帝王院高等学校
見上げ雲外蒼天だと他人事の様に
好きか嫌いかで言えば、普通としか答えようがない。若干“苦手”の部類に入るだろうとは自覚している。─────存外。
油断大敵、初対面、いや、正確には再会だが、イギリスから帰って来た落胤の話は好奇心を擽るのに充分だった。

と、言えば、余程自分と言う生き物は退屈していたのだろう。



思い出すのも忌々しい五年前。

12歳になったばかりの春、桜舞い散る中で佇むお姫様などと言うのは、今すぐにスカイツリーから飛び降りたくなる程の切なさだ。
だが然し、第一印象が宜し過ぎた。だから、悪くなかったのだ。実直に、果てしなく本音で早い話が素直に言えば。
ああ、何だこの回りくどい言い回しは。無意識に自己防衛しているのだろうか。言い訳する事で。

『見ろよ、あれ』
『え?…うわぁ』

感嘆の息に何ともなく目を向けた日。人生初に等しい『敗北』を叩き付けられた日の、朝。
空は呆れ果てる程に青かった。

『アイツ、雄か?』

思わず瞬いた目を擦ってしまう程に、それは制服が全く似合って居なかったのだ。
ネイビグレーのブレザーと、シークレットボーダーが入った漆黒のシャツは中等部を示すものだ。全くの無地である黒いブラウスと、白いスラックスである初等部の制服である自分より、年上。

『女みてぇ』

呟いてちょっとした好奇心から近付いてみる。
小柄な曰くお姫様へ話し掛けている白いブレザーは高等部だ。喧嘩では負けない自信はあるが、短距離戦闘を得意としたボクサー派の自分に、高校生三人相手は些か荷が重い。
ショタコン野郎が、と。舌打ち混じりに様子を窺えば、ヘラヘラ話し掛けていた白いブレザー三人が宙を舞った。


『誰に気安く口訊いてんだ、貧乏人共』

その可愛らしい容姿にはまるで似合わない台詞を凛とした声音で、それは。
高貴な光を纏い、気高く。

『目障りだ。…失せろ、二度と面見せんじゃねぇぞ』

網膜から自律神経を麻痺させ、脳の奥底を揺さ振ったのだ。まるで媚薬の様に妖しく、緩やかに。
自覚させないほど、迅速に。



手を伸ばした。
あれに勝てれば世界が変わるのだと、何の疑いもなくそう信じたから。



『ちょっとデケェくらいで意気がるなよ』


僅かだけ目を瞠ったそれは、何の前動もなく無駄のない動きでこの手を躱し、




『赤毛野郎。』


太陽の光を背後に。
唇に嘲笑を浮かべながら、囁いた。



負けた訳ではない。
適わなかっただけだ。



『出直してこい』


苛立ちを忘れ果てる程に、そう、呆れるほど空が青かった日の話。









あれは何だ、と。
常にロボットの様な限りなく能面染みた面を貼りつけ、与えられた仕事を忠実に熟す執事に尋ねれば、記憶する必要はないと言った。

ならばあれは何だ、と。
常にロボットの様な限りなく能面染みた控え目な笑みを貼りつけ、与えられた仕事を日々繰り返すメイドへ尋ねれば、彼女等は逐一表情を失った。



似通った顔、酷似し過ぎた声音、違うのは髪の色と瞳の色。


「お前は何だ」

と、尋ねれば、この世の不幸を全て圧縮した瞳を歪めた『それ』は、酷く静かに吐き捨てた。


「お前の身代わりだ、ブラックシープ」

羨ましかったのかも知れない。

「憎いか」
「ああ、この世の全てが」
「恨むか」
「それでこの屈辱が晴れるなら幾らでも」

未だ人間らしい感情を豊かに抱くその生き物が。望めばいつでも消え去るだろう脆弱な生き物が、こんなにも。憎悪を圧縮した声音で宣うから、きっと。

「まだ、憎めるか」
「…何だ、と」
「私にその情は既に存在しない。何を屈辱と名付けるかそなたは」
「この世の全てだ」
「愚かな生き物よ」
「侮辱するかルーク!貴様さえ存在せねば俺が存在する事はなかったのに…!」



神様。
天のいと高き場所に在らせられる神様、見守って下さるなら祈る術すら知らぬ動物にご慈悲を。
と、人間ならば姿無き偶像崇拝に酔うのだろうか。


「そなたは」
「貴様さえ存在しなければ!」
「酷く愛らしい生き物だ」

恨んだ記憶はありません。
憎んだ記憶はありません。
ただ、あの時あの人は何を考えていたのだろうか、と。繰り返し想像する事はありました。
別れの間際に一目見た神様が、あの時何を考えて憎悪と殺意に塗れた双眸を向けてきたのだろうか、と。

