帝王院高等学校
惜しらざりし命さえ長くもがなと
何だろう。
頭がめちゃくちゃ痛い。ちょっと待て、今日は確か何かあった様な気がする。

「………が…」
「…まだ………か…」

何だろう。
うるさい。確かに裕福な部類に入る我が家には、通いのお手伝いさんが数人居るが。どちらかと言えば人嫌いに入るだろう厳格な父親は、決して二階には上げなかった筈だ。
二階は家族だけのプライベートスペースで、掃除も各々がやらなければいけない。自分の部屋の掃除はいつも弟にやらせているから、母は呆れ、父は毎回毎回「それで女かお前は」と怒鳴る。あんまりに喧しいから蹴り飛ばしてしまいそうだ。


何だろう。
体が動かない。

また父から素巻きにされてワインセラーにでも放り込まれたのだろうか。
ならば直江は何をしているんだろう。小学生の頃は体も小さく気も弱い弟は近所の悪餓鬼に苛められて、いつも泣き付いてきた癖に。毎回助けてやった恩を忘れたのだろうか、クソ直江。

「ぶっ殺す、直江」

全身に力を込めた。
空手歴10年を舐めるなクソ親父、いつか殴り倒してやる為に鍛え抜いてきたのだ。

「っ、らァ!」

ぶちり、と。
何かが引きちぎられる音、誰かが慌ただしく動き回る音、息を呑む気配、


「威勢が良いな」

囁く様な声音が、笑った。
誰だ。何処かで聞いた事がある様な、低い声。誰だ。知っている筈だ。いや、知らない。違う、知っている筈だ。

「目が覚めた様ですね、遠野さん」

頭がめちゃくちゃ痛い。
何だか喉も痛い気がする。重い瞼を開けばまず真っ先に黒服の男達が見えた。
大きな窓を背後に椅子に腰掛ける男、その隣に柔らかな微笑を湛えた男が控えている。

真っ白い部屋の中。
見覚えがある真っ白い部屋の中。
嗅ぎ慣れた薬品の匂い、椅子に腰掛ける男の腕には細く長いチューブが繋がれている。薄い黄色の液体が、縦長いパイプの先に引っ掛かっていた。

「ビタミン剤」

判った。
病院だ。然も一等個室。男の背後に散り舞う純白の桜が見えるから、内科。
高々水分補給の点滴で個室を使える人間は限られる。例えば芸能人や政治家が、何らかのスキャンダルから逃れる為のリゾート代わりにする場合などだ。そもそも点滴と言うのはコレラ菌感染患者などが、口から水分を摂取出来ない場合の水分補給に用いられる。心臓が弱い患者には施さない、ただの水代わりなのだから。

「…仮病かよ」
「随分口が悪いな君は」
「思い出したぜ、テメーら昼間ナンパして来やがった奴らだろ」

睨み付ければ黒服の男達が肩を震わせ、唯一着物姿の男が声を発てて笑った。威圧感だけで言えば、白髪交じりの髪を撫で付けたスーツ姿の男が一番だが、不気味さで言えば和服姿の男が一番だ。
年齢不詳そうに見える。若いのか年寄りなのか、判らない。笑っている癖にその眼差しに宿る光は余りにも鋭かった。

「俺ァ、ただのインターンだぞ。さっさと家に帰せ、うちに身代金なんか用意する余裕はねェ」
「だ、そうですよ会長」
「楽しんでいる場合か、冬臣」
「失礼しました?」

首を傾げた和服の男は冬臣と言うらしい。点滴を繋いだ男とは親子ではない様だが、上司部下の関係にも見えない。

「記憶障害、と言うんですかねぇ。遠野さん、貴方は丸半日以上眠ってましたよ」
「はァ?」
「貴方は医学部卒の新米医師でしたか、お嬢様」

頭が痛い。
何か大切な事を忘れている様な気がする。ならば何を。何を忘れているのだろう。
名前が知られているなら、総合病院の娘である事も知られているの筈だ。20年以上生きてきて誘拐されたのは初めてだった。また父親が怒り狂うだろう。頭が痛い。

「頭が、痛ェ」
「困りましたねぇ。貴方にすら仕掛けていたんでしょうか、皇子は」
「…巫女?」
「魔法を使う、皇子様ですよ」

子守唄の様に、冬臣と呼ばれた男の声を聞いた。催眠術の様だと腹の下に力を込める。
開いては閉じる唇から僅かに目を反らし、子守唄の様な声音から意識的に耳を塞ぐ。心理学で習った事がある。これは催眠術だ。

