帝王院高等学校
ネンネしないと朝が来ないにょ
「奥様、どうかなさいましたか?」

猫の爪の様に細く長い三日月を横目に、肩から滑り落ちたストールへ身を屈めた。

「夜風は体に障ります。どうぞ、中へ」
「大丈夫よ。アダムが居ないの」
「アダムですか?また散歩に出たのでしょうか」

黒髪の、此処では珍しい日本人執事が近付いてくるのへ振り返り、彼の背後にシルバーアッシュの男を見付け僅かに目を伏せる。

「お客様だったのね」
「グーテンターク、マダム隆子」

その男は腕に花束を抱えていた。

「我が主人より薔薇の贈り物を」

血に濡れた様な、真紅の。
真っ赤な、真っ赤な、薔薇。

「…帝都さんはいらっしゃらないのね、ネルヴァさん」
「少々立て込んでらっしゃるので、今宵は代理で失礼します」
「私は未だ、貴方々を信頼している訳ではありませんよ。後ろめたい気持ちがないなら、顔を見せて下さる筈でしょう?」
「これは、…手厳しい」
「20年前、私は本当に実の息子の様に接していたつもりです。秀皇が懐いていた、男爵様へ」

差し出された花束へは一切目もくれず、控え目に進み出た日本人執事が代わりに受け取るのを眺めながら目を反らす。短い溜め息が聞こえた。罪悪感は忽ち掻き消える。
母親なのだ。


「…私の息子を傷付ける権利など、神にすら有りはしない」

遠ざかる足音を聞きながら、細い細い月を、ゆるりと。









健やかな寝息が、オーケストラ張りの音を伝えてくる。余りの煩わしさに僅かばかり眉を寄せた男は、物言いたげな表情を浮かべながら沈黙しているもう一人を一瞥した。

「勇ましい表情だ。不良攻めの風上に置けるな、神崎文化部長」

彼はこの騒音に気付いていないのだろうか。他人が発てる呼吸の音、心拍数までもがこんなにも鼓膜を揺さぶり、煩わしい以外の何物でも無いのに、だ。

「灰皇院ってさあ、…イギリスから来たんだっけー?」

探る様な視線、自己完結を隠し切れていない灰掛かった双眸に薄く笑ったが、それが表情を成しているのかは不明だ。
調べたに違いない。この警戒心旺盛な生き物は、何らかの糸口を掴む為に必死で。調べたのだろう。年齢におよそ相応しくない聡明さで、

「レジャーコンサルティングやってんだって?儲かってるみたいで、良かったねえ」

絶望しただろう。
憎らしい男に酷似した顔が部外者だと知らしめられて、最早足掻く術など存在しない。
(神と呼ばれた狼に)
(酷く似ているらしい遺伝子は)
(だから、やはり)
(“あの人”達とは繋がっていなかったのだ)

「ご両親はー、お元気ー?」
「ああ」

久し振りに見た。
山田大空。空の名を持つ、偽りの父親。元気そうに見えたから、元気だろう。麻雀を教えて貰う前に居なくなってしまったから、相変わらずチェスをしているのだろうか。

「隼人君の保護者は死んじゃったからさあ、親は大切にしなよー」
「留意しておこう」
「CM流す時はイメキャラやったげてもよいよー。パリコレとかショボい仕事はあ、お断りなんだけどねえ」

部屋中の灯りが消えた。
一般的には聞こえないだろう冷蔵庫のモーター音すら消えて、足の下が俄かに震え始める。


理由はすぐに悟った。
12畳程度のリビング四方にシャッターが落とされる気配、狼狽える隼人が駆け出す足音、余りにも健やかな寝息、他人の発てる音と、建物が動き始める衝撃、

誰かが言った。
君の聴力は狼のそれと同等だ、と。


「─────セカンドの悪戯か」

可愛らしい猫が笑う声が聞こえた。
勇ましい猫が叫ぶ声が聞こえた。弱々しい勇者の声、脆弱な犬が喚く声、防音防衝シャッターなど何の意味もない。

「起きなさいさっくん!火事だよー!痛っ」

暗闇の中から隼人の声が聞こえてきた。何かに足を引っ掛けたらしい隼人が転げる音、先程まで寝室へ続いた筈の扉は分厚いシャッターの向こう、

「クラウンスクエア、無条件従属」
『コード:ルークを承認』
「我が進むままに、道を」

シャッターが上がる気配、未だ騒いでいる隼人を振り返る事なく閉じていた瞼を開く。
コンクリートの闇に蠢く鉄骨、天井を刳り貫かれた廊下に取り残された生徒が腰を抜かしている光景が下に見えた。飛び降りれば、見慣れた生徒だと判る。

