帝王院高等学校
崩れ落ちる世界の色は、赤
「この世の終わりだよ」

晴れやかな笑顔で大層な台詞を宣った亭主に、庭の掃除をしていた人は塩っぱい顔を向けた。それでなくとも蒸し暑いと言うのに、不快指数が一気に上昇した気がする。

「何?」
「全ての気力が尽き果てた」
「ニヤニヤして、気っ色悪い」
「酷いな。少なくとも昔は、この笑顔が好きだって言ってた癖に」
「見る目がなかったの!若気の至りだわ、一生の不覚だわ!」
「ふーん?文通時代は毎回会いたい会いたいってせびってきた癖に」
「っ」
「帝王院の彼氏なんてアクセサリーにはぴったりだもんねー?」

舌打ち一つ、通販で買ったばかりと言うスチーム掃除機で磨いていた壁に向き直り、門から真っ直ぐ此処まで歩いてきたらしい男を無視する。

「また、総務課長が居なくなった」

縁側に座り込んだ男は何をするでもなく、ぼーっと空を見上げていた。

「また遠野課長?アンタ、お気に入りだからって苛め過ぎたんじゃないの?」
「今回は帰って来ないかも知れない」
「幼馴染みだっけね」
「そうだよ、家族の一員だと。思ってたんだけどなー…」
「で、会社は?」
「ああ、うん。小林君に任せてきたから、大丈夫」
「死人みたいな顔してんじゃないわよ」
「ははっ、それどんな顔?」
「へらへらして、みっともない」

どうやら随分重症らしい。
覇気がない声に無理矢理笑みを混ぜた男の表情は、これ以上ないくらい楽しそうだ。他人から見ればの話だが。

「ご飯は?」
「あー、昨日から食べてないなぁ、そう言えば」
「接待だったんでしょ」
「新企画の打ち合わせでね。何処からかヤスの噂を聞いたみたいだ」
「夕陽ぃ?またスカウト?」
「ヤスは僕の若い頃にそっくりだから、表舞台には立たせたくないんだけどなー」

こんなふうに。
聞いても教えてくれない昔を、時折匂わせてくる。初めて会った時のこの男は、にこやかな笑みの下で全てを拒絶する威圧感を秘めていた。何せ初対面開口一番、「想像以上に平凡だね」と宣った男だ。文通時代は優しかった癖に。

「ねー、陽子ちゃん」
「気持ち悪い呼び方しないでくんない」
「僕は、とても罪深い男なんだ」

ごろん、縁側に寝そべった亭主が腕で目元を覆う。口元には相変わらず食えない笑みが浮かんでいるが、だからこそ掃除機から手を離して息を吐いた。

「今まで何百回と浮気してきた事?それとも、財布の中にしまってある離婚届?」

びくりと震えた太股を眺めながら、干したばかりの洗濯物が靡びくのへ目を向ける。午後からは雨だと聞いたが、蒸し暑いだけで空はこれ以上ないくらいの晴天だ。

「私からいつ捨てられるか、びくびくしながら笑ってんのね、アンタ。強気な振りして案外寂しがり屋、知らないなら教えてやろうか?今まで何回アンタの彼女から電話掛かってきたか」
「…参ったね。後腐れない付き合いの筈なんだけど」

悪怯れない男にはもう怒りも湧かない。いや、違う。始めは悲しかった筈だ。むしゃくしゃして八つ当たり染みた喧嘩を吹っ掛けた事もある。何度家出しようとしただろう、何度問い詰めてやろうとしただろう。
その度に、未練がましい自分を気付かされる。捨てられたくないから知らない振りをして、迎えに来て貰えなかったら悲しいから何処にも行かない。

「離婚、したい?こんな平凡な女ほっぽり出して、アンタに似合う美人と再婚すれば良いんだわ」
「本気かい」
「捨てられたいんでしょ?罪滅ぼしで結婚したんだもんね、貴方は」

腕が、そろりと落とされた。
現れた双眸が珍しく見開かれているのを認め、この男の狼狽した姿など今まで見た事があるだろうかと考える。

「知らないと思ったの」
「いつ、から」
「初めからだわ」
「嘘だ、だって君には、」
「文通相手が帝王院の学生、そうね。庶民にはシンデレラみたいな話だったわ」

どんな人だろう、頭が良いなら顔は悪いかも知れないよと鼻で笑う友人らを睨みながら、夢見る様に思い描いてきた。初対面の時は王子様の様な美貌に、数分息が止まった気がする。
思い描いてきた王子様はボードゲームが好きで、曲がりなりにも女の子相手に開口一番「平凡」と宣った失礼さを鑑みても、紳士だったと思う。スマートなエスコート、なのにゲームには夢中になる所、別れ際には男友達の様に軽やかに、「次はチェスをやろう」などと約束を取り付けた。

