帝王院高等学校
ラボは研究室でございます。
「お帰りなさい、アダム」

鈴の音に振り返り、口にしていたカップをテーブルに置いた。随分楽しげな白猫の尻尾を眺め、息を吐く。

「また会ったのよ。秀皇に良く似た、彼」
「みゃう」
「秀皇みたいに、…いえ。心療内科医だった私の父の様に。催眠術を使っていたわ」

時期には早い薄オレンジ色のカーネーションの花束も、色鮮やかな砂糖菓子も。優しい孫からの贈り物だ。

「神威は、とてもとても可哀想な子なのよ。だからアダム、神威に優しくしておやり」
「ゴロゴロ」
「貴方を拾った、優しいあの子を」

膝の上で撫でてくれと催促する鼻先に笑い、手を差し伸べた。

「ねぇ、アダム。私の寝付きが悪い事は、貴方と旦那様しか知らないわ。だから秀皇の催眠術はね、あんまり効かないのよ」
「みゃー」
「…今度、旦那様のお見舞いに行きましょうか。私はもう随分お婆ちゃんになってしまったけれど、駿河様の妻には変わりないもの」


ざわり、ざわり。
吹き抜ける風が葉桜を攫っていく音が、子守歌の様に。









『悲しい事を言ってはいけないよ』


『カエサル、君には実に様々な可能性があるのだから』
『物分かりの良い顔で諦めてはいけないよ』



『カエサル』



『私の大事な生きる宝石』
『焦らずともきっと見つかるさ』
『何せ人生な限りなく長いのだから』
『笑ってごらん』





『私は君の笑顔を見てみたい』







ざわざわ、ざわざわ。
騒ぎ立てるのは木々の囀りか、人の脈動か。呆れるくらい晴れた空の南側が、真っ黒な雲で覆われている。


「僕、見ちゃったんだ」

至極幸福そうな笑い声、
潜めた声音に集る人の群れ、
誰かが擽る様に指を躍らせて。

聞き耳を立てる他人に、宣うのだろう。


「陛下が、…アイツの傍に居るのを」
「またアイツなの?」
「そうだよ。馬鹿な光王子親衛隊はね、全くの見当違い」
「柚子姫は所詮、箱入りの世間知らず…」
「クスクス、じゃあ、アイツを消さなきゃいけないね…」
「必要無いもの。…どうせ、アイツは選定考査で消えるから」
「そうだよ。早いか遅いかの、違い」
「馬鹿な奴らが山田太陽ばかり見てるなら、」

ざわざわ、ざわざわ。
騒ぎ立てるのは黒灰に染まりゆく大気の唸りか、人の醜い欲望か。

「僕達が、アイツを生け贄にしよう」
「弱点は判っているの」
「アイツは、………泳げないんだって。」



何かが黒く染まっていく。












腹が痛い。
腹が痛い。
腹が痛い。
腹が痛い。
腹が痛い。







「坊っちゃま」


瀟洒な造りのオラクルを掛けた燕尾服姿の老人を見やり、押さえていた腹から手を離す。
幾つかの箱と紙袋を携えた背後の従者達に何事かの指示を出した彼は、素早く丁寧に広げた服を羽織らせてきた。

「本日はおデートと伺っておりましたので、万一の為にご用意致しておりましたものもお持ちしました。
  坊っちゃまはお背も高く優雅な物腰でらっしゃいますので、ドレスコートは勿論、大人しめの色合いのカジュアルなものも選んで参りましたが、」
「爺」
「おや、お気に召されませんでしたかな?こちらのジャケットなど、」
「腹が痛い」

幾つもの衣装を手に佇む従者達を手で指し饒舌に語っていた老人が、沈黙した。
ぱちくりと瞬いた人が素早く近付き、無表情の主人を見上げ腹へ手を伸ばす。

「お腹ですと?よもや新種の毒でも召し上がられましたか?まぁ坊っちゃまには1000種の対毒免疫がございますけども、拾い食いはいけませんと爺は毎日申しておりますのに。幾ら珍しいからと言って迂闊に物を口になされてはいけませんよ、美味しくなかったらどうしますか、松茸も生で食べるのはお勧めしません。そもそも坊っちゃま世界を統べるグレアムの男爵で、」
「食したのは若芽の味噌汁でふやかした乾燥麺だけだ。豚骨味と言う」
「何と。それではいよいよ坊っちゃまもインスタントデビューなされたのですね、ああ、爺は哀しみながらも益々頼もしく思います、バーモンドカレーも是非お試し下され、爺はあれが好きでしてな。庶民の衣食住を知ってこそ人類の頂点に立つに相応しい王だと大変誇らしく、」
「今だけではなく、ずっと痛い。腹の奥が裂ける」

