帝王院高等学校
炭酸ばっか飲んじゃいけません!
長閑な雰囲気だ、と。
取り留めなく息を吐けば、肩から僅かに力が抜けた。

「?」

何にこうも身構えていただろうかと歩を進めながら、擦れ違う人間達が向けてくる不躾な視線に気付く。

「…にあるのは間違いねぇ」

正面玄関の自動ドアを前に、光を反射させる金属が映っていた。それを前にピタリと足を止めれば、談笑しながらドアを潜り抜けた男達が、ほんの僅かばかり邪魔だと言う視線を寄越す。

「その所為で息子に白羽の矢が立ってんだよ」

無意識に仮面を掴んでそっと端に身を寄せると、彼らは真っ直ぐ喫煙スペースに消えた。

「今度18になるからか、最近マジで煩くてな」

この距離ならば、例え暴風雨の中だろうが嫌でも聞こえてくるに違いない。この距離から聞き耳を立てられているとは気付きもしないだろう彼らは、

「それに口利きしたのが当代グレアムって訳だ」
「神威が…」
「叶ん所の二葉はともかく、アレは流石の俺にも扱い難い」

右手、冷たい金属の内側はほんのり温かい。左手、シャツのボタンを外し取り出したのは首に掛けた三つ編みの毛糸だ。

『はいっ、プレゼントなりん』

高価なものは何を買い与えても大して嬉しそうではない男が、まだ空けていない段ボールの整理中にそれを差し出してきた。
レインボーの毛糸を編み込んだ紐が付いた、真っ白なガマグチ。目聡く気付いた二葉は「似合いませんねぇ」と一笑したが、日向だけが酷く羨ましそうな目を向けていたと思う。二葉以上にポーカーフェイスな男だ、他の誰も気付いていないに違いない。


「俊の機嫌が悪かった」

いつか、眠る前に俯せで読書していた俊の背中に覆いかぶさり、一緒に読み更けた小説。普段からは想像も付かない冷めた声で、彼は呟いた。

『アキトの髪を掴んだ手は傲慢に彼を引き寄せ、痛みに目を閉じたアキトの唇を貪った。…こんな萌えシチュ、中々ないにょ』
『これは萌えになるのか?』
『俺様攻めですもの、ちょっとくらい意地悪しなきゃ萌えないなり』

抱き締めるとすっぽり収まる背中。
少しばかり体温が高いそれは、まだ肌寒い夜には酷く心地が好い。眼鏡を掛けたまま気付かない内に眠ってしまう俊の、寝顔は酷く可愛らしい事を誰か他に知っているのだろうか。


無意識に三つ編みにした髪を、ガマグチから取り出した輪ゴムで適当に結い、一纏めにして団子をこさえる。
いつかの朝食時に、佑壱の髪をセットしてやった俊が可愛いと言った髪型だ。俺もそれが良いと言えば、育毛剤をそっと差し出してきた。自ら切り落としたものを、後から悔いたのはあれが初めてだ。

「雑音が増えた」

次々に正面玄関から出てくる看護士や患者達が、ぎょっと振り返っては頬を染めていく。
外した面をガマグチに突っ込めば、財布より大きかったそれは僅かだけはみ出した。

ショーウィンドウに映る、飴色の双眸。陽を帯びて煌びやかに輝く白銀の髪、いつか見た悪魔に酷似した顔。
人々はこれを見ると心拍数を加速させ、動悸息切れを起こすのだと医者染みた台詞を宣ったのは二葉だった気がする。

「セカンドは、俊に付いていったのか」

秘書の癖に、などと。
一瞬でも考えた自分に瞬いた。二葉に何かを強いた事などなかった筈だ。祭が忠誠の証に差し出してきた子供に、何かを強制した事など、ただの一度も。

「何だ、これは」

急速に全身が冷えた。
軽い目眩。幼い頃、日差しを直接浴びた時の症状に似ていると、足を縺れさせながら自動ドアを潜った。

「マジェスティ」

先に受付を済ませて来たのだろう部下が、怪訝げな声を出している。常に顔を隠していた男がふらふら素顔で歩いていたら、そんな表情にもなろう。

「お祖父様は」
「駿河様への面会は正午からです。医師が診察中だとか、暫しお待ち下さい」
「セカンドは」
「閣下はあのまま出発なされた様ですが、呼び戻しましょうか?」
「いや、良い」

