帝王院高等学校
魔王と鬼ととどめに魔帝
「宮様!」

決して声を荒げる事などない筈の部下に呼び止められ、呆れ半分、扇子で額を叩いてやった。気にも止めなかった男は真っ直ぐに蠍の塔の階段を、入り口まで上っていく。

「何事だと笑われるよ?…何時如何なる時たれど感情を表に出してはあかん言うて、習わなんだか」
「も…申し訳ありません、龍の宮様」
「全く、母校の地で殺生するのも何だからねぇ。目を瞑ってあげよう。二度目はないよ」
「肝に命じて」

視界の端に姪が映り込んだ。
あれで監視しているつもりかと唇に笑み一つ、僅かに開いた扇子をわざとらしく音を発てながら閉じれば、漸く気づかれている事に気がついた彼女は闇の向こうへと消えていく。

「リンに聞かれていたね」
「は?ああ、あれは承知の上。知られて困る内容でもないので、泳がせておりました」
「イギリスに送ってからどうも考え方が変わった様だ。叶が王になりたがるなんて、笑わせる」
「帝王院保有の株式の9割が、帝王院神威名義に書き換えられています。然し、宗家の株式に於いて変動はありません。帝王院帝都保有の株式は、以前より帝王院秀皇名義のものでした」
「そうなんだ。私は前々からキングに疑問を感じていたからねぇ…で、それに関して何か掴んだのかな?」
「帝王院俊の名義で株式を買い戻していたのは、どうも榛原だけではないようです」
「おや…?」

それは想定内だが、部下の表情を見るだに、どうもきな臭い。
念入りに周囲を窺う部下を扇子で手招き、顔を寄せた。

「で、黒幕は?」
「…アジアの大河です」
「おやおやおや…これはまた、大物が出てきたねぇ。でもそうなると…」
「当初、自分も皇子殿下の命を疑いましたが、どうやら違う様です。実行しているのは、大河四家の一角、祭家の人間ではないかと」
「祭?四家の中でも若い家だな。大河幹部の頂点は王家の王蒼龍、大河社長の外縁の従兄弟だった筈だがね」
「仰せの通り、祭楼月は大河から最も血の遠い家。チャイニーズバンクの運営を任されてはいますが、頭取は大河社長、副頭取は王蒼龍です。皇子殿下の勅命で大河が外堀から動いているのであれば、この場に祭の名が出るのは…」
「些か、変な話ではあるねぇ」

扇子で口元を何度か叩き、息を吐く。判断材料が少ない上に、益々きな臭い。

「ふぅ。陛下が手を回し、キングに気づかれないよう末端を動かしているとも考えられるが、祭楼月には当然私も会った事はあるが、頭の悪い男だ。今や二葉の言いなりに等しいね」
「…はい。宵の宮はグレアムの手の内、大河四家の目が光っている現在、身内を裏切る様な真似をするのか…判断が敵いません。龍の宮様は如何お考えですか?」
「祭を動かせる立場で、今の今まで気づかせなかった手腕の持ち主、か。…此処は、慎重に動く必要があるかも知れないねぇ」
「御意」
「それと、要らぬ心配だとは思うが、若様を警護なさい。…監視も兼ねて」
「若様とは…天の君、ですか?」
「そう。どうも彼は、私の手には負えないらしい」
「まさか」
「ほらほら、君も騙されているじゃないか。外見で判断する人間なんて我が家には居ない筈だ。なのに何故、誰も疑わないのかな?判っている筈だろう?彼は、帝王院の次期帝だよ」

納得していない部下を横目に、仕方ないとばかりに扇子を胸元へ差し込む。

「一説には私の知能を越えると言われているルーク坊っちゃんも、完全に手に負えないんだけどねぇ…。その彼と同棲していたらしい天の君は、はてさて、何を考えているのか」
「了解しました。取り急ぎ、調べて参ります」
「頼んだよ。陛下が言うには、天の君の目を見てはいけない。天の君の声を聞いてはいけない。天の君に声を聞かれてはいけない、…つまり、天の君の記憶に残ってはいけないそうだ」
「…は?」
「彼は記憶した人間の声を離れていても聞いている。彼は記憶した人間の行動を分析して人格を理解してしまう。彼の目を見てしまうと、自分の意思では逸らす事が出来ない。彼の声を聞いてしまうと、意思が飲み込まれてしまう。陛下のそれは『剥奪』、そして彼のそれは、『支配』だと言うんだ」