饒舌過ぎる老人を制すでもなく、無表情のまま宣った男は僅かばかり顔を伏せた。何となく猫背気味な主人を見やり、何か閃いたらしい人はテキパキと着替えさせてやりながら、

「うーむ。
  少々お尋ねする事をお許し下さいますかな。ルーク坊っちゃま、お腹は四六時中痛みますか?」
「違う。時間は様々だが、傷まない日もある」
「それでは痛む前後に何をなさっておいででしょう、ストレッチなりとチョコレートフォンデュ大食いなりと」
「先程はお祖母様に朝のご挨拶をしただけだ」
「ふむ」
「半月前になるだろうか。一年Sクラス山田太陽が宣うに、嫉妬だと言う。私にその様な感情は存在しない」
「ルーク坊っちゃまが嫉妬ですと?日本語で言う、ヤキモチですな」
「セカンドの処方した胃薬では治らん」

むむむ、と、神威と同じく猫背と言うより腰が曲がっているだけの老人が顎に手を当て、にこりと満面の笑みを浮かべた。

「やはり間違いありません。それは、恋ですな」
「故意だと?」
「ええ、恋でございます。如何様な薬も手術も効かぬ、不治の病ですぞ」
「故意などで痛む筈がなかろう。そなた、私が偽りを申したと言うか」
「ほっほっ、日夜摩天楼の婦女子を侍らかせていたプレイボーイとは思えませんな、ルーク坊っちゃま。
  人は皆、いつしか小指の付け根に赤い糸を見付けるものです」

しゅぴんと小指を立てた人は、やはり曲がったままの腰でニマニマと笑みを深める。何となく己の小指を眺めた神威は、やはり無表情ながら瞬いた。

「三日前に目を通した『奇跡の恋人』で読んだ。擦れ違っただけの強気ヤンキー受けと生徒会長の小指と小指に、運命の赤い糸が結ばれるのだ」
「蔵書家であっても、未だ若かりし坊っちゃまはご存じないのでしょう。飽くなき探求心、燃える慕情、それ即ち恋」
「故意ではなく、鯉か。確かに、書き下ろしの番外編で二人が鯛焼きではなく鯉焼きのウグイス餡を食べていた」
「ノンノン。坊っちゃま、爺は気が付いてしまいましたが、何やら誤解なされているご様子。恋とはライクから始まるラブストーリーの事ですぞ」

ぱちくり。
瞬いた神威の全身をコーディネートし終えた老人が満足げに息を吐き、最後に長い銀糸を取り出す。

「インテンションでもカープでもなく、ラブだと?」
「そう、ラブですよ坊っちゃま。ラボは研究室でございます。ヒューヒューでございますよ坊っちゃま。日本の若者は、恋する者へこうして激励するそうです。ヒューヒュー!」
「私が誰に懸想していると言う」
「爺は何でも判っていますとも。勿論、ネイキッドでしょう!」

時が一瞬止まった。

「ネイキッド?」
「左様」
「セカンドに恋をしていると言うのか、私が」
「ええ、間違いございません」

珍しく眉間に皺を寄せた神威を余所に、ぱちりと指を鳴らした人は進み出た従者の一人にウィッグを渡した。

「ですから坊っちゃまはお髪をお切りになられたのでしょう。そう、ネイキッドがベルハーツ次期公爵ばかりを贔屓するが故に」
「爺」
「ですが坊っちゃま、ネイキッドはいけません。あれは大層美しい男ではありますが、如何せん性格が悪過ぎます。グレアムの嫁たる者、素直で明るく腰回りがしっかりした…いやそもそもネイキッドはどちらかと言うと花嫁には向かぬ性格ではないかと爺は考えますが」

喋り出したら止まらない老人を余所に、セットされた髪を差し出された鏡で確かめた。9割方1人で喋りまくる老人と、ほぼ口を開かない神威では殆ど会話にならない。

「いやはや、それにしてもこの爺の若い頃と言えば、数々の名家のお嬢様方からの恋文が伝書鳩にて、四六時中送られておりましてな。坊っちゃまには劣りますが、爺もそこそにプレイボーイでございました。
  ああ、今は亡き妻は勿論、孫達も愛しておりますが」
「爺」
「こほん。
  少々…お喋りが過ぎましたな。さて、ご指示通り人員を探知区域へ配置致しました。誤差10キロ四方に500人」

ブレザーの胸元から恭しく取り出した白銀の面を、孫を見る目で眺めた人がにっこり笑った。


「ご安心なさいませ、陛下」

ざわざわと、風が唸りを上げている。
何処からか幸せそうな誰かの声が聞こえて来た。

「加えて、爺の一存で嵯峨崎財閥並びに鷹翼財閥の株式を掌握致しました。ご命令とあらば暴落させましょう、何、年寄りの小遣い程度の端金です」

目の前には、ひそり。
笑みを深める老人と、機械の様に動かなくなった従者達。

「爺はクライストにクリスティーナ様を奪われました。我が娘を穢したあの男に、手塩に掛けて育て上げたクリスティーナ様までも。憎らしいクライストが裏切り者に手を貸したとなれば、爺は喜んであの男を冥府へ誘いましょう」

意味もなく小指を一瞥した。
日本人に比べれば哀れなほど白に近い肌に、赤い糸など括られていない。当然ながら。



ざわり、ざわり。
嘆いているのは大気の何処か、近付く雨の慟哭だろうか。


「キング=ノヴァを裏切りし愚かな騎士、必ずや御前へ」

ずっと、腹が痛い。

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あきゅろす。
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