帝王院高等学校
裸こそ究極のクールビズである。
「あらん?」

ライトアップされたパイシーズ噴水脇の散歩道を、散歩には相応しくないスピードで駆け抜けた。気付いた時には真紅の塔を目前に、深い森の中。
キョロキョロと見回した周囲に人影はない。何処かで虫の音が聞こえる。小さな虫の音が。

「真っ黒くろすけ、出ておいでー。真っ黒くろすけ、出て来いやァ」

ジブリ映画染みた庭園、葉桜のアーチを潜りながら取り出したのは携帯電話だ。

「黒ネズミのくろすけは、白ネズミの白夜に襲われてしまうのかも知れない。…うーん、イマイチ萌えに欠けてる気が…ハァハァ」

今更ながら、待ち受けが黒い事に気が付いた。普段ならランダム設定の萌え画像が表示される筈だ。

「何だこりゃ。非常警報…じゃ、ねェな」

サングラスを引き下げながら、一切の警戒を解く。
高校生活では失敗しない様に、今まで読んできた実に様々なコミュニケーションブックから得た知識を駆使して来た。語尾に「にょ」を付けろと言ったのは呉服屋の跡取りにして、あの辺りでも有名だった元不良だ。明らかに、揶揄い半分。
本から得た知識では心許無かったから、参考にしたのだ。始めは佑壱へのメール、その内に口調にもそれは現われた。

近所の図書館は小学生の内に制覇した。六年生になる直前、図書館の裏側の通りに並んでいる繁華街で金の子猫を見掛けたのだ。

「クリア長押しでマップ、もう一度クリアで切り替え…」

六年生の時に、祖父と繁華街の端にある劇場へ行った。祖父の友人だと言う男性は、俊の顔を見るなり破顔して、祖父と同じく壮年の厳しい顔に微かな笑みを浮かべた気がする。

「三回切り替えで、皆の居場所が判るんだったな。あ、タイヨーだけお日様マークで光ってる」

オペラを見た。
赤と青と黄色のスポットライト、混じり合って、白。幻想的な光の螺旋はオーケストラを美しく彩る。

『おじさんの息子は』

ポップコーンの代わりに、退屈な待ち時間や切り替わりの合間合間に彼は話し掛けてきた。背筋をしゃきんと伸ばし、腕を組んだまま舞台を見つめている祖父は微動だにせず、無駄口も叩かない。

『舞台の中でも、オペラが一番の気に入りなんだ』

漫談やら落語やらも嗜むそうだが、祖父は今と同じく一瞬たりとも面白そうでは無いのだろう。ならば何故観ようと思うのかが不可解だ。

『相変わらず、お祖父さんは怖い顔だな。君はお祖父さんが好きなのか?』
『はい、優しくて、大好きです』

傍らの祖父が震えた様な気がした。
ロマンスグレーと讃えるに相応しい彼に会ったのは、その一度だけだ。祖父より幾らか年若いその人は、閉幕と同時に席を立ち戻って来なかったから。

『あれは苦労知らずのボンボンだわ。良いかシュンシュン、生臭い医者を継げとは言わん。だが、』

外したサングラスをシャツの胸ポケットに突っ込み、昨夜より微かに膨らんだ様な気がする三日月を見上げた。

「だが、儂や駿河の様な生き方をしてはならん、かァ」

クスクスと笑う声音は誰のものだろう。いつか金色の子猫を見た。暫くして、不良に絡まれている所を助けて貰った。
あの時の『情けないサラリーマン』が、カルマの総長だと。彼は知っているのだろうか。

中学一年の夏、総長歴一ヶ月目。
余りにも不機嫌な佑壱が一人で出ていくのを見たから、昼寝していた裕也を置いたまま要と健吾を連れて追い掛けた。夕焼け深まる午後6時、辿り着いたのは近所の公園だ。

『お久し振りですねぇ、エンジェル』

全身真っ黒のしなやかな長身が、暗んだ空の下に現われた。闇から融け出る様に。
物陰に隠れていた要が震えた様な気がする。


『私は何度も言ったでしょう?帰って来なさいと。まだ判らないのですか?世間知らずで浅慮な君は』

寂しかったのだと男は言った。
可哀想にと唇に笑みを湛えて、慈悲深い嘲笑は背筋を這い上がり、何かにヒビを刻んだのだ。


“ほら、あれを黙らせろ”
“方法は簡単だ。お前は何でも出来る”
“そうだろう?”

