帝王院高等学校
哀愁メランコリーはカルテットで
自分より幸せそうな奴が憎かった。自分より不幸せそうな奴は羨ましかった。
自分より弱い奴は出会い頭の『挨拶』で居なくなる。自分より強い相手が長持ちの秘訣だ。殴っても蹴っても消えない誰かを、殴られても蹴られても天涯孤独でも家を奪われても消えてしまえない体が探している。

殴っても蹴っても無関心な表情を崩さない男と出会った。殴っても蹴っても弱い者を見る目を止めない男とも出会った。殴っても蹴っても薄ら笑いを崩さない男は、酷く気味が悪い。

『…んだよ、こんな餓鬼にやられたのか平田は。時間の無駄だ。淫乱、殴らせろ』

殴り返して来るでもなく、唇の端から滲む血を拭った男は他人ばかり見ている。幸せそうでも不幸せそうでもない、無関心な表情だ。

『俺様が笑ってる内に土下座しろ。年上に対する態度ってもんを改めやがれや、馬鹿犬が』

小さい癖に態度はデカい、まるで捨て猫でも見る様な目で見つめてくる男は、傍らでクスクス肩を震わせる長身を睨み付けるだけ。

『相変わらず仲が宜しい事です。羨ましい事この上ありませんよ!アハハ』

殴っても蹴っても痛そうな表情を見せない最後の男は、まるで化け物のようだった。三人の中で唯一、仮面を纏うその男の素顔を見たら死んでしまうのではないかと本気で考えてしまうくらい、得体が知れない。


『シャム猫かと思えば、ただの仔犬か。弱い犬は要らない』

夜に溶けた男は囁いた。
存在感だけで他人を跪かせる、凄まじい威圧感。微かな月の光を帯びたサングラスの下、赤い赤い唇を吊り上げた男は酷く幸せそうに、酷く不幸せそうに。

『強くなる為に生まれてきた雄なら、尚更』

あのサングラスを奪い取り、素顔を見たら。あの囁く様な声音を打ち砕き荒げる事が出来たとしたら、幸せになれる様な気がした。

『あだ名は親愛の証だぞ?』
『シャム猫じゃなくて、ドーベルマンじゃないか』
『膝枕は気持ちがイイなぁ』
『風邪引いたのか』
『辛いだろう?俺が代わってやれたらイイのに』
『楽しそうだな、俺も雑ぜてくれ』
『雀のお墓の近くに家を建てよう。畑と田んぼも作って、カルマの秘密別荘にするんだ。テレビでやってた村作りみたいに。楽しそうだろう?』

自分より幸せそうな奴が憎かった。自分より不幸せそうな奴は羨ましかった。
生まれた時から独りぼっちだったら良かったのに。不幸せから幸せになれたら良かったのに。とても幸せな生活を知っている。暖かい家族を知っている。

失った途端、積み上げてきた煉瓦は一瞬にして消えてしまった。あの幸せな思い出を共有する相手はもう居ない。あれが本当に現実の出来事だったのかすら、証明する人は居ない。
最初から独りぼっちなら、死ぬまで独りぼっちでも耐えられた。涼しく寒い、ひっそり鎮まり返った霊暗室に横たわる、白い布は2つ。


殴られても蹴られても殺意を向けられても、痛いと感じる内は不幸せだと思った。殴っても蹴っても、憎悪の目が向けられている内は幸せだと思った。


『死ぬ事も生きる事も放棄した、哀れにして脆弱な子供』

その存在感だけで他人を絶望させる生き物を見た。その凄まじい威圧感は一瞬にして全てを無に還そうとしている気がした。

『気紛れに媚び甘える猫ならば、慈しんでやろう。何事にも忠実な犬には、何の興味もない』

月の光を帯びた白銀の仮面、まるで舞踏会の様だと思ったけれど違和感など感じる余裕はない。波一つない湖の様に、それは本当にそこに存在しているのか曖昧な、余りに現実的ではない声音で囁いた。

