帝王院高等学校
アダムスファミリーは夜行性っス
遠くで吠える声がする。
人の声の様な、犬の声の様な、ジェット機の様な。大気の唸りに似た、何か。
ちりん。
聞き慣れた鈴の音に、緩く振り返る。酷く小さな生き物を認め、理由のない寂寥も孤独感も掻き消えた。
「そんな所に居たの、アダム」
「にゃぅん」
キィ、と。
車椅子が軋む音、闇から姿を現わしたのは白い毛を持つ金眼の猫だ。実にスマートなキャットウォークで優雅に近付いてくる飼い猫はゆらゆらと、長い尻尾を振りながら軽快に鳴いた。
「にゃぅん」
「お腹が空いたのね?ずっと姿が見えないから、お祖母ちゃん心配したのよ。誰か、アダムにミルクを頂戴な」
「畏まりました」
「んにゃ」
ぴくり、尖った耳を動かした愛猫が、明後日の方角へ顔を向ける。ぴくぴく蠢いた耳に首を傾げつつ、使用人に声を掛けた人はもう一度振り返った時に、見たのだ。
一瞬、だけ。
とても良く知っている気がする、けれど全く見知らぬ人影を。
「そこに居るのは、誰かしら」
走り去った長い尻尾、闇の中で猫が鳴いた気がする。
けれどそれを最後に、微かな風の音さえも掻き消えた。
「…秀皇?
─────まさか、ねぇ」
呼び掛けでも問い掛けでもない、密やかな呟きに返ってくるものはない。
「アダム、また行ってしまったの?」
「学園長、こんばんは」
誰よりも愛しかったけれど、辛かっただろうあの日に守ってやれなかった息子を思い出した。
かさりと音を発てた葉桜から、にこやかに笑う少年が現れたのを眺め、一度。小さく笑って、
「貴方はいつも変な所からやって来るわね」
「うちの父ちゃんはもっと凄い所から出て来るんだぜ」
「じゃあ、今夜も沢山お話し聞かせてくれるかしら?そうそう、この間孫の友人から貰ったお菓子があるの」
「会長の友達っつったら、眼鏡の人?」
「違うわ、金髪の人。とっても格好良いのよ。シャイで、紳士なの」
「ああ、判った。副会長だ」
顔一杯に笑みを湛えた年若いボーイフレンドの、背後。いつも無言で佇んでいる長身の少年が、やはり無言のまま笑う少年の背に抱き付くのを見た。
「相変わらず仲良しさんね」
「眠たいんだ。今日は昼寝してないから。寝てて良いよ、明日は忙しくなるから」
こくりと頷いた少年が、緩やかに瞼を閉じる。けれどきっと、閉じただけだ。無言のまま起きている。警戒心に満ちた野良猫の様に、きっと。
「お出掛けするんだったわね。外出届、ちゃんと預かってるわよ」
「うん。うちの父ちゃんも母ちゃんもそう言うとこ疎いから、息子の俺が引率しなきゃいけねーの」
「ふふ。で、最近出来た新しいお友達も一緒に行くの?」
「そう、そこでドッキリ仕掛けんの。発案は相変わらずうちの父ちゃんなんだけどさぁ」
「悪戯っ子だこと。嫌われないようにしないと」
「あはは、大丈夫だよ。きっと」
閉じた瞼が微かに震えた。
背中に張り付かせたまま腕を広げた彼は相変わらず顔一杯に笑みを湛え、
「だって父ちゃんは、誰の事も好きじゃないみたいだから」
細く長い猫の爪に似た月を雲が覆い隠した、刹那に。
Can you hear my love song?
聞こえているかな愛の歌が。
刻一刻と夜は黒を増していくよ。
刻一刻と太陽は東に近付くよ。
安らかな夜であればあるだけ、きっと明日は絶望に満ちているね。
今はまだ笑っているかい?
今はまだ幸せだと勘違いしているかい?