「舞い上がるわよ。ブレザーに金のSバッジがあった。女の子達の間じゃ一種の都市伝説だもん。卒業式の日に、帝王院学園の校門で金のSバッジを貰えたら永遠の恋になるって」
「外でも、うちの進学科はブランドなんだね」
「進学科の山田大空、ヤマダエレクトロニクスの後継者。父さんに聞いたら根掘り葉堀り教えてくれた。文通相手だって教えたら、踊りだしたわよ」

文通はそのままに、携帯電話を買って貰ったから。いつしかメールの方が多くなって、週一のデートが三回キャンセルされた頃。
父親がリストラを受けた。絶望とはこの事だ。王子様に何度もメールした。返事は来ない。

「あのまま受験競争を乗り越えて、何の変哲もない大学に進んでそれなりの就職して。当たり前みたいに考えてた未来図が、一瞬で消えた」

母親は早くに亡くなった。晩婚だった父には、就職氷河期での再就職は難しい。
父と娘の父子家庭、父親の再就職が決まるまで学校を辞めて働こうと立ち直り掛けた頃。春先の、桜が綺麗な日に。

「ボロボロで、家出したって。父さんは何にも言わずにアンタを家に入れた。…自分を捨てた社長の子供を!」
「リストラを敢行したのは俺さ。うちの馬鹿親父はね、殺され掛けた癖に馬鹿が治らなかったから」

起き上がった男が両腕を広げ、ふんわり笑みを滲ませる。叫んだ所為で荒れた息をそのままに眉を寄せれば、昔より精悍さを増した美貌が首を傾げ、

「殺したいかい?心臓は左側だよ、俺を殺せば億単位の生命保険が君に入る」
「何それ」
「最後の罪滅ぼし、かな。例え離婚したとしても、俺は死ぬまで高い契約金を払い続けたろう」
「へぇ。そうね、アンタが死ねば社長の座も転がり込む。そうよ、夕陽なら経営出来るわ。あの子、賢いもの」
「そうだね」

雑草を刈る為に出していた鉈に目を走らせ、素早く掴んでから振り上げる。
真っ直ぐ、真っ直ぐ。


笑みを浮かべたまま、愛してるよなどと声もなく宣った男の前で、



「陽、子?」

自分の、太股へ。
暫く使っていなかった錆掛けの刄は鈍い音を放ち、ジーンズに深く突き刺さる。呆然と名を呼ぶ男を見やり、勝ち誇った様に笑ってから突き刺した刄を一気に引き抜いた。

「陽子!」

ああ。
赤い赤い、赤い。吹き出したそれは真っ赤に縁側を、亭主を。情熱的に染め上げる。
額に浮かんだ脂汗を拭う余裕などない。ああ、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い、何でこんなに痛い想いをしなければならないのか。

「いったーい!痛い痛い痛いぃいいい!」
「きゅっ、救急車…!救急車を呼ぶからっ、いや、その前に手当て、止血しないと!」
「あ、アンタが悪いのよ!殺せとか言うから悪いんだわ!この意気地なし!死ぬなら勝手に死ねよっ、私は殺人者なんかになりたくないっ痛いぃいいい!!!」

蒼白な表情でタオルを持ってきた男が何度も謝りながら、そのタオルで傷口に近い脚の付け値を縛る。縛られた痛みにすら痛いと喚けば、彼は何とも情けない狼狽えっ振りで救急車を呼んでいた。

「母さんどうしよう、時間が懸かるって!車出した方が早いよね!」
「うっさいわ!こんなもん舐めときゃ治るんだわ!」
「無理だよ!そうやって盲腸も悪化させたんじゃないか君は!どうしてそんなに男らしいのかなっ」
「アンタばっかり悩んで!私ばっかり何も知らないのはっ、もう嫌!」

痛い。汗が止まらない。
先程までの凄まじい出血こそないものの、貼りついたジーンズの下から未だドクドクと流れだしている。心臓が足にもある様だ。

「アンタが罪滅ぼしなんて馬鹿みたいな事ほざくのも嫌!」
「よ、」
「私は全て知ってたんだわ!そうよ、父さんはすぐに再就職した!だから私も卒業出来たんだ!全部っ、高校を辞めてまで事業を始めたアンタのお陰!ワラショク1号店店長なんてっ、サラリーマンの時より父さん楽しそうだった!」
「陽子、ちゃん」
「好きじゃなきゃ結婚なんかするもんですか!好きじゃなきゃ痛い思いまでして子供なんか生むもんですか!18歳だったのよ!まだっ、別の人生があったかも知れないのに!」

アンタに惚れてなければ、と。
力の限り叫べば、凄まじい力で抱き締められた。ああ、何年振りだろう。いつもヘラヘラしているこの男を、男だと再確認する力強さに泣いてしまいそうだ。