「無駄だねィ。何をしてェのか知らんが、俺はただのインターンだ」
「参りましたね。私もこの手は得意分野なんですが、彼女の意志が強過ぎる」
「さっさと家に帰せ」
「残念ながら、それは出来ません。今頃、貴方のお宅は囲まれている筈だ」
「囲まれてる?ンな馬鹿な、」

重い体を引き起こし、黒服の男を振り払って窓辺に張り付いた。
やはりそうだ。此処は遠野の病院だ。だが然し、静まり返った夜空に不審な人影は見えない。

「うちの親父が何かやらかしたのか?だったら今頃カメラマンが何処かに、」
「貴方の実家ではなく、貴方の家の話です」
「さっきから何言って、」

背後の和服を振り返ろうとして、裸に成り行く桜の下、闇の中から見上げてくる人影を視た。
気付いたのはきっと、自分だけだ。闇の中から見上げてくる黒髪の男、見間違えだろうかと振り返り掛けた体を戻した時にはもう居なかった。

「どうかしましたか?」
「…別に、何も」
「混乱してらっしゃるでしょう。私の不手際でもありますが、じきにアリアドネ様が見えられるのでコーヒーでも如何ですか?」
「何だよ、アリィも絡んでんのか?」

やっと知っている名前が出た事に息を吐いた。自分が卒業した高校に留学生としてやってきた、カメラマン志望の女後輩だ。ちょっとした切っ掛けで知り合ってから、何故だか口説かれている。
自分がインターンとして実家の病院に籍を置いてから、彼女はほぼ毎日通い詰めてきた。悪い子ではないし、好かれて悪い気はしないので放置している。

「すぐに食事もご用意します。但し余り外へは出ないで下さい。我々が皇子を見付けるまでは、ね」
「だから巫女って誰なんだ?」
「何と説明して良いやら、…駿河会長。坊っちゃんと俊江さんはいつ頃出会われたんですか?」
「私が知ると思うか」
「思いません。ただの事実確認ですよ」

先程見た、黒髪の男を何ともなく思い出しながら。まじまじ見つめてくる白髪交じりの男へ向き直る。
悪い男ではない様だが、見知った人間でもない。貫禄はあるが年老いている訳でもない様だった。クソ親父こと遠野龍一郎と然程変わらない様に見える。60代そこそこだろう。

「紹介が遅れたか。私は帝王院駿河、君のお父上である冬月龍一郎とは私が子供の頃からの付き合いだ」
「親父の知り合い?つか、帝王院ってセレブで有名な帝王院?」
「そう、帝王院は日本一のお金持ちです。東雲財閥もそれに並ぶお金持ちですがね」
「お前が答えるな、話がややこしくなる」

眉間を押さえた男を何ともなく見つめたまま、和らいできた頭痛の下で考えた。

「話しておきたい事がある。推測でしかないが、君は恐らく何も聞かされていないだろう」
「話って、うちの親父の事か?」
「私は不甲斐ない父だった。息子の異変にすら気付かず、実の孫の存在に気付いたのもつい先日だ」

似ている気が、する。
とても大切で、とても愛しい誰かに。とても大切で、とても優しい誰かに。

「叶うならば一目で良い。龍一郎が私に伝えず先立った事も今なら判る。我が孫は持ってはならぬ力を秘めているからだろう。私が憎む、男爵の名を」
「だから何の話だよそれ!意味判んねェっつーのッ」
「神威を憎んでも仕方ない」

点滴の針を引き抜いた男が疲れた様な笑みを僅かばかり滲ませ、腕を組んだ。

「あれも被害者だ。私が眠り続けていると信じ、見舞いの度に謝罪を繰り返す」
「あのなァ、だから何の話なんだよォ」
「あれが真に私の孫であるなら、手放しに抱き締めてやるべきだ。然し最早、今の私には何の価値もない」