時計の針が一周したのが判る。

「支配?」
「余りにも皇帝に相応しい才能だ。文仁が尾行を躊躇った。何年探しても時の君親子が見つからなかった理由が、もし支配によるものだとしたら?我々が今正に支配されているとしたら?記憶には残らない。ただ、自我を保ったまま操られているだけだとしたら」

もうこんな時間かと、部下の隣を通り過ぎる様に階段を一つ、登った。

「…ね?手に負えないだろう?」

漸く理解したらしい部下の表情を笑顔で眺めたが、面白いものではない。





















娘の体に流れる血の色を知った時、子の為に罪を犯す親の気持ちを理解した。
そうして人知れず背負っていた罪を初めて懺悔した翌日、その罪はこの世から消えたのだ。まるで、魔法の様に。

日記をふと見返した時、己の本当の罪を知る。
記憶にはない、けれど明らかに自分のものである筆跡。過去の自分が記した覚えのない罪を知った時に、愛は畏怖へ擦り変わったのだと思う。

『俺の我儘を聞いてくれるか』
『こんな事を頼んで、ごめんな』



“罪の名は、何だった?”







目立つ容姿ではなかった。
外科が贔屓される医局の中で、小児科医に興味があった訳では決してない。人手が足りない時に一度、彼女が助手に入った手術で見た、縫合処置が丁寧だった事は覚えていた。それ以上に時間が懸かりすぎて苛立った事も。

困っているの、と。
ほとほと困った表情で女は呟いた。独り言の様なそれに目を向けたのが敗因だろう。

「ああ…私は困ってる。そう…困っているの、凄く」
「…」
「困っているのよ…」

手腕はあるがワンマン経営に敵も多かった院長に、最終的には命令だと凄まれて渋々出席した新年会第二弾は、各医局から数名ずつ参加している。ただでさえ浮いている自分を、余所の部署の人間が遠巻きにしている事は判っていた。

消毒薬に似た酒の匂い。
ほの赤い酔い顔で徐々に盛り上がる空気に酔ったのか、緊急の呼び出しがあるかも知れないからとオレンジジュースを舐めていた女は、若干頬を染めていた。

「困っているの、本当に」
「…」
「自分でも情けない話なんだけど、辛うじて小児科医になれたのよ。私なんか、家を継げる筈がない。才能がないのよ。駄目なの」
「…」
「患者が熱を出しただけで泣きそうになるのに、手術なんか出来る訳ないじゃない。血に動じないって言うのは一つの才能なのよ。意気地無しには、無理なのよ…」
「泣くな。俺が泣かしたみたいに思われる。そして俺は相槌を打った覚えはない。独り言は一人で嗜め」
「必死で卒業して必死で研修満了して、私なんか虫の息なのに…。父さんは酷いわ、幼い頃から外科医以外は許さないなんて簡単に言うのよ。それが無理だと判ったら、今度は見合いしろだなんて…」
「だから泣くなと言ったろう、主はもう喋るな」
「何で私ってこんなにネガティブなのかしら…」

ジュースで盛大に泣く女に、周囲は知らぬ顔を通す。尊敬の数だけ煙たがれる院長の一人娘が、爪弾き者の外科医に絡んでいる光景など、見たくもないだろう。誰しも危うきには近寄らないものだ。

「先生、こんな弱虫で三十路まで恋愛の一つもしてこなかったオバサン、幸せになれると思いますか?」
「話し掛けるな。先生は他にも居ろうが。俺はカウンセラーでも占い師でもない、工事屋だ。他を当たれ」
「手術を工事に例えるなんて!人の命を何だと思ってらっしゃるの?!才能があるからって!…そうね、先生の手術は完璧だった。それに比べ私なんて…地味な縫合も満足に出来ない、ウジ虫なのよ…」
「そろそろ帰った方が良い。迎えを寄越せ」
「…無理よ、先日お見合いした松岡さんは父に会わせてから連絡を下さらなくなったもの。…私なんか、私なんか、医者としても跡継ぎとしても…落ちこぼれなのよ…うっ…ふ…」
「おい、誰かタクシーを呼べ。此処に金は置いておく。俺は帰る」
「えっ?あっ、待って下さい立花先生!遠野先生、大丈夫なんですか?」
「…俺が知るか。本人に聞け」
「立花先生が帰るなら、私も帰ります。二人なら耐えられるけど…嫌われ者仲間の立花先生が帰っちゃったら…私なんて…私なんて…」

