帝王院高等学校
スイマーは泳ぐ人ではありません
なんて不自由な世界だ、と。
いつか世界の全てを憎んだ生き物は、軈てその虚しさに気付いた。
『死に損ないが』
『お前を弟とは認めない』
甘い甘い、ハニートーストの様な声音で微笑む人と会話した記憶はない。つまりこれは、ただの夢だ。
『父さんを返して』
『母さんを返して』
『お前など生まれてきたから皆が不幸になった』
『お前さえ居なかったら幸せだったのに』
人はこれを悪夢と呼ぶのだろう。
人はこれを悪夢だ忘れなさいと言うのだろう。
会った記憶のない肉親から、夜毎繰り返される呪いの言葉を。他人はきっと、悪夢の一言で片付けるに違いない。
『兄さんはお前を許しはしない』
『私の命を返して』
その声の主は甘い甘い微笑を湛えたまま(写真で見るよりやや大人びた姿で)誘うように腕を絡め、赤い赤い唇を吊り上げて囁くのだ。
なんて情熱的な赤。
(あかはあなたのためにそんざいするの)
(あなたのいのちをうばった、おれは)
(いまのいままで)
(貴方を思い出しもしなかった)
『死に損ないの弟』
(怒っているの)
(姉さん、貴方を忘れた愚かな弟を)
(太陽の様に微笑む写真の中の貴方は)
(忌々しい弟の首へ手を掛けて)
(やはり太陽の様に微笑ったまま)
(繰り返そうとするの)
(他人が悪夢と呼ぶだろう、言葉を)
『私の躯を返して、
─────死に損ないの二葉』
毎晩、毎晩。
「閣下?」
通り過ぎる不特定多数の視線が煩わしかった。持病に近いドライアイから眼鏡を外し、わざわざ伸ばし続けてきた『前髪』を掻き上げれば、唖然とした他人の表情に出会う。
一瞬にして真っ赤に染まった他人から目を離し、眉間に皺を寄せたままひた歩いた。目的地など何処にも存在しない。
哀れな夢を視ていた。
他人なら希望と呼ぶのだろう、酷く儚い夢を。愚かな人間でしかない自分は、容易には死ねない生き地獄を彷徨う内に疲弊していたのだろうか。
「死に損ないが…」
生きるには理由が必要だ。
突然訪れる死に理由など存在しないのに、生きるには理由が必要なのだ。なんて面倒な話だろう。
面倒臭い生き物は、他人にそれを押し付けた。生きる為の理由、『他人を守る』と言う、素晴らしい理由を。
得て、浅はかにも忘れ去ったのだ。
立場も義務も権利も、全て。
「白百合様?」
誰かの声が聞こえた、気がする。
目線を低く落とせば、恐らく下級生だろう小柄な生徒が見える。黒髪の、何処にでもいる生徒が。
(一般的に、これは可愛いと呼ぶべきだろうか)
(あの人に良く似た黒髪)
(生きていたらきっと)
(あの人の身長はこれくらいだったのかも知れない)
「たかは」
「…え?」
「違う、か」
良く似ていた。気がする。
昔、日本の何処かの公園で出会った余りにも自由奔放だった子供が、写真の中でしか会った事が無い女性に似ていた気がする。
年が離れた一番上の兄は精悍で聡明でまるで父親の様で、遥か昔、事ある毎に聞かせてくれた。
快活奔放で、気高く優しい貴葉。
「白百合様?」
「…俺を変な名前で呼ぶな」
生きていたなら、社会人らしくなく飛び回っていたのだろうか。
「きゃっ」
伸びてきた他人の手を振り払う。酷く容易に倒れた他人は怯えた目で見上げながらも、何処となく赤く染まった頬を隠しもしない。
ああ、他人に触ってしまった。
凄まじい嫌悪感は指先から背筋を駆け上がる。手袋を忘れるなんて、笑い話だ。
「蕁麻疹」
呟いて近場の階段へ足を進め、痒くて堪らない左手を持て余しながら右手で手摺りを掴む。
掴んだ手摺りから短い助走を経て階下に飛び降りれば、見ていたのだろう誰かが悲鳴を上げた。
「かゆい」
二階分落下した辺りで再び手摺りを捕まえ、足で空を蹴ると同時に階段へ飛び降りる。何処に向かうつもりなのか、勝手に動く足に任せたままひたすら左手を掻けば、曲がり角の向こうに他人の気配。
それも、殺気を帯びた。