何だろう。
とても大切で、とても愛しい何かを忘れている気がする。とても大切で、とても優しい何かを忘れている気がする。

「帝王院の名はあれには譲らない。あれが憎むべき王の血を引く限り、私が先代から継いだ帝王院の全ては秀皇へ渡るべきだ。他人へ譲る事は出来ない」

あれさえ在れば生きていける、と。あれさえ在ればもう何も要らない、と。例えばあれだけ成りたかった医師免許も、何も彼も。
捨て去ってしまえるくらい大切な何かを、

「絶対なる王から逃げるしか出来なかった私達に許されるものは何も無い。龍一郎が先立つ間際に漏らした言葉が今なら判る。可愛いだろう。愛しいだろう。…叶うならば、一目。僅かな時間で良い。心残りはそれだけだ」


何故。



「俊に会いたい」


思い出せなかったのだろう。











許されるなら尋ねてみたいと遥か昔、願った事がある。祈る様に縋る様に、昔。


何故置いていったのかと。
何故生かしていったのかと。
全てを奪った『悪魔』を何故、殺さなかったのかと。


“あの日の内に”


尋ねてみたいと遥か昔、まだ『自由』だった頃に。考えていた事がある。
爵位を放棄した神にではなく彼に会いたかった。誰にも話してはいない。傍に居た二葉にすら話してはいない真実。

けぶる様な真夏の、あの日の内に。それが許された内に。
(あの日、貴方から離れたこの手には)
(神に等しいとされる地位が在る)
(不自由を束縛する代わりに)


『コード:ルークへ通信要請、回線を開きます』

鼓膜など何の役にも立たない。
威力を増した夜風は大気を震わせ全ての音を奪い、喪失する事のない記憶は全ての神経を奪っていた筈だから、

『中央情報部より至急ご連絡致します。お時間宜しいでしょうか』
「何をしている」
『…は?』

至近距離から漏れる音声になど、微塵も構っていなかった。目前に広がる裸同然の桜林、夜間イルミネーションで幻想的に煌めいている水路を背後に、地下へ誘う遊歩道のまだ、先。

「…あれは、何をしているんだ」

長い銀糸を靡かせ、
イルミネーションの光を反射させる白銀の仮面を片手に、
もう一歩の腕で誰かを抱いている生き物を視た。

まるで鏡を覗いているかの様に。
(足音も気配も呼吸の音さえも)
(ブラックホールに飲み込まれたかの如く無音で)
(近付いてくる)
(一人分の足音と気配と呼吸の音)
(網膜に映るのは、二人)


「僕、」
「俺にはね」
「…え?」
「不似合いなんだ」
「不似合い?」

囁く様に嘲笑うかの様に唆すかの様に、
(いつか聞いた声と良く似た声音が)(唇を吊り上げるのを視た)

「この役割は」


捜し物をしていたのだ。
勝手に居なくなったペットが、もし。怖い怖いと泣いていたら真っ先に抱き締めてやろう、と。
だから、早く見付けなければならない筈なのだ。

泣いていたら、真っ先に。



(死にたいと泣いた弱い生き物を)
(小さく小さく体を丸めて眠る生き物を)
(花の様に笑う、生き物を)
篠衝く雨の中、
  挑む様な憎悪と嫉妬を秘めた双眸で、
  嘲笑った生き物を視た事がある

(違う)
別れ際、吊り上がった唇は赤かっただろうか。
  灰色の世界の中で、あの日



「君の様な純粋な魂に、俺は余りにも似合わない」
「そんな事…」

弾むように、踊るように。
軽快に進む足音を探していた筈だ。



「…あれは、違う」


睦み合う二人の光景から目を反らした。足元を戯れる猫が小さく鳴いた。とても良く知っている声音から耳を塞ぎ、とても良く知っている心音から遠ざかる。

何も怖くない。
死ぬのも怖くない。
心残りは、ただ一つ。

「悪魔に似ていた」
「なぉん」
「俊じゃない」

探しているのは月のない夜に似た黒髪の、黒曜石を溶かした湖の様に凪いだ双眸を持つ、子猫。
擽る様な声音で呼ぶ、愛らしい。寂しがり屋の子猫なのだ。

「アダム」
「みゃおん」
「俊を探しに行こう。猫が好きだと言っていた。菓子を貰えるかも知れない」

早く、早く。
分解された寮の何処かで声を殺して泣いているかも知れない。助けてくれと声を殺して泣いているかも知れない。
独りぼっちで、呼んでいるかも知れない。

『カイちゃん』

早く抱き締めてやらないと。
ぐりぐり頭を撫でてやらないと、死んでしまう。


人間はとても弱い生き物だから。

←いやん(*)(#)ばかん→
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