『神崎隼人』
『ハヤタ』
『か弱く脆い哀れな生き物よ』
『俺の可愛いワンコ』

ああ。あの二人に何の違いがあるのだろう。あの二人には何の違いもないと知っている。あの二人に、この世界の何も彼もが不必要に違いないと、


『頭がイイ子は大好きだ』

悲しいくらいに知っていたけれど。
だって、何の見返りもなく、こうも容易く。実の家族ですら抱き締めてくれた事なんか、なかったから。








何処かに飛んでいきたかった。
個々では生きられない人間の癖に、此処ではない何処かなら何処でも良かった。

右耳に開けたピアスホール。
青い孔雀の羽根飾り、一枚の羽根では飛び立つ事など出来ないと知っていた。片翼では飛べぬ鳥の様に。

『日本に帰りたいか』

悪魔が囁いた。
他人の血に濡れて、妖艶に笑う悪魔が誑かす様に。

『このままじゃ、お前は一生この檻から出して貰えない』

閉じ込められた鉄の檻。寒い地下室で与えられるのは日に二回の食事と、実の父親だと聞かされた男からの一方的な暴力だけだ。

『お前のペットは社長が殺した。お前に届いた手紙は、社長が燃やしたよ』

父親の警護をしている悪魔は鉄格子の向こうで血塗れの孔雀を片手で鷲掴んだまま、包帯だらけの顔に笑みを刻んで。

『俺は暫く動けない。「これ」が治ったら、祭を離れるからな』

痛々しい包帯で覆われた右目、蒼い左目に笑みを刻んだ悪魔はピクリとも動かない固くなった死骸を放り投げて、

『お前の母親はもうこの世に居ない。社長の命令だ。まだ言葉も知らない新生児を孤児院に預けたのは、命じられた人間の一人だったらしい。何を考えてかは、そいつも居ない今、知る方法はないがな』
『居ない、の』
『お前の存在を隠した罰だ。お前が見付かった日に、死んだ』
『…酷い』
『あの爆発は社長を恨んでる人間の仕業だ。お前を庇った日本人には可哀想な話だが、運が良かったな』

此処ではない何処かなら何処でも良かった。非道な父親の居ない世界なら何処でも良かった。消えてなくなりたいと思わなかったのは、初めて出来た友達に会えなくなるのが嫌だったから。

『ドイツの病院で未だに寝たきりのお前の友達は、ネルヴァの庇護下にある。権力には使い方があるんだ。…父親に良く似て、あの子供も質が悪い』

翼があれば飛んで行ったのに。最後に聞いたのはいつも冷静な親友の泣き顔と叫び声、最後に見たのはステージの上でたった今までスポットライトを浴びていた友達の、赤い赤い、体液。

『ヒロナリ=リヒト=カミュー、いや…藤倉裕也だったら判るか?随分、ミューズと友好を深めたらしい』
『…ひーちゃん、健ちゃんと一緒に居るんだ』
『朱雀の母親が裕也の母親の腹違いの妹に当たる。つまり従兄弟だ。嫁に頭が上がらない大河社長が、お前の父親に脅しを掛けてきた。…祭が大河を憎んでるのは暗黙の了解、叩けば埃が出る』
『それって、どうなるの?』

動かない孔雀。
言葉も食べ物も違う国にやって来た日、緑の目をした子供に貰った大きな羽根は今、右耳にある。初めて出来た親友に似ていると思った。従兄弟なら当然だ。

『日本に帰してやろうか。俺はあんな中国人、いつでも殺せる力を与えてやれる』
『本当に?本当に、此処から出られるの?』
『勿論、ただじゃない。ボランティアする程、俺に暇はないからな』
『…明白了(判った)。条件は?』
『家出小僧のボディーガード兼、素行調査だ。…お前は言う事を聞くだけで良い。どうだ、悪い話じゃないだろう?』

悪魔が囁いた。
固くなった死骸の嘴が咥えているのは小さな金属、冷たい死骸がこの冷たい檻の中から解放する鍵を咥えている。

『…お母さんは、僕が嫌いになったから捨てたんじゃないんだ』
『さぁ。確かめた訳じゃねぇから、真実は知らない。ただ美月が帰国する時以外、一生この檻から出して貰えないだろうよ。祭社長は美月には甘いが、陰険で性根が腐った男だ』
『お父さんが僕を殺さないのは、…美月のお蔭って。………知ってたよ』

自由になんかなれなくても良い。
何処にも飛べない人間でも良い。

『俺には何の力もねぇ』
『汚い言葉遣いだ。俺の教育の賜物か』
『俺に力を与えたら、テメェのふにゃけた面ぐちゃぐちゃにしてやる』
『おや、それはそれは、それでこそ私が育てるに相応しい。叶は、血縁ではなく実力相伝なんですよ。使えるものは憎んだ相手でも構わず、這い上がりなさい。錦織要』

でも今、此処から出る事が出来るなら。此処ではない何処かに、走って行く事が出来るなら。


『クソみたいな世界だな。』
『ふふ、また一つ賢くなりましたねぇ』

血だらけの悪魔の手ですら掴んで、冷たい窓の向こうの月へ、真っ直ぐに。











繋がれた点滴。
破裂していた内臓は漸くその機能を回復しつつあるらしいが、両手両足の指を十人分数えても足りない日数分食べ物を口にしていない自分には、実感がない。

「お好み焼き食べたい。分厚いポークステーキを贅沢に焦がしたさー」
「毎日毎日似た様な事ほざいて飽きねぇのか。肉ばっか」

液体なら口に出来ると言うドイツ医師のお墨付きを貰い、草の味しかしない液体を嬉々として注ぐ日課を得た友人は、毎日毎日メーカーが違ったり珍しい配合の青汁を見付けるなり飲ませようとする。
水の方が幾らかマシだ。