「アンタにだって!もっと別の、人生が…っ」
「やめてくれ、何を…」
「私だって…っ、意外とモテんだわ!カフェのマスターにはいつもスイーツおまけして貰えるしっ、ジムのトレーナーからもお茶誘われた事あるし…っ」
「駄目、駄目だよ。他の男なんか見ないで、ね、謝るから浮気しないで、捨てないで」
「アンタより良い男なんてっ、」
「俺を捨てないで、母さん」
「居ないわよ、馬鹿ヒロキ!」

遠くからサイレンの音が聞こえた気がする。パタパタとはためく洗濯物、庭先の無花果の木から店子の雀が二羽伴って飛び立っていった。


「初めての我儘、言うわよ」
「…母さんはいつも我儘じゃないか」
「私は怒ってたんじゃなくて、悲しかった」

ズキズキジクジクドクドク、絶え間なく痛い太股だけが平和じゃない。

「泣いた?浮気、嫉妬した?」
「誰が泣くもんですか、アンタなんかの為に。アンタが私に苛められて泣けば良いんだわ」
「ドSだなー、女王様」
「別れなさいよ。愛人、全部」
「うん」
「離婚届けも、」
「捨てる。離婚してくれって言われたら困るからね」
「金バッジ、欲しかったの」
「あー、探せば何処かにあるかなー?昔の物は殆ど捨てたから、どうだろう」
「ないなら太陽からぶん取るから良い」
「アキちゃんと永遠の恋を誓うつもりなの?」
「馬鹿言ってんじゃないわ。あと、隠し事も全部話しなさいね」
「長くなるから、後でね…」

ああ、嫌になるくらいの眩しい太陽だ、と。


「怪我人だって、…判ってんの」

今度ブランドバッグを買わせてやろうと誓いながら、愛する人の肩越しに愛する人の名前と同じ名の青く広い空を見上げて、瞼を閉じた。











焼きそば、時々たこ焼き、トロピカルカボチャジュース。
トロピカルなのかクリーミーなのか判らないジュースを啜った少年が、パキンと割箸を割った。中々に平凡な割り方だ。

「絵を描きたい人には筆なんかもありますにょ!あと、青海苔と鰹節などもございますなり」
「海老せん作ったひと、天才だよねえ」
「どうですか、猊下の似顔絵を書いてみました!」
「ふむ、見せてごらんなさい錦織会計」

海老せんにソースで似顔絵を書き上げたらしい要が興奮げにそれを掲げ、眼鏡を曇らせた俊の隣で半開きの目を向けた隼人が「せめて眼鏡くらい書けよ」と一言。
音楽はともかく、基本的に左脳主義の要には絵心がないらしい。

「錦鯉きゅんはベタ担当班にょ」
「ベタとは何ですか?」
「ボスー、見てえ。眼鏡のひとー」

明らかにドラ●もんらしき物体に眼鏡を書いただけの落書き海老せんに、要が勝ち誇った表情を晒したが、俊の眼鏡はキラリと光る。

「モテキングさんはペン入れ担当班に任命します」
「俊、この焼きそば意外にうまい」

余りにも平凡過ぎて目立たない男がちゅるんと焼きそばを啜り、その隣で呆然としている男を見上げた。

「食わないんですか?あ、御三家は屋台物食べちゃいけないとか?一年御三家は海老せん食ってるけど」
「いえ、いや、…頂きます」
「案外うまいんですよ、これ。あ、でも焼きそばには紅しょうがだよねー。青海苔は歯にくっつくからやだ」

要作の煎餅を容赦無く貪る隼人が顎を反らし、今にも隼人へ殴り掛かりそうな要を余所に当たり棒をガマグチへ仕舞い込む俊を見た。

「なーんか、よい雰囲気?」
「そっと見守るなり。この前から二葉先生フラグが立ちっ放しで血涙が止まらないにょ!どうしようブログ打つ手が止まりませんっ、ハァハァも止まりません!あっ、…字数制限」
「ユウさんに連絡が付かないんですが、どうしますか?幾ら実家が航空関係でも、ヘリ貸与は難しいのでは…」
「んー、やっぱうちのジャーマネにおねだりするしかないかなー。今月一杯オフ貰ってるからさー、本当は嫌だけどお」
「歩いて町まで降りたらイイにょ」
「次のバスの時間を調べておかなかったカナメちゃんの責任だよー、もー」
「死ぬかハヤト」

睨み合う二人を余所に、焼きそばをもそもそ一口頬張った二葉が掛け直した眼鏡を押し上げた。

「騒がしい」
「高校生が静かな方がおかしいでしょ」

因みに二葉兄は理事長に用があるらしく、早々に退却している。何故だか俊が苦手らしい。名前を聞くなり居なくなった様に太陽は記憶している。

「紅しょうが、欲しいな」
「?入ってますよ、此処に」
「味はします。ただ、赤い方がいいのに、ってねー」

不可解な呟きに、応えはない。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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