答えは酷く容易に落ちてきました。



「未だ、自己保身を優先するか」
「何だと!」
「無意識からなる防御は、理性と対なす本能の産物だ。何も恥じる事はない」
「愚弄するかルーク!」
「私は」



ああ、きっとあの人も人間だったのです





「幸福と絶望を淘汰した果ての残骸だ。願う術も憎む術も祈る術も恨む術も何一つ、…唯一の望みの前では無意味に等しい」


三歳になる前の日、に。
世界は初めて色を着け、そのまま灰色へ染め変わりました。


あの男さえ居なければ良かったと繰り返し。
(出会わなければ良かったと)

この身に宿る四分の一の血液が、二分の一だったならどれ程幸せだったろうかと繰り返し。
(せめて本当の親子だったなら)
(恨む事も憎む事も手を伸ばす事も追い掛ける事も、出来たの・に)


何度繰り返したでしょう。
明けていく東側の空に灰色の炎が昇り行くのをただただ、見ていました。
青いものだと思っていた空は果てしなく暗く、灰色です。そう、グレー。目に映る全てがブラックグレーで、ああ、そうか、自分が黒羊だからかと理解したのは少し後。


胸に穴が開いた様でした。
左胸に手を当てればトクトク脈打つ皮膚の下、死んだと思っていた『父親』が再び姿を現し、何の感情も滲まない眼差しを注いできた時、に。
この身に宿る全ての感情の残骸を、掻き集めたのです。



「殺してやる」


瓜二つだと言う自分は、我が身に宿る二分の一の血液を呪い続け、いつか我が身ごと目の前の“狼”を葬るのだ。
ああ、この身に宿る二分の一の血液が、せめて二人の父親のどちらかのものだったなら良かったのに、と。何度繰り返したでしょう。

灰色の光に焼かれた双眸から流れ出した体液、騒ぎ立てる侍従に引き連れられながら、最後の最後まであの男を呪い続けました。


(呪えば救われるならきっと)
(迷わず今も尚、きっと)
(恨み続けていたでしょう)
(けれど脳細胞は気付いてしまった)
(森羅万象の無意味さに)
(間もなく)


「カイルーク」

だから。
気付いてしまったのです。
  どんなに待ってもどんなに励んでも、去った人は戻らないのだと。
  この身に宿る二分の一の血液を有した“狼”だけが肉親であり、唯一名を呼ぶ存在なのだ・と。

  神威と呼ぶ権利は剥奪しました。“神”と崇められ、“狼”として幸福を奪った男は、けれどこの手を掴もうとも振り払おうともしませんでした。


  まともに言葉を交わしたのは9つの春。何一つ感情を滲ませない眼差しに、僅かばかり何かを宿した“神”は。
  黒曜石を一石埋めた瀟洒な剣を作らせ、真紅の墓石に突き刺しました。


  大陸の地中深くに存在する広大な世界の中央、人がセントラルキングダムと呼ぶ屋敷の中央に。




「そなたへ我が持ち得る全てを譲り渡す」

神はそう囁き、地位と富を全て置き去りにして姿を消しました。東の島国へ向かったのだとは、すぐに判った事です。
幼い男爵よりも、圧倒的支持率を有した神男爵こそ仕える主だと、多くの人間が出ていきました。


飼い馴らしたペットが一人。
灰色の世界で強く煌めく黒曜石の左眼、本来は翡翠だった筈のその眼差しを真っ直ぐ注いだまま、逃がしてやると背を向けようと。
最後まで残ったのは彼、一人。


「今更、何処へ行けと仰いますか」
「不夜城なりと、日の国なりと」
「私はファーストや貴方の様に語学万能ではないのですよ。精々20ヶ国程度理解しているだけで」

いつからか能面染みた笑みを張り付け、感情の一切を放棄したかの如く表情を失ったペットはまるでロボットの様に。
繰り返し繰り返し、

「我が身は神の為に」

自分の周りには、人間から掛け離れた『機械』ばかり存在したから。疑問に思う事も煩わしく思う事もない。
執着か純粋な思慕か、いつも戯れてきた赤い猫はいつかその背に翼を生やし、何処ぞへ飛び立った。何より人間らしかったから、接し方など未だに理解出来ていない。


手を伸ばしてやれば良かったのだろう。
愛らしい猫を愛でて望みのまま、お前が大切だと。囁いてやるだけで、あれは満足した筈だ。けれど結局、そんな単純な事も出来なかったのだ。