無意識に胸元へ伸ばした手が使い慣れた冷たい金属を探り当てる。曲がり角から伸びてきた手、引き金を引いたと同時に現れた見慣れた男へ、最早操縦の利かない右手は何の躊躇いもなく鉄の弾を放つ。
「学園内で殺人を犯してしまった」
硝煙を放つ銃口、映画で良く見る様な派手な音など誰も聞いてはいない。現実的に、あんな派手に銃を扱う暗殺者など存在する筈が無いだろう。
「…テメェ、マジで殺すつもりだっただろ!」
どうやら相手を甘く見過ぎていた、らしい。間一髪だろうか、銃弾を避けたらしい男はその秀麗な顔に青筋を浮かべ、性格の割りには乱れ一つないブレザーを整えながらズカズカ近づくなり拳を鳴らす。
「殴らせろ、その羽織りテメェの血で染めてやらぁ」
僅かに高い位置。
今度は目線を上向かせ、酷くクリアな視界の中で金髪の男を眺めた。
背の高さは一番上の兄より高く、二番目の兄よりは低い。凛々しい切れ長の目元は一番上の兄に似てない事もないが、性格は二番目の兄に似ている気がする。
「死に損ないが」
「んだと?マジで俺様を殺すつもりだったのかよ…」
嫌いではない。
嫌われていたとしても、嫌ってはいない。
ただ、苦手なだけだ。
「違う、俺の話だ」
「あ?っつーかお前、眼鏡どうした」
「何で生きているのか、不思議でな。一度殺されてみようと思ったが、防衛本能が働き者過ぎてうまくいかなかった。二年前だったか」
近付いてきた手に金属の塊を奪われた。保護するべき対象に発砲した過去を忘れ、未だに消えていないだろう眉間の皺をそのまま再び歩き始める。
「二年前っつったら、大河朱雀の話か?あの糞生意気な」
付いてきたらしい男が背後で舌打ち混じりに宣う声。傲慢加減では日向の方に軍配が上がるのではないかと考えながら、情け容赦なく全身の骨を叩き折ってやった二つ年下の生徒を思い出した。
その一週間後に情け容赦なく投げ飛ばされた記憶があるが、それは全くの別人からだ。
「俺様がちょっと目を離した隙に騒ぎ起こしやがって、」
「カイザーの元へ甲斐甲斐しく通い詰めてましたもんねぇ、あの頃までは」
「ぐ」
「あれから背が伸び始めて、ストーカー生活に切り替わったんだったか」
「余計な事まで覚えてんじゃねぇ!」
「カイザーより背が高くなっても一向に逢瀬を果たそうとしなかったのは、どんな理由やら」
胸元からスペアの眼鏡ケースを取り出した。が、どうやら余り気に入っていなかったものらしい。
「いけませんよ、高坂君。先程理事長が仰った様に、貴方には陛下と同じ重責がある」
「…」
「ヴィーゼンバーグはともかく、高坂の一人息子なんですから」
背後の沈黙の理由に気付きながら、無意識で握り潰した眼鏡を放り捨てると、風紀がポイ捨てすんなと喚く男の声が追い掛けてきた。
「…判ってんだよ、んな事ぁ」
「なら、良いんですけどねぇ。貴方は大層一途な方の様ですから。そう、本気で好いた相手には会いに行く事も出来ない程にはシャイなひなちゃん」
「ぶっ殺すぞテメェ」
「大河朱雀の様に返り討ちですよ」
口喧しい声を遮断した刹那、酷く見覚えがある背中を見たのだ。
「今頃何やってんだかあの餓鬼は」
「謹慎はとうに期限切れですがねぇ。まだ入院してるのでしょうか」
「大分派手にやったんだろ?珍しく帝王院の奴が楽しそうだったからな。猫が二匹戯れてたと何とか…」
相変わらず何を考えているのか判らない雇用主の脳内では、自分など猫の子と同じらしい。まるで闇夜を闊歩する、あの皇帝と同じ様に。
「大体なぁ、大河とうちが付き合いあんの知ってんだろうが。俺様はテメェと抗争する気はねぇんだぞ」
「…」
「そもそもからして大河は祭の主人だろうが、本来ならテメェが守ってた相手だぞ。俺んトコに通い初めてからも何回か要請あってたみてぇだしな」
「…」
「聞いてんのか、二葉」
グチグチ煩い声が、拾ったらしい眼鏡の残骸を近場の誰かに手渡しながら振り返って沈黙した。
