帝王院高等学校
嘲笑う声はまるで寄り添うように
朝がやって来たと嘲笑う声を聞いた。
忌々しいその声は鈍く鋭く低く高く谺する。その声は酷く誰かに似ていた。とても良く知っている、誰かに。
兄弟ではなく、まして親子でもない。けれど赤の他人とも言えない、そんな自分に良く似た他人。それを何と呼べば正解なのか、
答えはきっと、神しか知らないのだろう。
「少し出て来る」
味噌汁入りラーメンを文句一つ言わず無表情で啜り終えた男が、ブログ更新に忙しいオタクを一瞥し出ていった。
閉まるドアを微かに盗み見た男は眼鏡を外すなり小波の様な微笑一つ、
「…参った、な」
空気入れ替えの為に開け放したバルコニードアの向こう、囀る小鳥の声をBGMに。
「このままでは、本物の愚か者じゃないか」
ひたすら、くつくつ・と。
電源を入れていないノートパソコンの黒いディスプレイに写り込む己を眺めながら、肩を震わせていた。
もうやめよう、と。誰かが悲しげに囁いた気がしたのは、罪悪感だろうか。
「ちっ、その手で来たか!ほならこれでどうや!20!」
「あは。ざっんねーん、ブラックジャック」
「ひょーん」
トランプをポロリと落とした男を鼻で笑い、制服ではなく白いファスナータイプのフード付きパーカーを素肌の上に纏った隼人が、耳に差していたボールペンを引き抜く。
テーブル脇に敷いたチラシの裏に何度目かの黒星を期したのは、『しのやん』だ。
「よっわ。弱過ぎにも程があるってゆーかー」
「う。俺は博才がないねん!つか何やのっ、15歳にしてそのギャンブラーっ振りは!」
「えー?隼人君ってば、麻雀もカブも嗜むからー」
「どうなっとるの、近頃の若もんは…」
「それジジ臭いよお」
がっくし落ち込んだ東雲を余所に、ノックされた扉へ振り返った男は部屋の主の代わりに暢気な声を放つ。
「はーい、開いてるよー」
「先生ぇ、はっくぅん、おはよ〜ぅ」
明け方近くまで寮長室で共にトランプゲームに勤しんだ桜が、ギンガムチェック柄のワイシャツにジーンズと言う出で立ちで入ってくる。腕には大きな重箱。
「おお、朝飯や朝飯!先生のリクエストの卵焼き作って来たのん?」
「おっはー。あれえ?サブボスはー?」
転がった空き缶や散らばったトランプを適当に片付け、無骨な男共が片付けたテーブルへ重箱を乗せた桜が蓋を開きながら首を傾げた。
「朝の見回り?って言ぅかぁ、下駄箱見てくるってぇ。ご飯食べてすぐに行っちゃったぁ」
「何やの、休みの日も…か?」
初耳だとばかりに顔を顰めた東雲を、早速チラシ寿司に齧り付いていた隼人が鼻で笑い飛ばす。助ける気配皆無だった庶民愛好会顧問…つまりは左席委員会顧問が、実はそれなりに事情を把握していたらしい事への笑みだろう。
「暇人のタコ共ー、帝君じゃない分うちのサブボスのが酷かったからねえ。そっちに目が行きがちだけどお、」
「…俊君、最近手紙貰ってるの隠してるみたぃ」
「どれが主犯か判ってんの?」
誰の親衛隊が嫌がらせの主犯なのか、と目で問う東雲に肩を竦めた。ポリポリ沢庵を齧っていた桜も口を閉ざし、怠惰に立ち上がって勝手知ったる冷蔵庫からジュースを取り出しながら、
「あのねえ。忘れてるみたいだからゆっとくけど、俺ら犬なの。飼い主の許可なく動けないの、オーライ?」
「のびちゃんがカルマやろうが何やろうが、多勢に無勢っつー言葉もあるやろ。早めに手ぇ打たな、」
「取り返しが、って?ふん、…俺らなんか足手纏いだろうねえ」
プルタブを引いて一気に飲み干した隼人が深い息を吐き、コキンと首の骨を鳴らす。沈黙している桜は会話に割り込むつもりがないのか静観に徹し、不満げな東雲だけが舌打ち一つ、
「頭が良過ぎてよう判らん。俺も昔は帝君やったんやけどなー、平成生まれはちっとも判らん。ジェネレーションギャップって奴やろか」
「案ずるなー、ボスの頭の中なんか隼人君も理解不ー」
「普段がアレな分、タチ悪いわなぁ。似てない様で、のびちゃんはアイツそっくりや」
「あん?」
「ルーク=フェイン」
「…潰すぞクソ教師」
メキッと缶を潰した隼人に痙き攣りながら、手を振った東雲が曖昧に笑った。
「学園記録ちょいと調べたんやけどな、ほんまは普通科に配属される予定やってん」
「誰が?」
