帝王院高等学校
にゃんこにまつわるエトセトラ
目の前を、蝶が舞った気がした。
霞掛かった乳白色は灰色に酷似している。視界が徐々に色褪せていく、過程。これを自分は知っている。


桜舞う春先。
18の誕生日を迎えた翌日に。出会ったのは、何。

他愛ないもない人間を見た。
滲む様な笑みを刻もうとする唇、傍らの人間へ注がれるそれに焦れた足が真っ直ぐ、真っ直ぐ。


灰色から億万画素の艶やかな世界へ変わりゆく過程を、ただ呆然と受け入れながら辿り着いたのは、色鮮やかな桜吹雪の下だった筈だ。


『先輩?』
『じゃ、カイちゃん』
『しじみより、あさりの方が好きです』

「記憶、が」

プシュっと軽快に窒素が抜ける音、甘ったるい炭酸の匂いが鼻を擽った。

『カイちゃんはイケメンさんね』

押し上げたプルタブを押し戻し、煩わしさから外した仮面を足元へ転がす。目元だけを覆うそれは、重苦しい前髪が隠していた筈だ。
霞掛かった視界に零したのは舌打ち一つ。苛立たしげに掻き上げた髪は、庭を散策していた他人の不審者を見る様な目を驚愕へ移り変えた。

「…曖昧だ」

いつから曖昧なのだ、と。
繰り返し考えてきた。答えに届きそうになると毎回、興味を無くしてしまう。まるでそう仕向けられたかの様に。
艶やかな億万色の世界に慣れていたから、忘れていたのだろうか。

「何を、」

忘れさせられたのだろう。
何を忘れたのかさえ思い出せない、その癖、忘れている事だけは知っている。ただの勘違いと言うには無視を続けられない違和感。
気付かなければ一生、それこそ気付かないだろう程度の、然し気付いてしまえば忘れられない程度の、違和感。

何かを約束した筈だ。
袴を纏う黒髪の、あれは大人だっただろうか。もしかしたなら子供だったかも知れない。


「あの日、は。いつだ」

何故こんな事を思い出したのだろう。
違和感、思い出そうとすると止まらなくなる癖に、答えに届きそうになると興味を無くしてしまう、パラドックス。


蝉が鳴いていた、気がする。
ならば夏。
夏。黒髪。二葉がソフトクリームを食べていた。黒髪の、陽が当たると茶に染まる目をした子供と二人。


『お前、何やってんですの』

あの頃の日向は大層愛らしかった。存外大人びている子供は、然し舌足らずな日本語がミスマッチで益々愛らしかった。

『蚊取り線香を内側から灯すとどうなるのか調べていた』
『ふーん?』
『すぐに火が消える。これは効率が悪い』
『お前、変な奴』
『そうか』
『そうだ』

傲慢で臆病で計算高い猫の様な美しい子供に、然程珍しくはない宝石をやった。
大して嬉しそうでもなかった癖に、今やその宝石はあの子供の手にあるらしい。泥塗れで泣き腫らした目をした日向が、湯船で延々愚痴っていた。

『あんな奴にあげるなんて馬鹿ですよ!あんなチビっ、私だって遊んであげませんです!』
『そうか』
『お風呂にひよこなんか入れないで下さいです!それは女の子の玩具なんですっ』
『そうか。可愛いと思うが』
『可愛いけど…駄目っ』
『そう言うものか』
『男は男らしくするもんです。マミィが言ってました。私はダディみたいな大人になるですざます』
『そなたは組長に良く似ているから、なれるだろうざます』
『…ざます?』

思い出す必要性。
皆無だと算段するシナプス、電力も化石燃料も必要としない、蛋白質のCPUは絶えず稼働している。
灰色の世界でも、虹色の世界でも、等しく、いつも。


冷たい金属が水の粒を滴らせた。
押し上げ押し戻しただけのプルタブは沈黙し、甘ったるい酸の匂いは当初より格段に薄まっている。


「おや、こんな所においでなさいましたか」

必要性を考えた。
視界がフルカラーである必要性を考えた。結局、弾き出されるのは皆無だと言う、結果論。


(あの日は)
(酷く暑い、炎天下で)
(網膜を絶えず焼き続けた)
(核融合を繰り返した果て)
(灼熱のエナジー)
(大気圏のレンズを通り、人へ襲い掛かるガンマ線)