「まだですか」
「まだ」
自動販売機を前に、相変わらず濡れた髪に構わず何事か考えている背中。隣には購買の袋を抱えた長身が見える。
「お茶で良かったんじゃないんですか?いつまでも安部河君を一人に出来ないでしょう?」
「神崎とカイ君が居るだろ」
「ハヤトを残してしまったからこそ言うのです。安部河君の身が危ない」
「桜に何かしたら教鞭で叩くって言って来たし」
「そんなもので我々が言いなりになるとでも?」
「ぐ。確かに…」
背中だけでも判る、仲睦まじい生徒が二人。どちらも酷く聞き覚えがある声音、酷く見覚えがある背中だ。
「大体貴方は、勝手に出歩くなと言う議会決定を無視し過ぎです。弱っちい平凡受けの癖に」
「ちょ、弱っちいほにゃららとかいわないでくれないかい錦織君、キャライメージ崩れる」
「下らないゲシュタルトなどとっとと打ち壊しなさい、俺は常に総長命令第一主義です」
「駄目だ、もう左席にはオタクしかいない」
「ご存じですか、オタクとフダンシは似て非なる別物ですよ。主に乳臭い二次元女子を愛でるのがオタクです」
「俊のゲームコレクションにキャラゲーもあったよねー…、お帰りなさいお兄ちゃん系の」
「さっさと緑茶でも杜仲茶でも買って帰りましょう」
「都合悪くなると話擦り変えるよねー、錦織」
何処にでもいる様な友人同士の雑談光景を視ていた。
(あれも、だめなの?)
(ああやって隣で)
(つまらない話をしたり)
(夏場にはアイスクリーム)
(甘い菓子を並んで食べたり)
(泥塗れになるまで走り回ったり)
(ただ、傍に居るだけですら)
『死に損ないが…!』
ねぇ、何処にいるの。
『何で兄様があんな目に遭わなきゃならないの!』
『お前が死ねば良かったのに!』
『勘違いするなよ!俺はいつでもお前なんか殺せるんだ!』
もしかしたら初めから居ないのかな、
『死に損ないのネイキッド!』
僕だけの神様。
「二葉、」
何故ですか。
何故ですか。
何故ですか。
何がいけなかったのですか神様、産まれ落ちた僕はまだ満足に喋る事が出来ない生後三ヶ月で母を殺し、父親に至っては生み落ちるよりずっと以前に亡くしていました。
何故、産まれてきたのだろう。
亡くなった蒼い眼差しの気高い人が、日毎夜毎囁いています。
「決まりましたか山田君、」
「はいはい、…は?」
死に損ない、と。
産まれてきた瞬間から極悪犯だと言うなら、そもそも産まなければ良かったのに。
幾つもの命を奪い、実の兄から疎まれ棄てられた命に生きる理由など微塵もありませんでした。ただ、兄からの命令に従っていただけの話。
誰かからの命令通り、出会った男爵に従って。世界の片隅でまた誰かの命を奪い、また誰かの命令通りに流されながら生きています。
夜毎、写真の中でしか会った事が無い女性が囁いています。
お前が死ねば良かったのに、と。
もう、自己都合では死ぬ事も出来なくなった僕に、毎晩。
「嘘、だろ」
「…洋蘭?」
眠る時間は限りなくゼロに等しく。
起きている時間は常に誰かの命令に従いながら、人形の様に生きている。愚かな生き物。
欲しいものなど存在しない。
死神から奪われるまでこの命は何かを奪い続けながら、生涯孤独なまま、だと。
(太陽の様に微笑う女性を思い出した)
(幸せな夢を)
「ななな何事だい?!」
「…相変わらず残念なお顔ですねぇ、」
腕に抱いた太陽の名を持つ他人へ、勝手に近付いていく視界に映る茶掛かった瞳が、黒いから勘違いしてしまうのだ。
(出会わなければ良かった)
(助けなかったら良かった)
(どうせ忘れてしまうなら)
(あんな約束、交わさなければ)
他人は希望と呼ぶだろう、この際限ない悪夢を。
「─────山田太陽君」
(愛、などと)
←いやん(*)(#)ばかん→
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