煩わしかった。
兄様、と無邪気に囁く声が。



この身に宿る二分の一の血液、そのまた二分の一で一致している『従兄弟』と言う近い様で全く違う関係が、煩わしかった。


願うならこの身に宿る二分の一の血液が、東の島国のものなら良かったのだ。
ならば父と呼び手を伸ばし、振り払われようが追い掛ける事が許された筈だ。あの日、全てを置き去りにして去った人を、ずっと。




されど呪わしいこの身には、誰のものとも知らぬ血が流れている。
狼とそれを愛した報われない女の血が混ざり合って、自分と言う『悪魔』は産まれたのだ。



もし再び出会う事があるのなら、何を願うのでしょうか。
もしあの時のあの人が何を思い何を願っていたのか判れば、未練はなくなるのでしょうか。


目につく全ての興味を掻き集めれば、世界に価値が産まれるだろう。
掻き集めた何かの欠片に縋りついて、それが依存に適えば。生存理由となるのかも知れない。


生きるも死ぬも無意味だと。
結論付けてしまった脳細胞を麻痺させて、命にしがみつく無様な動物になれるのだ。



「セカンド」
「はい」
「空を、見に行こうか」
「今から、ですか?」
「ああ」

首を傾げた能面染みた美貌を横目に、手に取ったのは白銀細工。
このみすぼらしい顔を隠せば、いつ何処であの人に出くわそうと、最早あの人が気付く事はないだろう。
(憎悪の目で睨め付ける事もないだろう)


「随分久しいな、外へ出るのは」
「そうですねぇ、暫く慌しかったですし。あ、陛下。見付かってしまいましたよ。ほら、あそこに追っ手が」
「追っ手、と呼ぶには些か物騒なものを手にしている様だが」
「おや、困りましたね。どうやら反対派の間者の様ですが、ああ迸る不愉快!…高が20人程度でこの俺を止めるつもりでしょうか」
「セカンド、愛らしいそなたにその言葉遣いは似合わん」
「暫しお時間を。10分もあらば、御前へ並べた首でドミノを御覧に入れましょう。唯一神の威光を須く知らしめんが為に」

久し振りに見上げた空はやはり灰色だった。いや、恐らくこれこそが青と呼ぶに相応しい色だろうが、何の感動もないなら灰色と同じ事だ。
世界は美しいと皆が言う。
この世の全てが美しいと皆が謳う。

何を見ても何の感動も得ない自分は、どれほどつまらない人間なのだろうか。
そう、能面染みた笑みすら張り付けていない自分は、どれほど。


「暇ですね、陛下。エンジョイ刑務所生活もすぐに飽きましたし」
「そなたが囚人らを脅すからだろう」
「何を仰いますか、元々は陛下が彼らを精神的に痛め付けたんでしょ?迎えに行った私へ八つ当たりしたくなる気持ちも判らなくもありません。可哀想に」
「私はただ、宇宙の面積を表す方程式をとく語り聞かせただけだ」
「震えるほど興味があります。それはフェルマー定理よりも愉快ですか?」
「あの下らん方程式ならば、とうに解いた。何の面白味もあるまい」
「陛下、死ぬ前に答を教えて頂けますか。ああ、それまでに私が解き果てていなければ、ですが」
「聡明なそなたに解けぬ式など存在せぬだろう」

空は確かに青く。
相変わらず能面染みた笑みを浮かべるペットの瞳は黒く、蒼く。
雲外蒼天、口程の困難を乗り越えた覚えはないが、碧落一洗・梅雨明けの空は抜ける様に広く澄んで、

「そうだ、良い事を考えました。高坂君を拉致しましょう」
「ベルハーツか。公爵家から逃げ出したのではなかったか?」
「ええ、逃げ出しては親類から幾度と無く命を狙われましてね。先日までクリス様の加護を頂いていたのですが…」
「我が叔母は仕事を名目に日本へ向かったのだろう。ファーストが恋しいか、クライスト卿の手管か」
「陛下はクライスト卿がお嫌いで?」
「嫌う理由がない」
「現状、高坂君の身は枢機卿へ預ける形だったのですが、戴冠なされた今、陛下が彼を庇護なさるのは少々、」
「構わん。我が名があらば、祭がそなたを呼び戻す事も、公爵がベルハーツを操る事も適わない。…愛らしいそなたの頼みだ」
「もう、だからお慕いしております陛下」

見据えた世界は広く、狭く。
改めて実感したと言えば余りに大袈裟だが、



「梅雨明けの空は穏やかですねぇ」
「そうか」


鼓膜を震わせるあらゆるノイズが、こうも煩わしいとは。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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