「一年Sクラス野上直哉」
「は、はははぃっ!え?え?灰皇院君?!」
「大事ないか」
「バスローブの灰皇院君?!」

クラス委員長がズレ落ちた眼鏡を上げ下げしながら叫ぶのに首を傾げ、刳り貫かれた廊下の壁伝いに灯された照明を見やる。
電光掲示板に表示された緊急事態の文字を暫し眺め、相変わらず腰を抜かしている委員長へ振り返った。

「こここ、これっ、大丈夫?!怪我はなかった?!凄い揺れだったけどっ、地震かな?!」
「案ずる必要はない。リブラ全域が解体されているだけだ。完全復旧には数分程度懸かるが、私以外の役員ならば小一時間程度必要だろう」
「は?え?ぅえ?」
「そなたを部屋へ戻してやりたい所だが、邪魔が入った様だ。今暫く耐えよ。その内ベルハーツ辺りが修復するだろう」

上から近付いてくる二人分の気配、どちらも良く知っている人間のものだと目を細めて、切り離された廊下の端からコンクリートの海に飛び降りた。

「な、なに、何がどうしたら、こここんな事に?!かっかっかっ、灰皇院くーんっ!!!」
「おっ、その声は委員長やないかー?」
「あ、眼鏡君じゃねぇか。生きてっか?」

バスローブ一枚で消えた神威を縋る様に四つん這いで追い掛けた委員長の背後、何処からか飛び降りてきた二人の声に振り返った委員長の眼鏡がズレ落ちた。

「せ、先生方…」
「何やの、エレベーターに閉じ込められてほんま焦ったで。委員長、怪我せぇへんかったか〜?」
「あー、リブラ解除表示になってんな。誰だよンな馬鹿な真似した役員は」

蜘蛛の巣だらけの村崎と、煤汚れた零人、どちらもボロボロの出で立ちだ。ひょいっと委員長を抱き上げた村崎に、電光掲示板を睨み付ける零人が指輪を引き抜きながら舌打ちし、暫く掲示板のタッチパネルを触りまくっていたかと思えば、無表情で殴り壊した。

「?!」
「こーらゼロ、無闇に壊すなっつっとるやろー。ほんまお前は携帯と車以外扱ぇへんのやな」
「システムは判ってんだよ、帯電体質が悪ぃんだ。精密機器の殆どがすぐフリーズしやがる」
「お前はフリーズ程度で済むだけマシやろ?あっちは爆発するんやったな」
「佑壱が中央会長なんかになってみやがれ、三年前俺がやらかしたマザーコンピュータ全停止なんか可愛いもんだ。学園中爆発すんぞ」
「そら困った、神帝にゃもうちょい日本に居って貰わなあかんな」

朗らかな担任副担任の雑談を聞きながら、フリーズしていた委員長は密かに爆発し、そのまま気絶したらしい。









最近手に入れたばかりのペットは今まで目にしたどれとも違い、懐いたかと思えば逃げていった。突き放せば追い掛けてくる癖に、構えば離れていく気紛れな猫だ。


赤毛の猫が駆けていく足音を聞いた。通常のそれより大分早まった心拍は、彼が憤っている事を伝えてくる。が、だからと言って何を気に病む事もない。
随分花を散らした無様な桜並木を進み、眼前を靡びく漆黒を何ともなく眺めた。偽りの、黒。


アクエリアス噴水よりも僅かに小さいパイシーズ噴水は、アンダーラインの上を真っ直ぐ走る水路で二つの噴水を繋げている。
淡いグラデーションを灯す無数の街灯が並び、水路の左右に遊歩道、向こうに巨大な校舎が見えた。ライトアップされた白亜の宮殿、その隣には闇に包まれた深紅の塔。

あそこで暮らしていた事がある。
遥か遥か昔、あの血に濡れた様な赤い赤い塔の最上階。二人の父親と暮らしていた事がある。

生み落ちてからすぐに巻かれた包帯は視界を闇に包み、時折それを外してくれた人はいつもいつでも笑っていた。
様々な国の空の写真が並ぶ絵本を手に、彼の膝に座って。特に気に入っていたのは、紫外線防御の分厚い硝子窓の向こうに見える白亜の宮殿に酷似したスペインの建物だ。白造りのそれは、青い空に良く似合っていたから。