色など必要ない。艶やかな世界など必要ない。
目など見えずとも生きるには何ら妨げはないと、知っている。


(覚えているんだ)
(思い出そうとすると誰かが邪魔をする)


「学園長にお会いなさいますか、坊っちゃん」

灰色の世界の遠い何処かで、蝉が鳴いている気がした。



(鼓膜を木霊する)
(弾む様な柔らかい猫の声)
(愛しい、猫の声)



(誰か俺を殺してくれないか)




(私があの子を、傷付けてしまう前に)








「すいません、息子が帰ってくるみたいで…」

意気揚々と戻ってきた男の浮かれ具合に肩を竦め、燃え尽きたフィルターを灰皿に放る。

「確か西園寺に通ってんだっけか?あの頃はまだ入学してすぐだったろ」
「いや、そっちじゃなくて長男の方です」

トロイの木馬。
脳裏を過った単語に眉を寄せ、組んでいた足を崩す。

「嵯峨崎から聞いた。…テメェ、我が子を人身御供にしてるらしいな。グレアムにバレたら、何されるか」
「僕の在籍履歴はありません。つまり、存在証明がない」

嶺一さんにも話して居ませんけど、と。笑った男の表情が酷く痛々しかった。

「どう言う意味だ、そりゃ」
「…あの日、僕は秀皇と僕の存在が学園のサーバーから消されている事に気付いた」
「んだと?」
「その前の年でした。実家の株が急速に沸騰して、僕は誰かの罠だとすぐに悟りました。結局、身内が外資の口車に乗って、社の実権を握る為に画策していた事が公になりかけて、父を殺そうとした訳ですが」

伏せた双眸、携帯をポケットに放り込んだ男が髪を掻き上げる。


「十中八九、キングが仕組んだ事でしょう。父は入り婿ですが、曾祖父の代から続くうちは業界の5割シェアを持ってましたから」
「成程、…手っ取り早くお前を追い出すつもりだった訳か」
「実家が持ち直して、大規模リストラの実行者だった俺は随分恨まれました。だから両親に反抗する振りをして、絶縁させた」

後はご存じの通りです、と。
囁いた男は自嘲めいた笑みを浮かべ、息を吐いた。

「帝王院がお前を囲ったのはその頃だな?」
「ええ。学園の中にも、我が社で働いていた社員の子供がいましたから。何処で命を狙われるか判ったものじゃない」
「…はぁ。ただの古びた時計塔をセキュリティ万全の砦に改築して、籠の鳥か」
「違いますよ。全て計画通りです。僕は秀皇を愛していましたから」

ぱちくり、と。
瞬いた自分は随分酷い顔をしていただろう。あーあ、言っちゃった、などとそらとぼけながら肩を竦めた男は壁に背を預け、

「仲が良いってだけで、付いていったりしません。僕は酷く臆病で計算高い嫌な男ですからねー。本心は、一生あのままスコーピオに二人きりで十分幸せだったんです」
「…退廃的なんだか、前向きなんだか。俺にゃ、耐えらんねぇな」
「本当は、ね。秀皇の存在が消えてる事に気付いた時、醜い事を考えました。このままキングが彼の全てを奪ってくれたら良い、そうしたら彼は僕に頼るしかない、ってね」


サラが羨ましくて仕方なかった。
生まれてきた子供が憎くて仕方なかった。
だから可愛がって可愛がって、神威が懐けば秀皇を奪われずに済むと思いました。


続けられた台詞は懺悔の様だ。
笑いながら次々に吐き捨てていく男は漸く、短い溜息を零す。疲れ切った表情、然し何処か安堵が滲むそれは罪を自白した犯罪者に似ている。


「日に日に、お腹が大きくなっていく俊江さんと。安普請のアパートで暮らす秀皇が、結婚を反対されて駆け落ち同然だった癖に幸せそうで。仲間外れになったみたいでした。
  秀皇が居なくなったら僕にはもう何も残らない。秀皇しか要らなかった僕には、何も残らなかったんです」
「そうかよ」
「半分自棄。本当にどうでも良くなって、一人じゃあんまりにも淋しくて、毎晩色んな人と寝て別れてを繰り返して…最後に。辿り着いたのは、文通相手だった今の妻の元です」


酷い雨の日でした。
多分、熱があったんでしょうね。
誰も居ない部屋に帰るのも、知らない女を抱くのも面倒で、びっくりした顔の彼女が面白かった。
すき焼きの匂いがしました。豆腐と蒟蒻と白菜だけのすき焼きですよ、僕あんなの初めて見ましたよ。