“Open your eyes”



肉を蹴る音、弾き飛んだ青い何かがカラカラと土の上を転げた。呆然と見開かれた赤い瞳、離れた位置で腹を抱えて笑う誰か。
総長、と。悲鳴染みた声を出したのは要で、白百合と呟いたのはきっと、健吾。仮面の下では笑っていた癖に、漆黒の手袋をはめた右手で顔半分を覆った男は無表情だった気がする。


『…人間風情が』

指の隙間から見えたのは、サファイア。囁かれた声の低さに痙き攣った要と健吾が、自分を庇う様に男と対峙した。

『久しいですねぇ、錦織要君。正月くらい帰ったらどうですか?老板が心配しますよ』
『…あの人が俺を心配?笑い話ですかそれは。小妻に産ませた混血儿など記憶にすらないだうが』
『貌美如月、それこそ月の様に美しいお兄さんは君を案じている様ですがね』
『…己より劣る生き物を傍に置いて優越感に浸りたいだけだろう、あれも貴様も!』
『青蘭』

凄まじい早さで要へ近付いた男が、右手で顔を押さえたまま左手を伸ばした。やめろ、と叫ぶ声は佑壱、逃げろと喚いたのは健吾。


なら、あの時。


『人間風情が、汚い手で人の物に触らないでくれないか』

土の上に這う黒を踏み付けていたのは、誰。ならばあの時、唇の端から血を流す美しい生き物を見下しながら、緩く首を傾げたのは、誰。

『愚か者が。…勝ち誇るのは己より弱い生き物の前だけにしておけ』

呆然と瞬くサファイア、その辺にしてやってよと笑ったのは誰だっただろう。

『そいつ、あんま日本に慣れてないんだ。だからアンタの事も知らない』

満月の光を受けて歩み寄って来たのは金色の髪を夜風に靡びかせた子猫、

『俺の友達なんだよ〜。…手加減してやって?』

人懐っこい笑みを浮かべた子猫こそ、全てに手加減していた様に思えた。そう、己より弱い生き物には牙を剥かない、獰猛にして慈悲深い獅子。


可愛い可愛い子猫、傍に置いて可愛がりたかった。大好きな可愛い子猫を、ずっと。傍に置いたらきっと、楽しそうだから。

あの時、自分は。
二葉に手を出した時点で負けていたのだ。傷付ける事で勝利しようとした時点で、負けたのだ。



「ふにゃあんっ」

闇を切り裂く猫の声に振り返る。
無意識に葉桜のアーチから駆け出し、奥へ奥へ、噴水目がけて走り出せば、ふーふー威嚇する声が近付いてきた。

「にゃんこ」

夥しい数の黒、紅く光る幾つもの目に囲まれているのは純白の猫一匹。噴水の縁に寝そべっている誰かが見えた。

「みゃおんっ、んにゃおんっ!ふーっ、ふーっ」

鼠だと気付いたのは、寝そべっている誰かの腹へ飛び乗った猫が全身の毛を逆立てながら威嚇した時だ。
普通、猫と言うものは鼠から逃げたりしないだろうと目を細め、無計画に足を踏み出した。

「真っ黒くろすけ、見ィ付けたァ」

ガサリガサリ、枯草を踏み締める音。夥しい鼠の目がこちらに注がれて、内の数匹がチョロチョロと近付いてくる。

「ギィ、ギィ」
「白にゃんこが可愛いからって、こんな大所帯でナンパしたら嫌われちゃうにょ」
「ギギギッ」
「変な鳴き声なりん」

手を伸ばす。
指先目がけて凄まじい量の鼠が襲い掛かって来た。視界の端で飛び起きた誰かが、余りにも声を荒げたから。驚いたのは秘密だ。


「っ、それに触るなっ、俊!」

カイちゃんだ、と。
噴水へ向き直ってへらりと笑い掛ける。

ああ、何故か焼き肉の匂いがする。
ああ、何故か右手が痺れる。
凄まじい量の鼠がシャツの上まで這い上がっているのを見た。伸ばした右手は鼠の海に埋もれて、黒いシャツの所々に紅い光。

「ギッ、ギィ」
「ギギギ…」
「ギィ、ギギギッ」
「あらん?そんなに噛んだらシャツが破れちゃうでしょ」
「俊、」

ざばん、と。
頭の上から水を掛けられた。続いてびしょ濡れのバスローブが、俊に集る鼠の群れを覆い隠す。

「ぷはーんにょーん」

じゅうっ、と焼ける様な音が響き、水蒸気とも煙とも取れる白煙がバスローブから上がった。
ずぶ濡れの頭を振り回し、相変わらず無表情ながら何処か緊迫した様子の神威を見やればお姫様抱っこだ。慣れたから良いものの、せめて抱くなら抱くと言って欲しい。心の準備とデジカメの準備が要るのだ。