いつもいつも遅くに帰ってくるもう一人の父親は、囁く様な声音で名前を呼んだ。大抵は巻き直された包帯の下、どんな顔をしているのか気になった事がある。

お帰りひでたか、と。
膝の上に自分を抱いたまま笑う人、ただいまと呟いて近付いてくる足音はいつも二人分だった記憶がある。
けれど青い空の名を持つ人は、その足音を必ずヒデタカと呼んだのだ。


頭を撫でてくれる大きな手は囁く様な声音で名前を呼ぶ。神威、良い子にしていたか、と。けれど無口な方では無かった気がする。

なのに頬にキスを与えてくれる温かい何かは酷く無口だった。
ヒデタカは神威が大好きなんだね、と。擽る様に笑う人が絵本を捲る気配、ほら見て神威はこれが気に入ったんだよと、鼓膜のすぐ傍で彼が笑えばまた、頬にキスを与えてくれる誰か。


温かい体温。
力強い脈動、けれどまるで包み込むかの様にゆったり、ゆったり。近付いてくる足音と心拍数は、子守唄の様で。


『白と、黒か』

キーボードを叩く音を響かせていた人は相変わらず囁く様に笑い、いつでも同じゆっくりめの心拍数を聞かせてくる。

『兄弟みたいだねー。あはは、擽ったいよヒデタカ。どっちが兄さんなんだか』

カツカツ、盤上に駒を走らせる人はそれより僅かに早い心拍数、

『あ、また』
『ヒデタカが神威にキスをした』

ならば、これは。
誰の鼓動だろう、と。頬を舐める気配に目を細めながら、いつも。


みかどいん、ひでたか。


父親だと信じて疑わなかった幼い日に、いつも。同じ名を持つ酷く無口な優しい誰かの脈拍を聞きながら、考えていたけれど。

最後に見た父親は。
初めて見た、父親は。
乱れた黒髪の下、黒曜石の双眸を憎悪と絶望に染めて。砕け散ったステンドグラスから覗く赤い赤い満月の下、手を伸ばしたのだ。


握り締めたステンドグラスの破片、滴る赤い何か、悪魔と囁いた薄い唇、こんな時までゆっくり刻む心拍数、背筋が凍る威圧感を従えて、きっと。

それは、


憎悪などと言う生易しいものではなかった筈なのに。


イルミネーションの下、水路に浮き上がる黒髪の生き物を何ともなく眺め、それを引き抜いた。
姿を偽ろうが何も変わりはしない。偽りの黒を剥ぎ取れば夜でも隠し切れない煌めきを放つ白銀、いつか彼は囁いた。

「これが悪魔か」

許されるなら尋ねてみたいと遥か昔、願った事がある。祈る様に縋る様に、昔。

何故置いていったのかと。
何故生かしていったのかと。
全てを奪った『悪魔』を何故、殺さなかったのかと。

“あの日の内に”

尋ねてみたいと遥か昔、まだ『自由』だった頃に。考えていた事がある。
爵位を放棄した神にではなく彼に会いたかった。誰にも話してはいない。傍に居た二葉にすら話してはいない真実。

けぶる様な真夏の、あの日の内に。それが許された内に。


「─────不恰好な悪魔だ。」

変えられないものがある。
人間には、いや、動物には。余りにも無意識に習慣化した癖があるものだ。

一つ、呼吸。
一つ、瞬き。
一つ、足音。

全く同じ人間などまず存在しない。意識的に変えない限り、それは指紋以上の存在証明となるのだ。


「…ぉん。…………ぉおん」

トントントン、トントントン、トントントントントントン、と。

「イブを呼んでいるのか」
「みゃおん」
「また逃げ出して、そなたは。お祖母様を悲しませてはならぬと言っただろう?」
「にゃ」

軽快に弾む足音ばかり探している。


「吉報が、…いや、どうだろうな。お祖母様は喜ぶだろうか」
「なぁおん」
「本物の息子が見付かったと知れば、喜ぶだろうか」

まるで子猫の様に。跳ねる軽快な足音と、柔らかく名を呼ぶ声音を。
力強く穏やかな心音を。


「私は所詮、身代わりだ。キングの爵位はナイトへ譲られた」
「にゃーん」
「ルークに意味など存在しない」

見付けたら眠る事が出来るのだから。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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