帝王院高等学校
鬼畜と天然とハァンな母性本能
「血圧、脈拍、血中濃度、中性脂肪値、共に異常なし」

窓辺に真紅の薔薇が飾られていた。

「レントゲン及びCTスキャンは年四回の三ヶ月検査なので、新たな診断結果は再来月にお知らせします」

懐かしい様な、全く覚えがない様な、暖かい香りがする。恐らくこれは、味噌汁の匂いだ。

「依然、意識が戻られない事を除けば、現状特に問題はありませんねぇ」

毎週毎週、同じ事を淀みなく宣う男。大抵この男は穏やかな笑みを浮かべていて、機械仕掛けのアナウンサーの様に同じ台詞を繰り返す。

「何かご質問があればお答え致しますよ、若様。先週はお会い出来なかったですしねぇ」

飽きずに毎回同じ台詞を繰り返す、その精神力には半ば感心している。

「関西からの移動が煩わしく、中々直接お会いしてお知らせ出来ず申し訳なく思っているんですよ。若様が毎週いらっしゃるものだと思い込んで、厚意に胡坐を掻いてたんですねぇ」

皮肉、嫌味、持ち上げて叩き落とす、柔らかい声音。
普通の人間ではまず有り得ない程、この男はいつも同じだった。何も彼も全て。偶然と呼ぶには出来過ぎている、何も彼も須く、繰り返している。乱れなど何処にも存在しない。

「お忙しい中わざわざお越し下さる優しい若様に、会長もお喜びでしょう。体が不自由な大奥様の名代とは言え、此処数年はめっきり面会が減っていましてね…。いやはや、駿河会長がご健在だった頃は会長の慈悲を受けた者も多かったでしょうに。
  人の情けとは斯様にも儚く脆いものでしょうかねぇ…、ああ、嘆かわしい」

正味な話、気持ち悪い。
そう漏らしたのは日向だったろうか、高坂会長だったろうか。記憶する必要がないと思った過去は曖昧だ。

「永劫変わらぬものなど然程有り得るまい」

仕掛けたイレギュラー、他愛ないない世間話が何分持つのかには、仕掛けた張本人の癖に興味がない。
ベッドに横たわる、日光から遠ざかった人の白い肌と白髪交じりの黒髪を見つめている時は酷く力が抜ける。静かな寝息が聞こえてきた。穏やかで、とても静かな心音と共に。

「60兆もの細胞の生命活動に酸素が必須だと唱えられる以外は」
「水がなくとも食料がなくとも数日は生きられる人間も、空気がなければ数分と保ちませんからね」

殆ど話した記憶はない。最後に会話したのはきっと、七歳の頃だ。
帝王院学園に籍を置くと『父の部下』が連絡した直後、直接本人へ取り次がれたらしい。

「駿河会長の存在が如何に膨大なものだとしても、大気中の20%に満たない二原子分子には到底適わないと言う証ですか」

電話越しに語り掛けてきた囁く様な声音は、居なくなった大好きな人のものに良く似ていた気がする。
初めての会話は、後にも先にもその一度限りとして終わった。次に会った時には、昏睡状態を知らせる白衣の医師と、この世の終わりだと言わんばかりに嘆く祖母の小さな背中が在った筈だ。

「…好きに解釈するが良い。私には預かり知らぬ所だ」
「おや、相変わらず頼もしい御方だ。人情などと言うものは、時として淘汰され易い」

わざとらしく声を発てて笑った男を一瞥する。肩を竦めた男は口元をゆったり押さえ、失礼、と呟いた。

「二葉には私がこんな事を言ったなんて言わないで貰えますかな?企業家の一般論が身内にも当て嵌まるなどと、とんでもない誤解を与えるのは避けたいのでね」

本人が聞いたら腹を抱えて笑っただろうか、目を吊り上げて怒っただろうか。
ただの一度も、追い出す様に中国へ放り出してからただの一度も、幼い弟へ、成長していく弟へ。会いに行こうとしなかった癖に、と。喚き散らすだろうか、それとも興味もないだろうか。

「私は二葉が可愛くて仕方ないんですよ、成人前に授かった弟ともなれば息子と大差ない」

二葉はこの長兄が苦手だ。次男にはそれなりに懐いている節があるものの、インプリティングに近い無意識の意志が働くのだと言っただろう。細胞レベルで『逆らってはならない』と、心身共に思い込んでしまう、と。言っていた。
確かに、二葉の次男は言動こそ横柄で暴力的だが、人が好い雰囲気がある。

