帝王院高等学校
荒れ狂う暴君はヘドロをも制覇する
「チィース、斎藤ですけどー」
実家の庭から隣家の庭先を覗き込み、遠慮なく声を掛ける。が、いつもならすぐに返ってくる隣家の嫁の気配はない。
近隣男性は老いも若きも心を奪われる、ふわふわ巻き毛の可愛らしい人妻。何人の男が燃え上がり、その亭主を見るなり絶望したか。
「居ねぇのかな?おーい、俊くーん」
見た目は新妻だが、実際熟年夫婦である事はその息子が実証している。外見こそ良く良く注意して見やれば父親そっくりなのだが、いつも人好きする笑みを讃えている父と、いつも人殺し宜しく凄まじい眼光で睨み付けてくる息子が、似ていると言う認識は薄い。
近所付き合いがある人間は、息子がヘタレ…いや、年相応の、近年では極めて珍しい無垢純朴な少年である事を理解しているが、やはり見た目の印象は大事だ。
近隣の中学生が、俊を「組長」と呼んでいる事を恐らく本人は知らない。幸いにも。
「ったく、昼には帰るっつってた癖によぉ。もう二時回るぞ、あの野郎」
抱えていた木箱を一瞥し、庭先を強かに濡らし続ける雨空を見上げた。
勢いは増すばかりだ。
「ちょっと、傘も差さずに何やってんだいアンタ」
「自分ちの庭で傘なんか差す奴居ねぇだろ」
「濡れたまんま中に入らないどくれよ、掃除する方の身にもなりな」
雨が降ったら水引だと、店の戸締まりをしたらしい母親が襷で着物の袖を縛り上げながら鼻を鳴らす。居候同然の家事手伝いの身としては、長男の威厳も跡継ぎの威厳もありはしない。
へぇへぇ判りました、と呟きながら投げ付けられたタオルで手早く体を拭き、睨み付けてくる母親の隣から縁側へ上がる。
「そうだ、榊から母ちゃんにって土産貰ってる。多分シャーベットじゃねーかな、ランチの残りの。冷凍庫入ってっから」
「そうかい、気を遣わせて悪いねぇ。アンタからも重々礼を言っといて」
「人手が足りねぇっつーから、週末の忙しい中わざわざ手伝ってやってんだ。礼なら俺に言って欲しいもんだね」
「はん、どんな商売も長続きしないアンタを使ってくれてんだ。お給料貰えてるだけでも涙もんだよ」
「時給800円だっつーの!」
「上等じゃないか」
ふんっ、と吐き捨てた母親に息を吐いた。脛噛りの身では、学費を払って貰っているだけ分が悪い。例え父親からの仕送りがあると言っても、衣食住は母親が居なければままならないだろう。それもこれも、母親の性格に似てしまった短気な己を恨むしかない。
「…テメェに似たから長続きしねぇんだよ、クソババア」
「聞こえてんだよ!」
殴られた。
この手の速さ、いつも喧嘩退職に陥ってしまう自分とどう違うと言うのか。
「そうそう、アンタに用があったんだよ」
「また扱き使うつもりかよ。今度は何処の電球が切れたんだ?とうとう蔵の床が抜けたか」
思い出した様に手を叩いた母親を恨みがましく睨み付け、
「そうじゃない。去年、お歳暮で鱈の胃を頂いてたろう。手間が掛かるから放ったまんまのを、昨日から仕込んで炊いたのさ」
「あ、博多の名物だろ?親父から送って来たんだっけ、あれ久々じゃん」
「残ったら勿体ないし、俊江ちゃん所に幾らか持ってってくれないか」
隣家の嫁と非常に仲が良い母が、うきうきとタッパに煮物を詰めている。冷蔵庫やら棚やらを覗き込んでいる所を見ると、他にも何かないか探しているのだろう。
何をあげても喜ぶ隣嫁は、見た目は天使だが中身は居酒屋のおっちゃんなので、女性からも好まれる。百円均一の老眼鏡を掛けたまま、甚平姿で町内会に出席する様な『おっちゃん』だ。
「ねぇ、アンタ。最近、お隣の旦那さん見たかい?」
「ヒデさん?いや、そう言えば結構見てねぇかも…」
「出張とかなら良いんだけどねぇ」
「何が言いたいんだよ?」
サラリーマンだろう事くらい判るが、余程下世話な人間ならともかく、他人の仕事のスケジュールまで聞く人間はまず居ない。
暫く顔を見ないからと言って、やれ別居だのやれ離婚だの、余計なお世話甚だしい井戸端会議には興味がなかった筈だが、
「言っとくけどさぁ、変な想像で言い触らしたりすんなよ」