ネガティブ所の話ではない。
誰が嫌われ者仲間だと痙き攣ったこめかみを揉みほぐし、とぼとぼとついてくる女を張り付けたまま、暖簾を潜った。

吐く息が白い。
雪が近いのか、見上げた夜空は澄み渡っているものの、何処か凍っているかの様に思えた。

「立花先生、そんなに薄着だと風邪を引きますよ。マフラー使って下さい。患者の子供達にクリスマスプレゼントでマフラーを編んでみたんです。幾つ要るか判らないから去年の春から編んでいたら、結構余ってしまって…」
「自作か。…器用なものだな」
「そんな…私なんて…家に帰っても呼び出しがあるかも知れないからって考えちゃうと寝られなくて、独身だからする事もなくて、編み物くらいしか趣味がない地味な女なんですよ。地味で冴えないウジ虫で弱虫で馬鹿な、落ちこぼれ女なんです…」
「泣くなと言っている」
「でも立花先生!私に外科医が勤まると思いますかっ?先生がそう仰って下さるなら私、もう一度医学部へ通い直します!」
「あ?何で俺に訊く。知るか、自分で考えろ」
「やっぱり私なんて…地味で平凡で何の才能もない、結婚出来ない女なのね…ふぅう…」
「…」

面倒臭いと思いながら、撫でてやった頭は小さかった。
幾つか年下だったが、必要最低限の会話以外では誰も寄ってこない自分に、タクシーを降りるまで管を巻いた面倒臭い女は、後にも先にも彼女だけだ。



「おい、龍一郎。コーヒー買ってやるから、来い。ほーら来い、来いって。…おい、来いっつってるだろ!」
「…煩い、一度言えば聞こえている」
「だったら返事くらいせんか。耳が聴こえないなら手術してやるぞ、俺が」
「断る。自分でやった方がマシだ」

満面の笑みの雇い主に手招かれ、若干イラッとしつつ無人の喫煙スペースへ足を踏み入れた。何が面白いのか、コーヒーの缶を押し付けてきた男は白衣の裾を意味もなく弄びながら、ぷかぷかと煙を吐いている。
道理で朝から外科医共が緊迫していた筈だと他人事の様に考えながら、術後で疲弊した肩を揉む。

「いやー、今日も見事なオペだったなぁ。お前を雇った俺の目に狂いはなかったと、医学会のお偉方から褒められたぞ。これで何度目かなぁ…しみじみ。お陰で我が院は大繁盛だ。やっぱ政治家相手の商売は儲かる」
「貴様、今の台詞を人前で宣うなよ」
「俺がそんなヘマするか、馬ぁ鹿。鬼と呼ばれた俺の跡取りとして、鬼神と呼ばれるに相応しい」
「誰がそんな巫山戯けた事をほざいた」
「どうだ、義父さんと呼んでみろ」
「頭蓋骨に穴空けて内視鏡を突っ込まれたいらしい」
「それが医者の台詞か」
「言いたい事があるならはっきり宣え。貴様が俺の主である内は、可能な範囲に限り、従ってやる」

最初の約束だろうと吐き捨てれば、院長は増えてきた白髪を掻きながら、微かに笑った。今でこそ医者として擬態しているが、昔は政府に真っ向から噛みつく様な男だったのだ。

「…ったく、お前は父親には全く似てないのな。あの人は世間知らずだったが優しさに溢れていた。あ、それと間延びした喋り方だったな」
「知るか、余計な事は喋るな」
「『ねえ、一緒に診療所やらないかな?お給料は少ないけど遣り甲斐あるよお?』なんてな。年上に向かって悪いとは思うが、馬鹿じゃねぇのかと思った」
「奇遇だな、俺も正にそう思った所だ。それは俺とは無関係な男だろう」
「…くっく。お前はやはり、俺に近いよ龍一郎。下手な偽名を名乗るくらいなら、遠野の一員になっちまえ。遠野龍一郎…悪くないだろ?」
「つまらん冗談はよせ。話はもう良いか、医局に戻る」
「まぁ待て、一人は辛ぇぞ。俺は弟を失って初めて判った。こんなんだから嫁と折り合いが悪い所為で、一人娘にも寂しい思いをさせてる」
「随分殊勝な事をほざくが、明日は吹雪か」
「…なぁ、龍一郎。お前は何も、悪くない」

