帝王院高等学校
腐れも潜ればマンホールに落ちる
時は僅かに遡る。
太陽達が潜んだ路上駐車のトラック、太陽達が運転席側から向こう側を覗き込んでいるその背後で、彼は素早く車体の下を覗き込んだ。

「あ、にゃんこ」

可愛らしい子猫が雨を避けたのか、トラックの下で毛繕いしている。我慢出来なくなった彼はもぞもぞ尻を振りながら潜り込み、びくっと震えた子猫に手を伸ばした。

「…あはん?ぷはーんにょーん!」
「うにゃ!」

ただ、何故蓋が開いたままのマンホールがトラックの下に隠されていたのか。
それは子猫にも判らないだろう。











抱いて下さい、と言えばいつも、王子様は少しだけ眉を寄せた。

代わりでも構わないから。それがただ一つ、報われない思慕を果たす呪文。
美しく凛々しい王子様の心には、いつだって一人しか存在しない。だから取り引きでしかない。駆け引きには成り得ない、つまらない取り引き。

『虚しくねぇのか』

溜息と共に吐き出された囁き。
抱き合えても決して与えて貰えない口付け、夜明け前に解ける魔法、虚しい事などありはしない。

『酷い男だと思って、諦めてくれ』

優しいから。
とても優しく抱かれて、なのに唇は最後まで触れ合わずに。彼は同情と嘲笑を混ぜ合わせた様な悲しい眼差しで、とても優しく、最後まで。
太陽が昇る間際まで、王子様のまま。



『どうせ、俺も報われやしねぇんだ』

あんな。
たった一度のキスも許さないくせに、あんな恋に焦がれた果ての絶望染みた表情を与える人を。
恨む事が出来れば、始めから愛する事などなかっただろう。










冷たい。
容赦も遠慮もない。無いにも程がある、凍える冷たさだ。
強まった雨粒が額を弾いた。横殴りの雨、梅雨にはまだ早い卯月には余りにも珍しい。此処の所、酷く雨が強い気がする。

「…っくしゅ」

ヘルメット、愛車のバイク諸共何処かに置き去りのまま。脳では判っているのに、痺れた思考回路は麻痺したまま回復の刻しがない。
記憶の最後は、左頬を押さえる男の、俯いた顔。

「…アイツ、」

噛み締めた唇が錆びた匂いを放っている。ずぶ濡れの右手で拭って、小さく一人ごちた。

「キス魔だったんか」

ついこの間まで、軽いバードキスで狼狽えていた傲慢野郎の面影もない。百戦錬磨の王子様は、いつの間にか佑壱を翻弄するまでに成長している。
ハマっちまったか?と小首を傾げ、ならばやはり自分の所為かななどと僅かな痙き攣り笑い。これぞ有名な因果応報、英語に訳すと、

「KARMA」

笑えない。
運命と言う意訳が、仏教では『業』に変わる。全て、自分の行動から始まり為した結果だ。

「…ふっ。キスの一つや二つで動じる俺じゃねぇけど!」

舌の一つや二つ這い回ろうが、嵯峨崎佑壱が高坂日向に好き勝手許して逃げる筈が無いのだ。…と、言った所で説得力皆無には違いないだろう。

「泥酔した総長の壮絶な色気に比べれば…ふ、ふふ。あんなもん、比較対象にもなりゃしねぇ。く、くくく、9×9=86!はっはっはっカルマ舐めんなボケェ」

豪快に笑い飛ばせば、通り過ぎた自転車の運転手がぎょっとした様に振り返った。睨めば慌てて走り去ったものの、何ともなく面白くない。

「じろじろ見やがって…照れんだろ。ぶっ殺すぞあの野郎」

とりあえず、九九が81だと恥ずかしがり屋の彼が気付くのはいつになるだろうか。

「外の奴ら、イチイチ人の面を気にしやがって。…ふん、赤い髪がンな珍しいのかよ。ビジュアル系だろ、ビジュアル系ー」

一応、自分がそれなりにイケメンである事を理解している彼は、顎に手を当てながら路肩に停車していた自動車の窓ガラスでお洒落チェックした。

「うーん、俺も負けてねんじゃね?そら隼人とか裕也とか要とか健吾に比べりゃ地味かも知んねぇけど…」

佑壱には親馬鹿の素質があったらしい。見た目も言動もカルマナンバーワンである彼は、然し黒縁眼鏡だろうがもっさりヘアーだろうが、腐男子が一番だと信じて疑わないナチュラルさんなのだ。