「何の話だいね。馬鹿馬鹿しい、あたしゃその辺の噂好きなババァ共とは違うよ。叩くよアンタ」
「だったら何だよ」
「明け方ぐらいからかねぇ、店の準備してた頃だから五時くらいからだよ」
昨夜の残り物であるポテトサラダと頂きものの味付け海苔を、タッパと紙袋に詰めながら呟いた。こんな表情の母は余りにも珍しい。
「ずっと変な外人がうろついてんだ」
「外人?母ちゃん、差別用語だぞそれ」
「アンタ、帰って来る時に見なかったのかい?」
そう言えば、確かに外国人を何人か見た覚えがある。が、国道添いに大型家電店やディスカウントストアもあるので、旅行客が迷い込んだとしても可笑しくはない。特に気にせずに居たが、それが何だと言うのか。
「誰か探してるみたいなんだよ」
「有名人でも住んでたっけ?ああ、最近デビューした若手芸人なら居たよなぁ。何つったっけ、アイツら」
「何もないなら、良いんだけど…」
酷く歯切れが悪い。
しょぼくれた背中を一瞥し、考え過ぎだよと励まして庭先を見やった。雨はまた、勢いを増している。
いつの間にか随分暗くなった様な気がする。昼過ぎとは思えない、何かを予感させる様な暗さだ。
天神が人を惑わせる時、狐が人を騙す時。きっと、こんな暗さなのではないだろうか。
自分一人だけがこの世のものではないかの様に、世界から切り離されたかの様に。酷く頼りない気分に陥るのは、五月が近いからに違いない。
「とにかく、俺もすんこに用事あっから持ってってやるよ。シャーベットでも食えば?」
考え過ぎに決まっている。
「ぽみゅん、ひょん。にょ、ふぇ、ふぇ、」
ずぶ濡れ、と言うよりは泥だらけ、いや、ヘドロの塊が、水位と勢いを増した下水道でもぞもぞ蠢いた。ジブリ映画の温泉地を震撼させた妖怪染みた動きが、見る者を震わせる。
「ふぇーっくちょん!ぷはーんにょーん」
ざばっと起き上がった人影は、ご想像通り残念ながら主人公である。
先程までレインボーだったハイセンスな上着も今や汚泥だらけ、辛うじて黒縁眼鏡の輪郭が判るものの、真っ暗な空間ではそのくしゃみだけが唯一の存在感だ。
「ふぇ。溺れちゃうかと思ったなり…」
元よりイケメンとはお世辞でも言えない主人公、今や地味とか平凡とかオタクと言う理由ではなく、近寄りたくない。ふくらはぎ程度の水位で死にかけつつ、ぷるぷる頭を振ってみる。
ヘドロはビクともしなかった。
「はふん。落ちちゃったにょ」
とりあえず汚れた眼鏡を外し、どろどろの前髪をどろどろの手で掻き上げる。幸いにも汚泥が口の中に入る事はなかったらしいが、鼻に付く匂いは誤魔化しようがない。
「マンホールの中に入るなんて、幼稚園の時以来にょ」
然し大らかな性格故か単に鼻が詰まっているのか異臭には全く構わず、ぽいっと汚れた眼鏡を放り真上を見上げる。10キロ先の萌えも探し当てる脅威の視力(未確認)も、この暗さを前にしては膝を折るしかない様だ。
「む。…何処から落ちたのか、全く判らん」
呟いて、とりあえず壁らしきものを探り当てた。べとべとの左手でぽむぽむ壁を叩き、とりあえず歩くしかないと道なりに進む。
何せトラックの下に隠されていた闇のダンジョンなのだ。出口は勿論、入り口すらも目視出来ないとなると闇雲に進むしかない。
「とーりゃんせ、とーりゃんせ、…っと。結構、滑るな」
真っ暗な空間、足元を流れる雨水やら生活排水。お化けが出そうな気配が心許ないではないか。
「極めて非科学的な霊障が、この世に存在するわきゃねェ」
ふ、とニヒルに笑った男の膝がカクカクカカカと光の速さで震えている。完全にびびっているらしい。
「然し暗いなァ」
俺より暗い、と根暗故の独り言、遠くで凄まじい濁流の音が聞こえて来て沈黙する。とりあえず、光が欲しい。
「…携帯のライトを使おう。そうだ、そうしよう。文明の利器だ」
パカッと携帯を開いて、漸く主人公は気付いた。太陽達に助けを求めようと。今更か。
どうやらかなり混乱していたらしい。
「もしもし、お宅のオタクでございますが」