ああ、苦い。
他人の吐く白煙も、カフェインも、長い沈黙も、全て。

「だからお前の肩の荷物を半分、俺が担いでやるよ。任せとけ、義父が嫌なら義兄さんと呼ばせてやる。嬉しいだろう」
「苦死ね」
「それが医者の台詞か」
「娘は本当に貴様の子か?一人は能天気、一人は後ろ向きと来ている」
「人間、馬鹿の方が可愛いげがあるもんだ。お前はちょっと、賢すぎるんだよ」

難しく考えるのはよせと、彼は他人の前では決して見せない呑気な笑みを浮かべた。

「神の手を持つ天才先生、これは『可能な範囲』かな?」
「…少なくとも、不可能ではないな」
「恋人も愛人も居ないんだろう?それともお前、まさか隠し妻子が…」
「脳に損傷が見られる。MRIに来い」
「真顔で言うな。失敬なやっちゃ」

仕方ないとばかりに空き缶を腹に押し当ててやれば、ぽろりと灰を落とした男が咥えていた煙草のフィルターを慌てて灰皿へ押しつける。

「それを捨てておけ。…貴様の娘は貰ってやる」
「ふん、…あんなのでも可愛い一人娘だ。判ってんだろうなコラ」
「下らん。子供は最低二人で文句はないだろう?自分が失敗したからと言って、しつこい」
「…判ったよ。だが急げよ龍一郎、美沙も若くないが、男だと油断してると、お前の方が先に役に立たなくなるかも知れんぞ。ある日いきなり立てなくなるもんだ。男なんて…」
「成程、奥方と折り合いが悪い筈だ。見栄を張って若い嫁を貰うからそうなる。因果応報だろうが」
「………皆には言うなよっ。お前も離婚だけはするな。良いか、腕があっても嫁に逃げられた医者は信用されないぞ!」
「己が離婚されないよう、精々気を付けろ」
「判ってら!勃起しない男なんて、再婚出来ないんだからな…!」

随分、説得力のある言葉だった。






















「は、何、え…?」

漸く息を吸い込んだ嵯峨崎佑壱が、酷くあどけない表情で口を開いた。同じく呼吸を忘れていた皆が我に返り、同じ様に狼狽えている中、彼だけは首を傾げている。

「ふむ、最近は男同士が流行っているのか?あの図書カードはお前のものだったのか。そんなに流行ってるなんて、知らなかった」
「…」
「だがお母さん、どちらにしても地味で平凡で足の短い俺ではお前を幸せには出来ない。何せ甲斐性がないんだ。バイトは花屋も飲食店もクビになるし、童貞だし…」

手遊びの様に佑壱の首輪を弄び、佑壱の膝に跨がったまま、黒で塗り固められた眼差しを細め、

「む。喉仏がデカい」
「…」
「イチ。ここ、虫に刺されてるぞ」

外した首輪を片手に、部下の喉仏を撫でた男は囁いた。
とんでもないものを見てしまったとばかりに目を逸らす他人を目撃した佑壱は、ただただ赤い目を丸め、己の喉仏に触れた感触の意味を考える。判っている筈なのに、頭が理解していない。

「いつまでボスのお尻揉んでんのかなあ、こんのド畜生っ!」

爪先に走った痛みで隼人から足を踏まれている事に気づき、伸ばした手で隼人の脇腹を掴んだ。想像以上の肉感になけなしの眉を潜めたが、確かに、伸ばした右手の逆、左手が掴んでいる肉の感触はこんなものではなかった。

「え、あ、は…?!ス、スススんません、総長っ」
「98点」
「は?!」

ぱっと左手を離せば、膝の重みが離れていく。
それと同時に自分の腹に這っていた手の感触も離れた。どうも、腹筋を撫でられていたらしい。

「ハヤ」
「ふあ?!はっ、デリシャスボス、大丈夫だった?!ユウさんに揉まれたお尻は無事?!あの人、握力おかしいから!肉離れしてない?!可哀想なボス…!隼人君が撫でてあげるからねえ!」
「腹筋を見せてくれ」

がばり。
ただでさえスラックスを下がり気味に穿いているモデルのベルトを鷲掴み、もう片手でシャツを捲し上げた俊の早業に神崎隼人は感電した。
余りに油断した為、いつもは力を込めて何とか割れている筈の腹筋は彫りが薄く、バッキバキの佑壱とは比べるべくもない差だ。どことなく俊の眉が下がり、隼人に衝撃が走る。立ち直れないかも知れない。