ああ、僕は。
こんなにも愛しい君の、泣き顔が見たい。
「みゃん」
ちりん、涼しげな鈴の音は風一つない夜空に融ける。
「─────挨拶はしたか」
「うにゃん」
「お祖母様に、今宵就寝の挨拶は」
足元に頭を擦り付けてくる猫を抱き上げ、喉元を幾らか撫でた。
「お祖母様は来客中か」
「なぁお」
「俊を見たら驚くだろうか、そなたは」
長い髭が揺れている。ゴロゴロと絶えず戯れる猫の喉に合わせて、ゆらゆらと。
「私は息が止まった」
「にゃーん」
「良く似ていたからだ」
黒髪も意志の強いオニキスの瞳も、どちらも。酷く似ていた気がするのに、今ではまるで別人の様に思えるから不思議だ。
「─────父であれば良いと、いつか願った人間に」
そもそもたった一度きり、写真すら残っていない皇子の顔を見た時。彼の表情は絶望に蝕まれた憎悪一色だった筈だ。
「サラの記憶は皆無に等しい。私を産み落としたとされる女、認識は必要最低限。私は酷い息子だろうか」
父親が誰か判らずとも、母親は疑う意味がない。赤い唇を吊り上げ狂った様に笑いながら、『役立たず』と罵り続けたあの女がきっと、母親だ。顔は覚えていない。覚える必要性がなかったから、ではなく、包帯の妨げを受けていたからだ。
「些末事に過ぎない。私は人ではなく神の子だと言う」
「にゃ」
「こうも脆弱な神など存在するだろうか」
皮膚が痛い。
まだ、耐えられる。夏場になれば屋内に閉じこもり、夜更けてから外出するのが通例だ。例外は唯一、去年の、夏。
見合い染みたパーティーの帰り。
夕焼け空は灰色の分厚い雲に覆われていて、篠突く雨はまるでカーテンの様に人々を呑み込んだ。
ロールスロイス、遮光硝子の内側で。
視界に映り込んだのは、銀。そこだけまるで別世界の様だった。気がする。何故だろう、酷く曖昧だ。
可愛げのない生き物だった。
全身濡れそぼった生き物は酷く細く、酷くか弱く見えた気がする。余りにも力ない俯き顔に問い掛けた。
興味など無かった筈だ。
間接的に見た事は何度もあった。
けれど興味など無かった筈だ。
二葉を退かせた男。
話だけは知っている。零人の命で佑壱を引き抜こうとして、失敗した。あの男、人間でありながらまるで神の様に崇められ、畏怖されるあの男に。形はどうあれ、敗けたのだ。
「高坂が懐いていた」
「みゃおん」
「私には懐かない高坂が、懐いていた」
「みゃおん」
「羨望したのだろうか。憧憬の念を覚えたのだろうか。この、私が」
足元に戯れつく猫を抱き上げた。
猫は酷く賢い。寂しい人間にはとても優しく、柔らかく。擦り寄って来てくれる。
「誰かの隣で眠るのは心地好いものだ。毎朝忍び込むファーストが眠りを妨げるまで、暁を得る事はない」
桜の絨毯、風の影響を殆ど受けないヴァルゴ庭園には緑に変わり行く桜並木、
「知っているか。俊は寝相が悪いんだ」
唇の端を吊り上げた。気がする。
噴水を前に、闇一色の水面を覗き込む。パイシーズ噴水とは違い、ライトアップされていないアクエリアス噴水は自棄に真っ暗だ。何も映さず、揺らめきもせず。
ただただ、密やかに。
「クラウンスクエア・オープン、リブラリソース。システム復元、再構築許可」
『20時時点の記憶野よりデータ収拾開始、相似率5%。相違95%を全再構築します。………15%、』
噴水の縁に腰掛けた。
猫が何の断りもなく膝に乗った。甘えながら髭を揺らし、ふりふりと尻尾をくゆらせる。狼煙の様に。
「退屈凌ぎだ。誉れ高い人神皇帝、キング=バースデースーツと謳ったあの男をもう一度。目にする事が叶えば、何かが変化するのではないかと。…恐らく」
うとうと瞼を閉じては薄く開くのを繰り返す猫の頭を弄びながら、瞬いて耳を澄ます。
「一部分の記憶が人為的に欠落している。気付いたのは先日だが、セカンドも似た様な事を口にしたな。…十年程遡るか」
様々な音が聞こえる。大気の音も、余りに微かな風の騒めきも、誰かが枯葉を踏む音も、猫の小さな鼓動ですら。
「私の仮説は確定に相当しているだろう。遠野総合病院前院長遠野龍一郎の2番目の孫、母親は遠野龍一郎の長女、俊江」
然し入学時に提出された書類には母親の名は無く、引き替えに戸籍には載って居ない父親の名が記載されていた。
遠野秀隆、国籍は日本、出身地は九州。調べさせてはいるが、戸籍自体に改竄の痕跡はないらしい。つまり実在の人物。ならばこの言い知れない未練は、何だ。
