ。胃が痛いのはこっちだ。そろそろ労災申請してやるから覚悟しとけや」
「左部肋骨内膵臓周辺がずきずきする。食欲もない」
「…マジかよ」

こてりとデスクに崩れ落ちた銀髪に、高坂日向は頬を痙き攣らせた。この数年、神威が病気した様など見た事はない。風邪も引かない男だ。そもそも定期検査でしょっちゅう身体検査を受けている。

「仕方あるまい、コンソメポテチを喰うか」
「何処にしまってんだ、おい。真面目に心配した俺様が間違ってた」

がらりと引き出しを開いた神威が無表情で取り出したスナック菓子に、副会長は目を逸らした。物珍しさに混乱したが、帝王院神威と言う人間など、最初から意味不明だった。今始まった事ではない。
諦めて無言で手を伸ばせば、ポテトチップス二枚を無表情で咥えた男のアヒル顔。突っ込んだら負けだ。

「何だその手は」
「一口寄越せ」
「…年の数だけやろう。17枚だったな」
「ほざいたな。だったらテメェは18枚でやめとけよ」
「ちっ」

わざとらしい舌打ちが聞こえた。
明らかにわざとだろうが、がらりと引き出しを開いた神威が無表情で取り出した別のスナックを投げ寄越してきたので、勝ち誇った表情を浮かべてやる。

「お優しい事でなぁ、帝王院会長。アンタやっぱ、面倒臭いぜ」
「…」
「下手に日本に慣れた所為で、すっかり人間だ。今更アメリカに戻った所で、アンタを神として崇める馬鹿なんざ居やしねぇよ。なぁ、諦めたらどうだ?」
「諦める?」
「自分に嘘を吐くのをだよ」
「愚かな事を」
「嵯峨崎を遠ざけた事も、今更日本に戻ってきた事も、全部。考えがあったんだろう?」
「知った様な事をほざく。そなたに何が判ったと?」
「アンタが嵯峨崎を遠ざけたのは戴冠前だ。それぞれの派閥が事を起こす前に、奴を遠ざけたかった。理由は単純に、身内を傷つけたくなかったからだ。…ついでに言うと、マダム=テレジアを外へ逃がす為」
「下らん」
「アシュレイはアンタ専属の教育係、元老院の幹部にしてグレアムの執事だった男だ。その娘を娶った嵯峨崎嶺一は周りを欺いたが、キングには通用しなかった。…無論、アンタにもな」
「何をほざいているのか、私の理解には及ばんらしい」

ばりっと、破ったパッケージから取り出したポテトチップスを頬張れば、塩の刺激が舌を焼く。コンソメばかり齧る男のデスクには、薄塩味までストックされていた様だ。

「アンタが日本を離れれば嵯峨崎は一人になる。アンタが日本を離れれば、誰もが次期中央委員会会長はあの人だと言った筈だ。嵯峨崎じゃない、遠野俊。あの人こそがクラウンに相応しい。なのに敢えて嵯峨崎を指名したのは、」
「もう良い」
「鬼の目から遠ざけたかった。従弟を盾にしてでも、…認めろよ。お前が優先したのは自分の我儘だろうが。人間の欲に抗えなかった、それだけだろうが。二葉を連れて戻ればこの国からステルスは一掃される。名実共に日本を統べるのは帝王院俊、中央委員会会長なんて役職なんざ必要ない」
「高坂」
「それでも俺は、テメェを一生許さねぇよ」
「………」
「嵯峨崎を駒にしたテメェなんざとっとと消えちまえ。…お陰で俺様の下らねぇ計画は至極順調だ、俊を連れて帰ればヴィーゼンバーグは終わる。嵯峨崎にしろ、結果的にはグレアム絡みだ。アンタの正室に手を出すほど、俺様は馬鹿じゃねぇ」

幾つか噛み砕いて飲み込み、袋をソファへ投げる。
途中から袋に手を突っ込んだまま外を見ている神威は、沈黙したままだ。

「アンタのお陰で嵯峨崎が目立った。悪目立ちさせる前にイギリスへ連れて帰れば、どの組織も嵯峨崎には手が出せなくなる。テメェの頭の中のシナリオ通りか、帝王院。嵯峨崎佑壱に関してこの俺様がどう動くか、テメェは初めから判ってた筈だ」
「…ああ。そなたにせよファーストにせよ、私には手に取る様に理解出来た。あの頃と同じ様に」
「あの頃だと?」
「そなた、始まりを覚えているか」

囁く様な声音が響く。

「何故そなたの血がファーストと適応したか、覚えているか」
「はぁ?…んなもん、あの事件で二葉が俺の血を調べたからだろうが。傷の治りが悪い俺と、逆に早すぎる嵯峨崎とは正反対だ。目をつけねぇ方が可笑しい」
「…やはり、覚えていない様だ。無理もない。そなたはあの時、意識がなかった」
「あ?何の話だよ」
「傷の治りが悪いそなたが、あれほどの血を流して何故生きていたのか。何故あの時、回復が早かったのか。…ゆるりと、考えておくが良い」

日向は沈黙した。
振り向かないまま静かに外を眺めているプラチナは、蛍光灯の光の元でさえ、煌めいている。



「…桜はとうに、散ったか。」

←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!