「俺、何日肉食ってねぇかもう判んないもん。毎日無愛想なツラ眺めて、男の看護士に注射されて…ぺちゃぱいでも良いから女の人を所望する!」
「六歳の台詞かよ」
「誕生日に青汁で乾杯した俺の悲しみが肉を食えるお前に判るか!」
「健康に良いんだ。それに俺も肉なんか食ってねぇ」

凄まじい爆発が最後の記憶。
吹き飛んだ大理石の柱の下に居た黒髪の愛らしい子を守ろうと、無意識に駆け出したフェミニストな足は英雄だ。
破片が腹に突き刺さっていたらしい。溢れ出たのは体液だけではなく、破裂していたらしい内臓も。他人事なのは、腕の中の初恋の相手が無事だった事に安堵して気を失ったからだ。

「…肉なんか食えなくても死にゃしねぇ」

それを目撃した人間がどんな感情を抱いたのかなんて、知りもしないで。即死を免れたのは奇跡らしい。いや、即死を免れても回復の見込みは限りなくゼロに等しかったらしい。やはり、他人事だ。

「あー、そっか。俺のホルモン見た所為でダメになったんだっけ?うひゃ」
「笑い事じゃねぇだろ!」
「こうして生きてんだから、良いじゃん」
「結果論だろ!1ヶ月も目ぇ覚まさなかった癖に!あんな血ぃ出して生きてる方がおかしいんだぞ!」
「だから、生きてたから良いじゃん。カナちゃんも無事だったんだし?カナちゃんが男だったっつーのは、ぺちゃぱいの女医さんより悲しいけど」
「巫山戯けんな!」

点滴は毎日三回、四六時中繋がれっ放しだ。ベッドの上で歩く事も食事をする事も出来ないまま、壮絶なストレスと待ち構えているリハビリの過酷さに対する恐怖を抱えて、多忙な両親と日本から出た事がない祖父母の見舞いもないまま、

「ユーヤ。俺は死ななかった。ほら、生きてんだ」

声もなく泣く、他人とも友達とも違う背中を撫でて、震える右手を掴んだ。目が覚めた時に見たのは、白衣の医者でも非情な両親でも親代わりの祖父母でもなく、エメラルドの瞳。
何日寝てないんだ、と。分厚く濃い目元の隈を撫でて、笑ったのが最初の記憶。最後の記憶では友達ですらなかった筈なのに。

「生きてんだろ。ほら、俺の心臓、動いてるっしょ?だから、何の心配もねぇんだよ」
「…」
「ユーヤの母ちゃんみてぇに死んでない。ちゃんと、生きてる」
「…んでたかも、知れねぇって…1ヶ月も動かなくて、お前…」
「嬉しかったんだ、俺。サックスが吹けてもピアノ弾けても指揮が上手く出来ても、褒めてくれる様な奴居なくなってさ。もっと上を目指せって言われるだけなんだよ」

窓の外に雪がちらついていた。
春までにはリハビリが始まり、以前の生活に戻れるのはまだ先の話だろう。気が遠くなるくらい。

「神童とか言われて、同世代がずっと年下に見える様になった。大人ばっかに囲まれてたから、可愛げねぇの」

此処ではない、白い病室の白いベッド以外の何処か。胸から下を覆い隠す白い包帯を剥ぎ捨てて、何処か遠くに行けたら良いのに。

「カナちゃん、手紙読んだかな。…もう俺の事なんか忘れちまったのかなぁ」
「…」
「誰も居ない所に行きたいっつってたよな、二人で。俺、あれ羨ましかった」
「…だったら、行けば良い」
「一人で?」
「俺も、一緒に…」
「ん。おやすみ、ユーヤ」

頭を撫でたら、宝石染みたエメラルドは瞼の下に隠れた。寝入る間際の曖昧な声音、子守唄代わりのクラシックを口笛で奏でると、忽ち健やかな寝息が鼓膜を震わせる。
綺麗なエメラルドは瞼の向こう、宝石が零した透明な雫は白いシーツが吸い取った。


しんしん、音もなく降り積もる雪が白い病室の窓すら白く染めていく。



「傷、消えねぇんだっけ…」

陽に当たらない己の皮膚の白さを最後に、目を閉じた。

←いやん(*)(#)ばかん→
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