「高等部外部生でSクラスなんて前例ないんやで?大抵うちは系列の分校か姉妹校から上がって来る奴が多い。ま、学業第一の西園寺と違って文武両道の帝王院の偏差値自体は大した事あらへんけども」
「入試満点の人間をAクラスに突っ込むかどうかで、結局Sクラスに振り分けた訳?どっちにしろ後期に昇格してんじゃん、無駄骨」
「決定を下したのは、帝王院理事長や。この件について学園長代理は何も知らんねんな」
「ふーん?」
「ついでに言えば、今期の外部受験の総指揮を執ったのも理事長。何の気紛れやとちょい騒ぎになった覚えがあんねんけども、」
入学手続きの書類、しっかりデータに記録されている俊の履歴に不可解な箇所がある。父親の欄にのみ記載された保護者の名前が、秀隆。
寮長でもある東雲に、入学式典の日の夜、警備室から連絡があったのを思い出した。
校門で騒いでいた来賓を追い返したが、遠野俊江と名乗っていたと言う。母親だと言ったらしいが、手続き書類に記載されていない彼女に招待状は送られていない。
だからこそ不審者として連絡を受けたのだが、東雲のボディーガード達から『秀皇様を逃がしました』と言う連絡も受けていた。
だから、何年振りかに姿を現した男に然程驚かなかった訳だ。息子の入学式を見に来たとほざいた、皇子に。
「なぁ神崎、お前らのびちゃんの親見た事あるか?」
「シエママなら一回見たことあるけどー?デパートの食品売り場で」
「食品売り場なんか行くんかい!」
「何かねえ、ボスのパパさんがワラショク本社で働いてるんだって。で、そのデパートの株カナメちゃんとユウさんと隼人君が買い占めちゃったからー、食品売り場にワラショク参入させたわけ」
「子供の買い物やない!」
「突っ込みしょぼいんだけど」
冷ややかな目で蔑まれた男は泣きながらジャージの裾を噛み締め、フォロー出来ない桜に抱き付いた。
「安部河ーっ、お前は先生に優しくしてなー!これが世に言う学級崩壊の前兆なんや!」
「ぇえ?!そんな事はなぃんじゃ…」
「聞く所によると授業もまともに出らん、委員会もサボる!ネチネチ嫌味言われんのは俺やのにぃ!特に体育科の坂下先生から嫌われとんのにー!」
「あは、知ってるソイツ。高校の時、降格して苛められてたんでしょ?」
「ぇえ?!何で知ってるのぉ?」
「校庭のカフェで働いてるセフレが降格した坂下とAクラスで一緒になったんだってー。で、苛めてたらしーよ」
「セっ」
「お前…その若さでセフレってな…、友達とは健全にお付き合いしなさい」
「うっさいなー、上に乗って来たのはあっちだもんねえ。勝手にしゃぶって乗っ掛かってあんあんゆっちゃってんだもん、とりあえず中出ししてあげなきゃさー」
「!!!」
「やめぇ、安部河の純潔が穢れる」
モデル体型を存分に生かし、胸元に手を当てエロい顔で笑った男に爆発した桜がよろめいた。呆れ顔の東雲がそれを支えてやりつつ、勝ち誇った表情の隼人を睨む。
「彼女作れ彼女を。ホモに未来はないって。BLは娯楽に留めんのが一番やぞ」
「間に合ってますー。っと、11時に校門集合なんだよねえ」
大規模な解体を繰り返した寮のお陰で、移動の振れ幅が大きかったらしい隼人の部屋は今日メンテナンスが入る事になっていた。外れたクローゼットの戸や、所狭しと並べられたパソコンの残骸を修復するらしい。
叶二葉に宛てた領収書はただの嫌がらせだ。太陽か俊の名義を使えば費用など懸からないが、風紀から連絡があるまで共にカードゲームに勤しんでいた太陽が「あの陰険に払わせろ」と吐き捨てたのだ。
「さってと、まだ時間あるし。ご飯食べたらお風呂行こっかなー、朝風呂ー」
「良ぃねぇ。ケンちゃんと加賀城君とかも誘おっか、起きてるかなぁ」
「猿とシロなんか要らないし」
朗らかな二人を余所に微かな溜息が、ひそり。
「ご機嫌よう、レディ」
今日は来客が多い日だ、と。
今し方ドアから見送ったばかりの『孫』が持って来た菓子折りを手に、バルコニーへ振り返った人は大きく目を見開いた。
「先日のお詫びに参りました」
全身、上から下まで余す所なく漆黒の男が佇んでいる。サラサラ流れ込む陽気な風が、彼の黒い髪を撫でた。真っ黒なサングラスを押し上げる手にも黒のグローブ、紳士的な物言いを覆すレザージャケットには銀のバッジが幾つも煌めいている。