また、ドドド…と言う凄まじい轟音。これは不味い、と流石のオタクにも判った。雨の日のマンホールはデンジャラスだ。何か色々出そうな気配もあるし、このままでは自分もその内その仲間になってしまう。
水死体は死体の中でも格別に不細工な死に様と言う。不細工なのは生きてる内だけで充分だ。まだ腐乱死体の方が良い。死ぬまで腐った男だった、と葬式でスピーチされてこそ腐男子の極みだ。
「ふぇ?僕の可愛いタイヨーちゃんじゃないにょ。声が低過ぎるにょ」
受話器の向こう側から涙混じりの重低音が聞こえてきた。太陽はもっと可愛い声だった、と太陽ファンクラブ会長が眉間に皺を寄せる。だが然し、マフィアもチビる威圧感だ。大魔王すら裸足で逃げ出すかも知れない。
残念ながらヘドロ塗れだが。
「あらん、誰かと思ったら嵯峨崎先輩ですか。ふぅ。せめて可愛いタイヨーの声で癒されたいと思ったのに、こんな時にうっかり役立たずなワンコに掛けてしまうとは、…俺も年か」
自分から掛けておいて、この仕打ち。然し受話器の向こうの佑壱は、姿が見えずとも、尻尾を振り回すレトリバー宜しく嬉々として「そーちょー」を連呼した。
「何?ピナタとふたりっきり?何がどうしたらそんな美味しい状況になったんだ?今朝からの出来事を一瞬たりとも余す事なく話すがイイ。ささ、遠慮なく!」
目覚めから今までの経緯を素晴らしい文章力で語る佑壱に、ヘドロがもぞもぞ悶え、最終的には壁をガンガン叩きながらクネる。特にファーストフードの下りでは、人相悪に涙さえ浮かべていた。
『と言う訳でして…とりあえず今、マンションに向かってます』
「イイかイチ、落ち着いて聞きなさい。それはもうデートだ、婚前旅行だ。シャイな副会長からの遠回しなプロポーズに違いない」
『…何処をどう聞いたらそうなるんスか?』
「ふ、チューしたら結婚するしかない。諦めろ」
『なな何でそれを?!』
「俺の妄想力を舐めるなよ。俺の妄想はお前が副会長のファーストキスを奪う所から始まっている。ふ、去年から睨みを付けていたんだ」
キス諸々を省いて説明したらしい佑壱に、然し頭の中が腐っている主人公は勝手に妄想した。然もその妄想が9割方当たっている恐怖。
「お前と言うワンコはやはり無限の可能性を秘めていた。俺は判っていたぞ、いつの間にかキスが上手くなった副会長にタジタジ、あれ?コイツこんなに格好良かったっけ…?な、お前の心情も全て」
『………』
沈黙した佑壱に返す言葉はない。
「それはもう腐健全にも程がある、清く正しいボーイズラブだ!良くやったイチィイイイイイ!!!」
『え?何か良く判らんけども総長。さっきから何か声、響いてません?』
「気にするな!ちょっとマンホールに落ちただけだ!」
『は?な?─────は?』
「それよりイチ、お尻は無事か!無事じゃないならお赤飯を炊いてやろう!くぇーっくぇくぇ!ピナイチじゃアアア!!!」
半狂乱で地下水道を駆け巡るヘドロ、巻き上がる飛沫、数キロ離れた先の地下でメンテナンスしていた業者のおじさんが、萌えぇえええと言う雄叫びを聞いたと青い顔で証言したと言う。
「鼻血がァアアアっ、止まらないってばよォオァア、萌ぅえぇええええええぇん!!!」
ざっぱーん!
と勢いのまま光の差す方向へ突き進んだヘドロの塊は、そのまま川に落ちた。
家のすぐ裏を流れる、川と言うよりは溝の様な小川に。生活排水流れ込みまくりの、ヘドロ生産源である。
「あん?何処の不審者かと思えば、すんこじゃね?」
上から聞き慣れた声が落ちてくる。泥だらけの顔を上げれば、びっくりした表情の男女が見つめていた。
「また凄い所から現れよったなぁ、お前」
「俊君だって?!まぁまぁ、何て格好なんだいっ」
ああ、隣の呉服屋ではないか。
そうか、俊の家より店舗がある分だけ広い呉服屋の敷地内を、このヘドロ川は通っていたらしい。
「…お久し振り、です」
ぺこりと頭を下げた。
挨拶は大切だ。
←いやん(*)(#)ばかん→
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