「ふ。この角度、中々イケてんじゃねぇか?また一歩、いや3歩、俺様攻めに近付ちまったな…」

キス魔なだけで精神的にノンケな彼はそれが自滅だとも知らず、運転手が痙き攣りながら乗り込むまで暫し己の美貌に酔い痴れた。天然と言えば可愛らしいが、これではただの変態だ。

流石に恥ずかしい事をしてしまった事に気付いたらしい。
逃げる様に走り去った車からそそくさと遠ざかり宛てもなく歩き続ければ、見覚えがある図書館のエントランスが見えてきた。どうやら、敷地を一周してきた様だ。

無意識は怖い。
無意識に駐輪場に身を隠し、先程まで日向と一緒だった一角を恐々窺う。

「べ、別に、ビビってる訳じゃねぇし…」

はっ、と誰ともなく鼻で笑い強がりを吐くが、完全にビビっているのだ。恐らく、自分は。

「………居ない、みてぇだな。そ、そうか。ま、そうだろ」

殴り付けて逃げる様に駆け出した挙げ句、ヘルメットもバイクも置き去りでずぶ濡れ、気付いたら元の場所に戻っていた、なんて。
叱られて家出する小学生レベルではないか。

「こ、高坂なんかにビビってねぇし」
「ふーん」
「俺は!ファントムを取りに来ただけなんだ、そうだ、それだけだ」
「ファントム?ああ、バイクに名前付けてんだったな、お前」
「つかアイツが本読んでたら笑えっし。あの面でハーレクインとか読んでたらキモっ。マジでビビる」
「ビビってんのかよ」
「ビビってねぇよ!」
「にしては、腰が引けてんな」
「馬鹿言え、俺の尻は女だったら超難産の引き締まった鋼鉄の尻だ。弛んだ桃尻と一緒にす、」

さわさわ。
尻を這い回る感触に、ぞわっと鳥肌を発てる。


ん?
確か今の自分は、ぐるりと図書館を一周した挙げ句、こそこそ駐輪場に隠れて壁から向こう側を覗き込んでいる筈だ。雨避けの屋根がある駐輪場に。

ではこの声は、どなた?
お約束の気配がする。ああ、これが有名な何とかフラグだろうか。俊なら晴れやかに宣うだろう、恋愛フラグ。片っ端からへし折ってやりたい。

「ハーレクインなんざ読んだ事もねぇ。ま、そもそもンな様で入ったら、速攻入館拒否されちまうだろうが」

耳元で声が聞こえる。随分冷めた声音だ。怒りに満ちている気がしない事もない。

「あ…明けぬれば、暮るるものとは知りながら」

上からポタポタ水滴が落ちてきている。濡れて張り付いたジーンズの上から、尻を鷲掴まれている。これが白昼夢なら、とっとと醒めれば良いものを。
いや、目が覚めたら隣に日向が居た、なんて今朝の二の舞だけはお断わりだ。実の所、あの一瞬は本気で貞操の心配をしてしまったのだから。

「なおうらめしきあさぼらけかな。藤原道信か」
「…」
「語学の天才は百人一首まで勉強してんか、勤勉だなぁ?」

ぽた、ぽた。
腹の当たりの高さにある壁に凭れながら、微動だに出来ない佑壱の上から落ちてくる水滴と、冷笑。
振り返る勇気があれば、尻から離れない何かを振り払える筈だ。

「同じ藤原なら実方だな。かくとだに、えはやいぶきの、さしも草」
「………さしも知らじな、燃ゆる想ひを」
「その心は?」
「こんなにも慕っている事を伝えたいのに、とても言えない」

伊吹山のもぐさを燻す様に焦がれ燻っている思慕を、貴方はまるで知らないのでしょうね。
片想いのジレンマを歌った有名な一首だと瞬き、漸く逃げ出そうと動き出した体が己の意志とは裏腹に反転する。


「正解」

ずるり、と。
濡れた足場に足を滑らせ、腰から滑り落ちた。尻餅の痛みに眉を寄せれば、両脇に自転車が見える。
自転車と自転車の間、恐らく周りからは全く気付かれないだろう死角に、見上げれば濡れそぼる金髪。

「ビンゴだ、喜べや。わざわざ追い掛けんでも、テメェから戻って来ると思った」

壮絶な嘲笑を浮かべた、琥珀の瞳が、真っ直ぐ。
灰色の空は太陽を覆い隠し薄暗く、駐輪場の屋根が益々辺りを暗く染めている。夕暮れよりも暗い、けれど真っ暗ではない酷く奇妙な昼時、梅雨を待つ春とは思えない寒さと、嫌悪感で満ち満ちた湿度、張り付いたシャツとジーンズ。