「カイちゃん、………何で裸ん坊?」

特に美形の裸体となれば、腐男子的にレインボーカードを提示させて貰いたい。レッドカードとかそんな恐ろしい、あ、鼻血でうっかりレッドカードに。

「腕を見せろ、いや、先に冷やすべきか」
「カイちゃん?あにょ、あにょ、…ぶらぶらしない?」

何ともなく両手で顔を隠しもじもじしながら、つい下の方を見てしまうのだから本能とは物悲しい。ほぼ毎日一緒に風呂へ入る仲だが、大抵先に風呂好きの俊が飛び込んでから乱入してくるので、最近では扉に背を向けてバスタブへ浸かる様にしている。
余所様の刀が気になるのは武士の本能だ。余所様のちんちんが気になるのは男子の性なのである。メイビー。

「カイちゃんっ、実は僕もノーパン………きゃー!」

ちゃぽんっ、と噴水に放り込まれたらしい。全身が冷たい水に浸されて、スラックスは勿論、腕も背中も一瞬で濡れ鼠だ。
そう言えばさっきのクロスケならぬ黒鼠はどうしたのだろうと、張り付いたシャツの気持ち悪さと尻から滲む水の冷たさに竦み上がる尻と股間を持て余しつつ、キョロキョロ辺りを見回した。

「バイオジェリー、だったか。侵食は数秒に満たない筈だが、あれの体液には新種のバクテリアが含まれる」
「ふぇ?」
「溶解力は硫酸のおよそ二倍。腐食させる為、有機物は化石燃料へ退化する」
「ふぇ?ほぇ?ぷにょ」

がばっと剥ぎ取られたシャツ、素っ裸なのに全く照れる気配がない神威から服を奪われ、肌寒さにくしゃみ一つ。

「くちゅん!ずびっ、ぽんぽん減ったなりん。そー言えば、まだおやつ食べてないにょ」

無表情で目を細めた神威の首に、余り見慣れないチェーンネックレスを見付けた。そう言えば、初対面の時に指輪を通したネックレスを着けていた気がする。風呂に入る時も寝ている時も無かった気がするが、記憶違いだろうか。

「カイちゃん、何だか怖いお顔でございます。それよりさっき、タイヨーが二葉先生と内緒で密会してたにょ。チラッとチラ見した二葉先生ってばお着物で、寮がアベコベで、靴箱が浮いてたのょ!」
「腕への被害はおよそ免れたか。あれは水分を浴びると溶解する」

びりびり、俊の着ていたシャツを破る音。佑壱から借りたものなのに、と痙き攣りながらぼやけば、細めた蜂蜜の双眸に見据えられる。睨まれた訳では無さそうだが、無言の凝視も中々に怖い。

「くろすけ触ったら、めー?」
「人が有機物である限り、寛容出来ない」

無言で腕に巻き付けられていく黒の包帯、先程チラッと見たが所々ミミズ腫れになっていた。害虫に称されるだけあるが、鼠に這われただけでこの騒ぎは何だ。
水の中に浸かったままの両手でちゃぷちゃぷ水を掻けば、処置が終わった腕をぐいっと持ち上げられた。

「Ass hole.」
「ふぇ?」
「Stoop of the bitch, such my dick!」

無表情で固まった神威が呟いた短いスペルに首を傾げれば、掌がじゅくっと嫌な音を発てた気がする。続けて叫んだカイを見るより早く、毒々しいまでに赤い己の右手に固まった。

「きっ、きィやァアァアアア!!!手っ、手っ、手がっ、溶けてるーっっっ」
「Shut the fuck up, no dirty tricks!」

何だ、先程から何だか神威の声音が辛辣な気がする。然も何たる口汚さか。余りにも早口過ぎてちっとも理解出来ないが、ビッチだかファックだか、どちらにしても悪口ではなかろうか。

「カ、カイちゃん?」
「誰か居るのか!」

がさがさ草を踏む足音。数人の生徒が懐中電灯を手にやって来るのを見た。

「はっ、裸?」
「おい、何で裸なんだお前っ!然もそれは天の君?!」
「風紀室まで来て貰おうか、二人共」

腕には風紀の腕章、素っ裸で彼らを睨む神威、スポットライトならぬ懐中電灯を浴びた腐男子は血が滲む己の掌を凝視したまま、


「誰に口を訊いているつもりだ、そなたら」
「ぷはーんにょーん」
「………俊?」


─────失神した。
因みに濡れて尻に張り付いたスラックスの下は、クールビズ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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