「76点」
「な、ななじゅう、ろく…?!」
「カナ」
「えっ?!」
「88点」

感電したまま崩れ落ちた隼人に興味がなくなったらしい俊は、健吾を膝に乗せている要の元に近寄りシャツを剥ぎ、硬直した要の頭を撫でた。

「ケンケン、85点」
「(°ω°)」

目を開けたまま寝ている高野健吾は胸元のタトゥーまで丸見えだが、そもそもシャツのボタンを殆ど留めていない為に簡単に剥がれている。
カルマ全員が犯された町娘の表情で顔を覆い、手をわきわきと蠢かせた真顔の変態は、器用に座ったまま気絶しているクラス委員長のブレザーに手を掛けた。

「な、」

そして、地味眼鏡と思われていたクラス委員長の晒された腹筋に吊り上がった目を見開き、一早く気づいた佑壱が覗き込めば、嵯峨崎佑壱の目は限界まで見開かれたのである。

「コ、コイツ…出来る!」
「野上氏、92点。筋肉に無駄がない」
「コイツは何者ですか総長!まさかアンタ、これを見込んでコイツを級長に指名したんですか?!はっ、まさか俺と結婚したくないって、コイツに惚れてるから…?!」
「溝江氏、宰庄司氏、共に70点」
「「光栄なのさ」」

全く鍛えていない赤縁眼鏡二匹は自ら腹を晒し、判断に苦しむ点数に満足げだ。彼らに至っては何点だろうと満足したに違いない。

「そ、天の君!俺の腹もお願いしますっ」
「僕も採点して下さいっ」
「シーザーにお腹を見られてしまうなんて、そんな、そんな…!是非見て下さい…っ」
「あはは、俺は何点かなー?」

そこに、今の今まで居なかった筈の声が割り込んだ。
間抜けにもシャツを捲し上げた皆が振り返り、割れた窓の向こうを見やれば、笑顔の男が闇の中に佇んでいる。

「や、」
「山田、君…」
「何か騒がしいと思って来てみたら、皆揃って何してるんだい?」

山田太陽、一年Sクラス21番。
彼は割れた窓の隙間から手を伸ばし、鍵を解錠してからゆるゆる窓を開いた。
そして、よっこいしょ、と言う呑気な掛け声一つ、足を掛けて乗り越える。

「や、俊。そんなに恐い顔して、眼鏡はどうしたんだい?」

目を笑みの形で閉ざしたまま、壁際に寄せられた机から降り立った男は片手を上げた。何つー所から入ってくるのかと隼人が呆れ半分、心のダメージから復活した瞬間に、遠野俊は笑みを浮かべたのだ。


「そうか」

いつもの神々しい笑顔とはまるで違う、全ての人間を跪かせる、笑みだ。

「お前か、時の君と言うのは」
「そうだよ。一年Sクラス21番山田太陽。…それが、どうかした?」
「実は一年分の記憶がなくなったんだ。お前の仕業かな?」
「さぁ、俺は知らないよ。誰かに盗まれてしまったんじゃない?」
「Open your eyes.」
「あはは。英語は苦手でね、流暢過ぎると判んないかなー?」
「目を開け」
「…お前さん、俺に命令してるのかい?」

目を開いた太陽が声色を変えた瞬間に、全ての人間が沈黙した。全員目を開いたまま、遠い何処かを見ている。

「日本語で俺に。国旗と同じ名を持つ俺に。何て偉そうな王様だろうね、親友に命令するなんて」
「久し振りだな王子様。俺の友達を操るなんて、酷い事をする」
「あはは。俊、俺は鍵を手に入れたんだよ」
「…」
「お前さんの罪を暴く、鍵の記憶を」

感嘆めいた息を零した太陽に、俊は瞬いた。

「知ってしまったのか。辛かったろう」
「お陰で俺はもう、何処にもいない」
「自我を離れた本性が暴走する。これはきっと、新しい物語だ」
「お前さんは『俺』の初恋の人だろ?…ね、しーくん。弓道はまだ、やってる?」
「目を開け」
「やだ」
「太陽」

動きを止めた太陽が、眼差しに憎悪を滲ませて睨み付けてくる。
彼は考えた。狂った歯車が見える。これでは正常な時は刻めないと。

「通りゃんせ、通りゃんせ」
「やめろ、遅いんだ。無駄だよ。お前さんは歌えないんだ。完璧な人間を、お前さんのお祖父さんが嫌ったから」
「此処は何処の細道じゃ」
「もう俺は何処にもいない。僕が本当の僕なんだ。だから、」
「天神様の細道」
「助けて、俊」