「未婚の母など珍しくはない。俊がBASTARDなら、何らかの手違いが生じたとも考えられるだろう」
Bastard、ああ、まるで自分の様だと緩く目を細めた。当て付けの様にカイルークと呼ぶ金色の、神。
名を呼ぶ事を許さないと言ったのは、手と手を取り扱い駆けていく二人の父親を見送った後、東の空が明るみを得てからだ。
直前まで悪魔の如く暴力を奮い、狂った様に叫んでいた男の声とまるで同じ、然し全く違う静かな声音で現れた黄金の髪を靡びかせた男を殺そうと思った。それ以上に消えてなくなりたかったから、耐えたのだろうか。
走り去った二つの背中か他人で、自分を蹴り投げた男が父親だと。認めたくなかったのに。
落ちていくのを、視た。
黒い何かと、金色の何かが。砕け散ったステンドグラスの向こう、血を吸った様な紅い満月、深い闇の中へ。
見上げた先には漆黒の髪を乱れさせた長身、小刻みに震える人が窓辺によろよろ近付いていく。
『父上』
呼び掛けた己の声、緩く細められた漆黒の双眸は酷く怜悧に、憎悪を滲ませていた。
今のは誰を呼んだのか、と。
いつもキーボードを叩きながら囁く様に語り掛けてきた人とまるで同じ、然し全く違う声音で。握り締めた硝子片で切り裂きたかったのだろう。『悪魔』を。
「Black sheep、私は誰だ」
果てない疑問。
王の名を持つ神から、自分は生まれたのだろうか。有り得ないと判っていても疑問は深まるばかりだ。違う、もっと単純に。
「あの男は、誠同一人物だろうか」
包帯の向こう側、非情な声音はいつも見下していた。太陽の下では生きられない幼子も、その幼子に絵本を読み聞かせる人も、何も彼も。
『ナイトから名を貰ったか』
尋ねられたのは繰り返し同じ台詞ばかり。その度にパタリと絵本を閉じた人は警戒心顕に代弁した。
『神威に神威以外の名前なんか必要ありません。…秀皇が秀皇である様に』
何度も殴られていた筈だ。
この鼓膜が何度も聞いた。肉を殴る音。もしかしたなら蹴られていたのかも知れない。
『小国の庶民風情が私に口を利くな』
大丈夫だよ、と。空と同じ名を持つ人はその度に囁いた。大丈夫だからお父さんには秘密にしよう、心配させちゃうからね、などと。まるで他人事の様に。
何故、無力だったのか。あの時、あの瞬間。何故ああも無力だったのだろう。大きな体が欲しかった。去りゆく足音を大丈夫だと囁く人に抱き締められながら聞くだけしか出来ない脆弱な子供ではなく、追い掛け跪かせる事が出来ればと。何度考えただろう。
『さ、今度はチェスをやろう。神威はお父さんより頭が良いのかも知れないねー、触っただけで駒が判るんだから』
『父上は』
『もうじき帰って来るよ。今日はデートなんだ』
『デート?』
『誰にも言わない?』
『はい』
『秀皇の本当に好きな人だよ。もしかしたらお嫁さんになってたかも知れないね』
『父上の、奥方』
『あー、最近ハマったからって時代劇なんか見せるから古臭い言葉を使う。神威、あんまり堅苦しいと友達出来ないよ』
あんなに幸せだったのに。
必ずお土産を手に帰って来る人を出迎えて、商店街で買ってきたと言うコロッケを頬張りながら眠くなるまでボードゲームに明け暮れたあの時までは、あんなにも。幸せだったのに。
『貴様の死神だ』
殺してやろうと思った神へ、宣戦布告した。眉一つ動かさなかった神は微かに首を傾げただけだ。
『好きにするが良い。遅かれ早かれ、年若いそなたより先に崩御する運命だ』
同じ声、同じ脈拍、初めて見る黄金、青空を闇で染めた様なダークサファイア、これが悪魔なのかと。これが憎んだ男なのだろうかと。
浮かんだ疑問は今の今まで絶えず、
「眠ったのか、アダム」
瞼を閉じても探している足音は見付からない。トントントン、と。軽快に弾む足音ばかり探している。
「膝を貸すのは日が昇るまでだ。朝になれば行く所がある」
歌う様に名を呼ぶ声を。確定に近い想像を無に還そうとする声音を、探している。
「セカンドに相談するのを忘れていた」
ああ、そう言えば毎週末は学園長の元へ見舞いに行っていた。先週も足を運んだと言うのに遠い過去の様だ。仮にも、祖父と呼ぶ人の事を忘れるなどと。
「堅苦しくない若年者の装いを」
胸元に忍ばせた携帯は沈黙を守ったまま。無駄に存在感を放つ大きな白いガマグチ財布の中で、ひそりと。
←いやん(*)(#)ばかん→
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