毎月末、嫌味の様に一流シェフのフレンチトーストを送り付けてくる次男に、呆れた様な溜息を吐きながらもさもさ貪っている二葉もきっと、次兄を嫌っている訳ではない。
ただ、離れ過ぎて接し方が判らないのだろう。互いに、互いの。

「若様が駿河会長を思われている様に、私もまた二葉を愛しているんですよ。ふふ、あの子は私の天使、」

この男は気持ちが悪い生き物、らしい。何を考えているのか初対面では読み取れなかったが、この男への興味がないのだから知ろうとしていないだけとも言えるだろう。

「…これは失礼、また私の悪い癖が。良い歳した中年がブラコンだと、また姪達から笑われてしまう」

世間話は終了らしい。
この後に続くのは恐らく学園生活の有耶無耶と、帰国に対する意志確認だ。

「所で、学園で何か変わった事は?」
「然したる変化はない」

心配する素振りで探っているならまだしも、心配する素振りすら皆無の、明らかに社交辞令でしかない問い掛けである。まともに答える義理などないので、毎回同じ返答を繰り返してきた。

「…いや、それほど変わらない訳でもないか」
「おや?」

退屈凌ぎ、だろうか。
胸元の携帯が最後に震えたのはいつだろう。登録しているアドレスもナンバーもたった一人、どう言い訳した所で恐らく精神は認めてしまっているのだ。


「子猫を拾った」

可愛くて仕方ない。
つまらない興味が『つまらない』枠をとうに越えて、好ましくない領域へ踏み込もうとしている。

「子猫、ですか?確か若様は猫を飼っていらしたと記憶してますが。白い雄猫ちゃんでしたかねぇ」
「大層愛らしい、黒い子猫を」
「おやおや、それはそれは」

自由になりたい、と。
考えるくらい許される、と。自由意志を許された他人は躊躇いなく吐き捨てるだろうか。考えるだけなら、望むだけなら、などと。

可哀想な。
可哀想な。
可哀想な。
なんて可哀想な、行動力。望めば叶えようとしてしまう。興味を得たものへは貪欲に手を伸ばしてしまう。叶わない願いなど殆ど存在しない不自由な自分は、望む事すら許されない。

「猫ちゃんのお名前は決められましたか?」
「俊」
「おや、では男の子ですか」
「ああ」

可哀想な。
可哀想な。
可哀想な。
なんて可哀想な、鼓膜。

「如何なる時も思うまま、眠る間際まで自由に過ごしている」
「猫とはそう言う生き物ですからねぇ。気紛れで、気位が高い」
「メトロノームよりも正確な鼓動で私を眠りに誘い、薬品による火傷を半日で完治させ、…何かを企んでいる、愛らしい猫」

たった一度、乱れた心音を。
必死に圧し殺そうとしている心拍数を、脈拍を、喉の奥で押し戻された唾を。


「そなた、似ているとは思わぬか竜之宮。既に人為らざる私に、…酷似していると」

こんなにも艶やかに記憶してしまった、なんと可哀想な己の鼓膜。
表情一つ、脈拍一つ乱さない、感心するほど気色悪い男の乱れ一つない襟元を眺め、無意識に笑った。

「我々グレアムの最重要機密に当たる、シンフォニアプロジェクトの和名は『優良遺伝子配融合化計画』だ」
「…弱りましたねぇ、私の様な末端の日本人に聞かせられる話には思えない」
「第一次被験者は数百年前の当代男爵。人体を用いた非倫理に値する計画が外部に漏れた為、グレアムの家名は一族諸共闇へ葬られる結果となった」

一度だけ。
自由を望んで『外』へ出た。赤い塔でも、土の中でもない、灼熱の太陽の下へ。

「アレルギー無効化、あらゆる細菌・薬品に対する免疫、活性酸素の部分適用化。…これらによって全ての疾患、負傷下に於いての自然治癒力を増大させ、通常の哺乳類の数十倍の早さの細胞分裂を起こさせる」
「困った若様ですねぇ。御戯れで私を殺すおつもりかな?」
「734回試験、第一次被験者エンジェル=Y=グレアムの副作用は細胞分裂に対する抗体異常が招く、活性酸素中毒症。人の二倍の早さで成長する遺伝子異常だが、初期段階で開発されていた抗体投与により老化を回避するに成功した」
「私はまだ死にたくないんですがねぇ。二人の弟と弟嫁と二人の姪と部下を於いて死ぬ訳には、」
「第二次被験者、祭洋蘭」