頭を抱えて屈み込んだ体躯に、近寄っていく。
頭痛に耐える様に小刻みに震える背を撫でて、背後で蠢く気配に目を向けた。然し構っている暇はない。

「俺、も、やだ」
「Open your eyes」
「俺の所為で狂ったなんて、知りたくなかった…!」
「お前は何も悪くない」
「…違う、タイヨーだよ。何回訂正しても、聞かなかった癖に」
「タイヨー」
「そう、だよ。俊。俺はここに居るんだ。…忘れ、ないで」

右目には憎悪、心臓に最も近い目からは、涙。
最後に不格好な笑みを浮かべ崩れ落ちた体を抱き止めてから、改めて背後を振り返る。

呆然としている灰色の目を真っ直ぐ見据えて、片腕に抱いた温度を引き寄せながら伸ばした手は、然し。

隼人の視界を塞ぐ前に、掴まれたのだ。


「…隠し事なんてもんじゃねぇな、これは。隼人に何をするつもりだよ、アンタ」
「子守唄を」
「はっ。お得意の催眠術かよ、…巫山戯けやがって!何を隠してた?!山田も仲間かよ!」
「タイヨーの声は、効かなかったのか」
「あ?!」
「そうか。判ったぞ、この子が主人公だ。俺は、この子に友達を作ってやりたかった」

山田太陽を抱いたまま、遠野俊は微笑んだ。
遠い何処かを見つめ微動だにしない皆を呆然と眺める神崎隼人は、見ている目の前の光景を信じられないまま、縋る様に嵯峨崎佑壱を見た。

「友達、だぁ?」
「俺はお前の罪を知っている」
「!」
「けれどそれはもう、この世には存在しない。きっと俺が剥奪したからだ。だからお前は隼人に負い目がある。それは、隼人に着せた罪の名残」
「な、にを、訳判んねぇ事…!」

俊の手首を掴んでいた佑壱は怒りを露に、鋭い舌打ちを放つ。その瞬間、止まっていた時間は動き始めた。

「イチ?お前は、誰なんだ?」
「はぁ?」
「耳がイイ。鼻も利く。声で紡ぐ言葉からは逆らえない。意志が強い者であれば、あるほどに」

教室に犇めく円卓の中央、教壇の前の椅子に太陽を座らせた俊は、佑壱の舌打ちで目覚めた皆を見渡す。

「ただ強制的に解くと、痕が残る。Open your eyes、」

風を切る様な口笛一つ、夢から覚めた様な表情の佑壱を横目に、

「要、健吾は死んだりしない。心配しているのは判るが、足が痺れるぞ?」
「あ、いえ、大丈夫です。行事だから、はしゃぎ過ぎただけでしょう」
「イチ」
「はい?えっと、何だったっけ?…あ、そうだ総長。結婚して下さい。アメリカなら男同士でも出来ます」
「18点、幾ら地味で平凡でウジ虫みたいな童貞でも、そのプロポーズは雑すぎる。俺は悲しいぞお母さん、エンゲージ唐揚げと明太子おにぎりをせめて5kgずつ欲しい」
「はっ!ス、スいませんでした!そうっスよね、俺とした事がそんな初歩的なミスを…!」

悲嘆に暮れた佑壱が床を殴り付けるのを横目に、静かに見つめてくる眼差しに振り返り、口元に指を押し当てた。

「次は山田君の番…って、あれ?寝てる」
「時の君、さっきまで楽しそうにしてたのに、残念だよ」
「野上君が『やまだがかり』の話なんてするから、傷ついたのかも知れないよっ」
「でも腹抱えて笑ってたじゃんか、時の君」

他人のざわめきが鼓膜を賑わせる。落ち込む佑壱を宥めるクラスメート、健吾を膝に乗せたまま笑う要のピアスが揺れている。
ただ静かに観察するかの如く見つめてくる眼差しだけは、惑わされないまま。

「あっ、猊下、山田君の腹筋は何点ですか?」
「そうだな、悪くないが…あばらが浮きすぎだ。悲しみを込めて21点」
「えっ?と、時の君は、そんなに酷いんですか?!」
「誰かタイヨーにご飯を食べさせてあげて下さい。とりあえず、ポテトサラダ5kg」
「天の君、お腹空いてるんですね」
「はい、腹ペコです。成長期なので…」

あの子は気高く警戒心が強い、シャム猫。

←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!