不躾な視線。
誰もが頬を染めて恍惚めいた息を吐いている。喉が渇いたと思った。待合室へ向かう部下の背中には構わず、普段全く使わない財布を取り出した。
漆黒と黄金のカード、紙幣はそう使わない為に然程入っていないが、硬貨は一枚も入っていない。元より紙幣を入れる為だけのデザインなので、小銭を入れるスペースがなかった。

紙幣は全て、ユーロ札だ。
最後に財布を使ったのはいつだったかと首を傾げ、自動販売機すら使えない我が身に笑った。
学園では学籍カードさえあれば事足りる。大抵、俊が買ってくれた筈だ。奨学金貰えるって書いてあったから帝王院を選んだ、と宣う庶民の子は、買い放題だからと言って無駄遣いはしない。

ただ、食堂での食事の時やジュースを買う時はいつも、理事長有難うございます、と。頭を下げていた気がする。
理事長はきっと優しい、理事長はきっと足が長い、と。興奮した様にまだ見ぬ理事長を褒める声は、常に意味不明な感情を揺さ振る。


あの男は悪魔だと。
あの男は帝王院財閥を乗っ取り、正統後継者を追い払った悪魔だと。何度、つまらない事を吐きそうになっただろう。
あの男が奪ったものは全て奪い返すのだと。あの男から爵位を奪った自分が、どれだけ努力してきたのかと。

呑気に両親の話をする庶民相手に、何度。自分は母親の顔すら忘れて、自分は父親だと信じて疑わなかった人の顔さえ満足に知らない、などと。
八つ当たりめいた事を吐き捨てて、可哀想だろうと同情を買おうとしただろう。

「どうかなさいましたか」

急速に全身が凍えた。
いつからこんなに、いつからこんなに脆い事を考える様になったのだろう。いつからこんなに、いつからこんなに愚かな思考を許していたのだろう。

「こんなものがどうかなさいましたか?」

自動販売機に眉を寄せた男が首を傾げた。ああ、そうだ。缶飲料など、飲もうと思った事もない。
執務室には紅茶好きの日向のコレクションも、給湯室もある。命じるまでもなく誰かが定期的に淹れてくれる。自室では呼べばバトラーが運んでくる。

「…セカンド」
「マジェスティ?」
「セカンドなら用意している筈だ。私はあれの、神経質なまでに用意周到な所が気に入っている」

皆が口々に貴方は完璧だと言った。昔から絶えず、二葉すら貴方は完璧だと言う。
たった120円の小銭すら持たない、たった18年生きただけの動物を。貴方は神だと、すべからく全ての人間が。

「失礼致しますマジェスティ、学園から要請が入っておりますが」

恐らく二葉を呼び戻そうとしていた男が、携帯を開くなり宣った。

「あそこに、何があると言う」
「は?」
「私はただの人間だ。神などと言う、不確かで不明瞭な森羅万象の主ではない」

ゆらり。
振り返れば、怯えた表情で後退った男の肩が震える。

「奪われたものは未だあの男の手中だ。ノアが我が手にあろうと、ネルヴァの様にあの男を支持する愚者が巣食う限り」
「陛、下」
「私が求めるものは理事長代理などでも、チェスの冠でもない。奪われたものを取り返し、あの男の息の根を止める為だけに生き長らえているに過ぎない」

恐怖を滲ませた男はもう、声すら出ないらしい。興味を失ったとばかりに目を離し、羨望めいた目で自動販売機を見上げる。
金の悪魔を見たあの日。いつもいつも父親を虐げていた声を、包帯の下で何度殺してやろうと思っただろう。

「あれが悪魔なら、私は死神だ。私は必ずあの男の命を奪い、…三人の恨みを果たす」

絵本を読み聞かせ、たまに、包帯を外して麻雀を教えてくれた父親。
見付かったら怒られるから二人の内緒ね、と。笑う人は、幼心にも美しい人である事が判った。ただ、ステンドグラス越しの陽光が余りに眩し過ぎて細部までは覚えていない。だからこそか、原色に近い濃い色の絵本が多かった。

短い時間しか帰って来ないもう一人の父親は、部屋に居る時は大半キーボードの音を響かせていた。彼が居る時だけは悪魔がやって来ないと気付いたから、何処にも行かなければ良いのに、と。もう一人、最後の父上に抱き付いたまま、何度願っただろう。

自分には空と同じ名を持つ綺麗で優しい父が居た。
自分には、ヒデタカと言う名を持つ二人の父が居た。


ヒデタカの黒髪は綺麗だね、と。
笑う人は、決して彼らに悪魔から受けた暴力を口にしなかった。包帯の下でも判る、聞くに耐えない罵倒も、肉を殴る音も、何かが壊れる音も全て。二人の内緒だよ、と。悪魔が去った後で彼は言ったから。