でも、お義父さんが注いでくれたビールが美味しくて、彼女がよそってくれたご飯の茶碗が麻雀の牌の柄で。
凄く幸せそうで羨ましくて温かくて憎らしかったから、


「何処にも帰れないって、ね。馬鹿みたいに泣いた様な気がします。趣味が合う友達くらいにしか思ってなかった彼女に、思わせ振りな態度を取っておいて良かった、くらいにしか思ってませんでした」
「あー、お前のカミさん、悪くはねぇけど…あれだ」
「特別美人って訳でもないんです。ええ、判ってますよ。普通の人なんです、特別秀でた所のない、平凡な」
「好みじゃなかった相手と最終的に結ばれるっつーのは、俺と同じパターンだな。うちの女房なんざ、最初男だと思って口説いたかんな」
「死にたいと思ったのは一度だけ。秀皇が違う人を選んでも考えた事なんか無かった癖に」

酷く近くで携帯が鳴った。

「新生児室で小粒な赤ちゃん二人抱えて、あたし幸せだわ、なんて言われた日には、彼女を幸せにする事が贖罪だなんて思いましたよ」

聞き慣れない着信音に反応しなければ、目の前で背を向けた男が片手を上げる。

「傲慢にも程がある。それこそ幸せ者の考えだ。だから僕は、今日からもっともっと幸せにして貰って来ます」
「良い嫁貰ったみてぇだな。うちのアレクには適わんけどよ」
「うちの嫁、Fカップなんですよねー」
「ぐはっ」

迂闊にも心臓を押さえた。
漸く沈黙した軽快なメロディー、ドアから一歩出た男が再び携帯を取り出して首を傾げている。

「あれ?小林君かと思えば違うみたいだなー。先輩、もしかして携帯鳴りませんでしたか?」
「あー…、俺かぁ?」

開いた携帯を見つめ今度こそ血を吐いた。慌てて掛け直したが、自分の携帯電話は着信拒否プレイ中だ。

「じゃ、僕はこれで」
「待て山田!頼む、携帯貸してくれ!」

ひなひなの着信履歴など何年振りだろうか。とりあえずこの携帯は買い替えて、機種ごと永久保存しよう。






「出やしねぇ」

面倒臭いとばかりに携帯をしまい、漸く地下に到着したエレベーターから降りる。

「マジ遅ぇ、待ちくたびれた。股下3センチっスかー?」
「こちとら投身自殺なんざしねぇんだよ、テメェみてぇな野性児と違って」

ヤンキー座り上等の背中が、一台のバイクの前で欠伸を発てているのを見た。
昨日は夜中までオセロに付き合った日向もまた睡眠不足だが、水と間違えた佑壱が風呂から出るなり日本酒を煽り、絡みながら泣くので仕方ない。

とりあえず風呂に放り込んで、ほぼ使わないキッチンで屋台仕込みの焼きそばを作り、テーブルメイクを果たし、振り返ったら素っ裸の赤毛が泣きながら一升瓶を呑んでいた有様だ。
実家関係の知人から贈られたものだが、基本的に洋酒しか呑まない日向はその存在すら忘れていたくらいだ。時々減っているのは恐らく、ザル通り越して鉄の肝臓を持つ二葉が持っていったのだろう。

とにかく、泣きながら絡んでくる酒癖最悪の佑壱に甲斐甲斐しく焼きそばを食わせ、焼きうどんが良かったと嘆く背中を宥め宥め、青海苔が欲しいと言われればバトラーを呼び、まだ眠たくないとしくしく泣くのでオセロをやった。
チェスでは日向が完勝してしまい、佑壱が泣いたからだ。

怒涛の果てに、酔い潰れたのか泣き潰れたのか、勝手に日向のベッドにもぐり爆睡したのは赤毛。
日向が何万回舌打ちしたのかは、数えるだけ馬鹿らしい話である。

「車待たせてた筈なんだが…」

何処にもそれらしい車がないと辺りを見回した日向に、座ったままの佑壱が親指を立てた。

「追い返した」
「あ?」

キラッと白い歯を覗かせる小麦色の肌を呆然と見つめれば、


「苛々した時はやっぱバイクだろ☆」
「………は?」

誰か、犬語が判る通訳を呼んでくれ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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