見覚えはない、筈だ。
けれどすぐに思い出した数日前の夜、あの時もまるで忍び込むかの様にバルコニーへ降り立った男。闇に融ける様に、現れてすぐに消えた、まるで幽霊の様な。
「貴方は…」
「暖かくなって来ましたね、帝王院学園長。…お体は?」
「え?…え、ええ。近頃はとても調子が良いの。もうずっとこの子には助けて貰っているわ」
半身とも呼べる車椅子の車輪を撫でながら言えば、相手は口元に笑みを浮かべた。指先から爪先まで、サングラスで隠されていない顔以外の全てが漆黒の男は白昼夢の様だ。
現実味が無い。余りにも。彼だけが朝日の下にありながら、夜の住人染みていた。
「会長はご健勝ですか」
「帝都さんをご存じなの?彼なら理事長室に、」
「帝王院の会長は、学園長でしたよね?理事長は帝王院とは無関係だ」
瞬いた。
何の躊躇いなく首を傾げた男に口元を押さえ、狼狽えながらも辺りを見回す。誰かに聞かれていたら大惨事だ。
この男は、グレアムの恐ろしさを知らないのだろう。無知は己を滅ぼし、無恥は命を奪うのだから。
「石碑に刻まれていない36代中央委員会長、除籍扱いとされ闇に葬られた初代左席委員会長。…どちらも、学園の名簿から削除されてますね」
「っ、理事会のコンピューターを調べたの?!」
「私に出来ない事は余りに少ない」
手摺りへ凭れ掛かる様に背中を預けた男は、ちらりと下を窺ってサングラスを押し上げた。
「この世の人間が卵だと名付けるなら、貴方の孫は正しく孵化した人類の完成品だ。恐ろしく美しく、恐ろしく頭が良い。いつ私に気付くのか、実に楽しみでしてね」
「神威は、あの子は、私の大切な孫です!何を企んでいるかは知りませんけどっ、あの子に万一の事があれば…!」
「魔法を掛けました」
これは暴力と言えますか、などと首を傾げながら片手を上げた男に沈黙する。いつかそれが口癖だった男が居たのを思い出したからだ。
「貴方の孫『達』に、私は魔法を掛けました。一度は酷く暑い台風の日に、また一度はある晴れた春の朝に」
「孫、達?」
「貴方の息子には子供が居ます」
カラカラに乾いた喉が、痙き攣った。沈黙した世界を木々の騒めきだけが支配している。
「秀皇、に。そんな、まさか…」
「帝王院の分家筋、果てはあらゆる末端まで調べてみた方が良い。貴方々が恐れる男爵相手に、天帝は永い間戦争の準備をしている」
「あ、あの子は…、秀皇は何処に居るの?ねぇ、貴方はあの子を知っているのでしょう?」
「もう存在しないのではありませんか?」
持ち上げた腕で手摺りの向こう側、下を親指だけで指差した男が肩を震わせる。
「小さな石碑がありましたね。普通の生徒はまず見る機会がない」
「…」
「足が悪い貴方は知らないのかも知れない。無造作に放置された様な、小さな石が一つ。Knight of night、刻まれているのは黒の騎士と言うスペルだけ」
「黒の騎士…」
「帝王院秀皇の名も、初代左席委員会長の名も、学園から削除されている。それは、理事会がその二名を死んだと承認したからでは?」
「…あの子は生きています。生きて、居る筈なのよ…」
心臓を押さえた人が囁く。言い聞かせる様に、何度も。
「大丈夫」
「…え?」
「そろそろ、…物語は中盤。遠くない未来に、全てが終結を迎えます」
目を閉じて、と言う英語に何故か従った人はくたりと力を抜いて、健やかな寝息を発て始めた。
暫しそれを眺めていた男は皺くちゃの、けれど品がある手をそっと持ち上げ、その甲に小さく口付けてからサングラスを外す。
「家を取り戻したい?息子の顔が見たい?そんなささやかな願い、いつでも叶えてあげられるのに…」
誰かの嗤う声を聞いた。
お前はなんて身勝手だと、自分に良く似た『奇術師』の声・を。
「…俺は、俺以上に下劣な生き物を知らない」
名残惜しげに離した白い手を見つめたまま、眠る人の膝へサングラスを落としていく。
「ごめん、ばあちゃん」
メイドの一人がバルコニーで眠る人を見つけた時、そこにはにゃおんと鳴く白猫しか居なかった。
←いやん(*)(#)ばかん→
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