初めて、この男の脈拍が乱れた。
目を細めて穏やかに笑う男の眼差しに冷酷な光が宿り、空気が凍る。

「副作用は第一次被験者より悪化していた。察するに、グレアムの血が薄い為だろう。基盤となったプロトタイプのサンプルは、元来グレアムの人間の細胞だ」
「…」
「セカンドに現れた遺伝子異常は、継承遺伝子の劣化、及び痛覚鈍麻。自然治癒力向上率は第一次被験者の70%程度にも関わらず、副作用に対する抗体は未だ発見されていない」
「…成程、これで一つ謎が解けました。つまり二葉は、子供を作る事が出来ない、と?」
「それだけではない。遺伝子配列が複雑化し過ぎた為に、複製も不可能だ。つまり、性交による子孫繁栄も不可能ならば、クローンを生み出す事も出来ない」

コンマ一秒で伸びてきた手、目を見開いた男が直後肩を震わせる。

「くは。お流石ですねぇ、ルーク=フェイン男爵陛下。私が殺せない相手は、然程多くない」
「尤も、私を殺せる人間は今のところ存在しない。殺したいと願う者が幾ら存在しようと」
「買い被り過ぎではないでしょうかねぇ」
「ならば何故、私はそなたの目の前に存在している」
「…正論だ、花丸を差し上げましょう」

ばちっ、と鋭い音と共に掴んだ腕を振り払われた。だからと言ってどうと言う訳ではない。

「ご自慢の猫ちゃんのお話、確かに承りました。会長がお目覚めになる事があれば、一言一句お伝え致しましょう」

刄の様な殺意を鎮めるのが如何に容易か判っていて、それをこの場で実行する理由も、それだけの関心も。今は見出だせないだけだ。

「いつになるかは判りませんがね」
「お祖父様、私はこれで失礼します。…どうぞお元気で」

踵を返した。
真っ直ぐ扉へ向かう間も、開いた扉を背後で閉めても。誰かが呼び止める気配はない。



「腹が、減った」

歩きながら無理矢理引き剥がした銀糸を廊下へ放り捨てる。胸元から取り出した携帯を開けば、他愛ないメッセージと写真が幾つか。

「『カイちゃんの浮気者めぇえええ!僕がカイチョーに苛められてる時に何処でナニしてたんですかっ!文庫本三冊に纏めて提出しなさいっ、さもなければ裸に剥いて公衆の面前で喘ぐわよタイヨーが!ハァン!』」

後ろから追い掛けてくる記憶するつもりもない秘書の気配、何ともなく腹を撫でながら外した仮面を、今しがた通り過ぎたゴミ箱へ振り向きもせず投げた。

「冤罪だ。ポッキー魅惑の黒い領域を独り占めしたのはお前の方だろう。俺は怒ったぞ、土産のコンソメポテチは何としても独り占めしてやる」

とりあえず返信は後回しだ。
どうせならメールのハァン!より、生のハァン!が聞きたかった。色気の欠片もないハァン!だろう。想像するだけで胸がときめく。
これが噂に聞く母性本能だろうか、母乳が出そうな勢いだ。

「もし出たら、俊のおやつに…む?」

とりあえず空いた手で片方の乳首を擦ってみる。膨らみ皆無の己のバストには固い筋肉とショボい突起しか装備されていなかった。
揉み解してもドリンクバーの様にカルピスが吹き出す気配はない。今なら出せそうな気がしたのだが、やはりただの思い過ごしだろう。

「まぁ良い。俊が孕めば問題あるまい」

エントランスを抜ける間際、突き刺さった不特定多数の視線に懐かしい男の視線が混ざっていた様な気がしたけれど。確かめる為に必要な興味も関心もやはり見出だせなかったから。


「クレープに蟹BBQとは、俺を仲間外れにして余程楽しんでいる様だな、─────裏切り者が。」

耳元に当てた受話器へ語り掛ける以上に必要なものなど、この世には存在していないと。


(必要なものと)
(要らないものを)
(見比べて淘汰した果てに)
(残ったのは満杯のゴミ箱だけ)

(肺に酸素を取り込んだ瞬間から)
(人は死ぬまで独りぼっちなのだと)



「裸に剥かれて公衆の面前で喘ぎたくなければ直ちに戻れ、セカンド」


悟ってしまったから。
(赤子でも知っているのに)

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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