誰にも言わなかった。
たった二歳の子供に出来る事など皆無に近かったから。唐突に訪れた別れの日、悪魔が美しい人のシャツを引き裂く男を聞いて。
涙混じりの悲鳴を聞いて、初めて。生まれて初めて、いつか読み聞かせられた『死んだら人は動かなくなる』と言う絵本を頼りに、悪魔を殺そうとした。

投げ付けたのは麻雀用の牌がぎっしり詰まった箱。目は見えなくとも、動物染みた聴覚があったから。それが真っ直ぐ悪魔に当たった事は判った。

神威、と。叫んだのは優しい父。
やめろ、と。叫んだのも優しい父。
吹き飛んだ体、急速に全身を支配する痛み、そこで初めて、女性の声を聞いた。

『おやめ下さい陛下っ、あの子がっ、私達の子供が死んでしまいます…!』

また。
肉を打つ音、短い悲鳴、恫喝する悪魔の声、駆け寄ってきた誰かに抱き締められた。甘い甘い、花の薫りは優しい父のもの。白百合の君と呼ばれていたと言う人は、それを言うと不機嫌になるらしい。女々しい名前だと、刺々しく呟いていたのを知っている。


『何をなさっておいでですか、帝都兄様』

凍える低い声を聞いた。

『貴方が大空に手を上げていた事には気付いていましたが、…神威にまで』

いつもいつでも、冷静を失った事などなかった筈だ。あの人のあんな声を聞いたのは初めてで、吠える様に唸ったもう一人の父親に、悪魔が恐怖を滲ませた声で罵倒した瞬間。
遠ざかる悪魔の声を聞きながら、割れたステンドグラスの向こう、血の様に赤い月を見た。

お前は誰の子だ、と。
問い掛けに答える事は出来なかった。絵本を読み聞かせてくれる人、眠る時には必ず擦り寄ってきてくれる温かい人、軽快にキーボードを叩きながら時代劇を見る人、そのどれもを父親だと信じて疑わなかったから。

一瞬の躊躇に、まだ春遠い2月末、初めて見た父親は握り締めた硝子片を振り上げた。
滴った赤い水滴が降り掛かる光景を、ただ。


見つめるしか出来なかった時に。


「父上に会いたい」
「か、畏まりましたっ」

逃げる様に立ち去った人間。
きっと、あの神と呼ばれる悪魔にでも連絡を取り付けるつもりだろう。そして、あの厳格な第一秘書の門前払いだ。
二葉すら顔を知らないらしい末端の、それも日本人の補佐秘書如きが。退いて久しいとは言え、先代男爵の第一秘書にまで連絡を付けられるか否か。考えずとも、答えはノー。

心の中では愚かだと呟いて、唇は可哀想にと囁いた。


「おい」

背後から他人の声。
誰だと振り返っても、そこには誰も居ない。

「買うのか買わねェのかはっきりしやがれ」

酷く苛立った声音が下から。
覗き込む様に見上げてくる大きな瞳に気が付いて、胸元くらいにある小さな頭へ目を向けた。

「デケェ癖にぬぼーっと突っ立ってんじゃねェよ、外人が」

ゲシッと蹴られ、ああ成程、自動販売機に用があるのかと身を脇に寄せる。ちっと舌打ちした女性は、可愛らしい顔にやさぐれを滲ませて睨み付け、小銭を機械へ放り込んだ。

「やっぱ落ち込んでる時にはコレだよなァ。アリィって炭酸飲めたっけな…」

ガタンゴトンっと立て続けに落ちてきた二本品を何ともなく見つめる。屈み込んで取り上げた彼女と不意に目が合った。

「んだ?コーラ欲しいんか?」

頷いて、ふるふると首を振る。いつも俊が飲んでいる黒炭酸の缶だったから、見つめただけだ。

「悪ィな割り込んで。そっちも買うつもりだったんだろ?ちィっとばかし苛々してからよォ」
「お金がない」
「貧乏留学生かィ」

酷く気の毒げに見つめられ、俊以外には久し振りだろうノイズとは思えない声音に瞬いた。

「イイってイイって、俺も昔は留学してたからよ。お主も苦労してんだなァ」

ぽいっと飛んできた缶を反射的に受け止める。しゅぴんと親指を立てた人は奢りだとニヒルに笑い、


「色々あんだろうけど、最後まで諦めんじゃねェぞ」

まるで春の太陽の様に、暖かく快活に笑った。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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