「その不細工な面、何?はっ、天下の嵯峨崎君がまさかビビってんのか?」

覆い被さってくる体躯、濡れた分だけ浮き上がる皮膚の下の骨格に瞬いた。着替える時にも見た筈なのに、何だこの男は。

「…自分の立場を判ってねぇだろ、テメェ。いつもいつも勝手に行動しやがって」

荒い息遣い、まるで全力疾走でもしたかの様な日向が舌打ちした。
置き去りにすれば良いものを。元々、佑壱の我儘に付き合わせただけに過ぎないのだから。無関係の日向が、何処に行こうが止める権利など佑壱にはない。

「な、んで…まだ居るんだよ、テメー」
「テメェがバイク放って居なくなったんだろうが」
「いや、それは…そうだけども」
「うろちょろうろちょろしやがって、この馬鹿犬が」

伸びてきた手が額を弾いた。
デコピンの地味な痛さに額を押さえれば、ずるりと崩れ落ちてきた日向が胸元でまた、舌打ちする。


「…情けねぇ。数、多過ぎだろ」

血の匂い。
今更ながら日向の背後に他人の気配を認めて、ひくりと喉が鳴る。

「グレードファースト、元帥である貴方にこの人間は害であると判断しました」

重い。
錆びた匂い。
放置自転車のサドルが錆びていた。無意識に抱き締めたブロンド、久方振りに見た目障りな黒服達がロボット染みた表情で無機質に吐き捨てるのを聞いている。

「貴方はいずれルーク=ノアに寄り添い命を捧げる定め。つまらぬ行動はお控え下さい」
「その人間がディアブロの庇護下にある事は承知しております」
「ヴィーゼンバーグ如きに気を許されてはなりません。ゆめゆめ、お忘れなきよう」
「グレードファースト、警告はこれが最後です」

白昼夢の様に消えた黒服達を呆然と見送った。ああ、日向の背中からどす黒い何かが溢れている。


「高、坂。生きてっか、高坂…」
「…っ、何とか、な」
「刺されたのか?撃たれたのか?なぁ、普通の奴はやべぇんだろ?病院行った方が、」
「違ぇよ、昔の傷が開いただけだ。…アイツらは文字通り、テメェを監視して警告してっただけだ」
「昔の傷?」
「皮膚が薄くなってんだよ…」

荒い息遣い、間に合って良かったと胸元で囁いた唇が笑った気がする。

「悪ぃ、寝かせろ。…こっちは誰かさんのお陰で殆ど寝てねぇんだ」
「ちょ、おい!寝るな、濡れてんだぞテメー!濡れた上に寝た人間がどんだけ重ぇかっ、」
「っせーな、起きたら何でもしてやるから…」

くたり、力が抜けたのが判る。
何だか良く判らないが、濡れたシャツを捲って現れた見事な入れ墨に一瞬息を呑み、滲む血の量はともかく傷が大したものではない事を確認した。


「デケー傷がある」

まるで鋭い日本刀の様なもので切り付けられたかの様な、大きな痙き攣り痕。どうしたものか暫し頭を悩ませれば、自転車を取りに来たのだろう中年女性が悲鳴を上げた。
近寄ってくる気配、佑壱を見るなり犯罪者を見る目に変わったのを認めて息を吐く。いっそ自分も寝てしまいたいが、そんな状況でない事は間違いない。

「ったく、これだから…ルークの周りにゃまともな奴が居ねぇっつーんだよ」

駆けていったオバサンが余計な世話を焼く前に退散、だとばかりに日向を抱えて起き上がる。

「はぁ、とりあえずうちに連れてくしかねぇか。あー…最近戻ってねぇからなぁ、大掃除かなぁ」

本人が健やかに眠っているからこそだが、やはり横抱きは失敗ったとしか言えまい。
最近では珍しい公衆電話の窓ガラスに、赤毛の王子と金髪のお姫様。迂闊にも吹き出してしまい、自販機の商品管理をしていた業者の凄まじい視線を食らった。

「…ロードサービスに電話して運ばせるか。バイク代行なんて聞いた事ねぇしな」

マンションからならカフェも近い。日向をリビングの隅にでも転がして、夜の集会用の料理の下準備でもしよう。俊と仲直りする為には食べ物が欠かせない。


作業服、ヘルメット姿の業者がマンホールから出て来た。こんな雨の日に大変だ、などと他人事の様に考えて、腕の中の日向をマンホールに放り捨てたら不味いだろうかと考える。


「いや不味いだろ。…はぁ」

何だか幸せが逃げた気がした。

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