帝王院高等学校
卵もパパイヤもどっちもどっち
今頃我が子は青春をエンジョイしているだろうか、と。コーヒーカップに注がれた杜仲茶を啜りながら、見た目だけなら紅茶をくゆらす紳士然した彼は仄かに笑みを浮かべた。

「先日の株主総会は大成功だったねー、小林専務」

他人事染みた呟き一つ、向かい側に腰掛ける何とも言えない表情の男へ悪戯な目を向ける。
僅かばかり離れた所でカップを片手にしたもう一人と言えば、決算書類を眺めながら“あの騒ぎ”に丸一晩付き合ったとは思えない清々しい表情で一言、

「さて、今回もまた自己暗示のやり直しでもなさいますか遠野課長」
「返す返す言葉もございません小林専務」
「ああ、これで二日もお風呂に入れてない…。昨日は早く帰るって約束したのになー、また今夜帰ったら胡瓜パックの嫁からいたぶられるんだろうねー、僕。よよよ」
「申し訳ありませんでした山田社長…」
「お痛わしや社長、この私が至らないばかりに…よよよ」
「…」

丸一晩、錯乱したこの男を宥めたのだ。心なしヨロヨロなスーツで解け掛かったネクタイを整える事もなく、両手で顔を覆う『亀甲縛り男』にひたすら微笑み掛ける。精神的苛めだ。
専務に至っては数年振りに見る鬼畜顔ではないか。この男を怒らせるのは、ある意味宝くじを当てるより難しいのだが。

「はぁ、うちの会長は何処に行ってしまったのかなー。やっぱり僕が頼りないから愛想尽かしたのかな、小林君」
「ご冗談を山田社長、我が社は社長無くしては成り立ちません。ええ、あの糞役に立たない帝王院会長など居ても居なくても同じ事」
「…」
「そうだね、糞役に立たない遠野課長が居なくても会議に支障がないのと同じだよねー」
「ええ、遠野課長と言えばやれ嫁が風邪引いただとかやれ息子入学式だとか、何かと理由を付けてはサボりたがるMr.サボタージュ。居なくても我が社には何の支障もありません」
「………」
「やっぱ時給800円だからいけないんじゃないかい?」
「厚生年金まで付与しているのに、十分でしょう」
「……………」

長い混乱状態の果て、自ら「縛って下さい」などと宣った男に、睡眠不足から半ば殺意を込めて縛り上げたのが朝方。専務に至っては鞭で尻を叩く始末だ。何をされても甘んじて受けた当の役立たずは縛られたまま、ペット用の水入れに注がれた水道水を眺めている。
極め抜いたジョークだ。
幾ら役に立たない課長だろうがペット扱いする訳には行かない。その上、自分らが杜仲茶でこの男に水道水となれば明日には命がないだろう。

いや、ジョークではなく。


「秀隆」
「…どっちで呼ばれたんだ、今のは」
「僕がこの世で一番大切にしていた親友の名前だよ」
「…そうか」
「情けない」

小林の台詞に自嘲染みた笑みを浮かべた男に、然し当の専務が慌てて首を振る。

「そう言う意味ではなく!私自身が力不足な我が身を呪っているのです」
「参ったな。この上、同情されては、俺は益々身の置き所がありませんよ、小林専務」
「会長、」
「消えてしまいたかったんだ、あの時」

囁く声に目を伏せた。
長い付き合いだ。あの日、あの時を知っている自分だけはその言葉の意味が良く判る。

「幼い子供すら手に掛けようとした。あの時、自分の幸福以外の全てに意味がなかった」
「自分の幸せを望むのは悪い事じゃないよ」
「大義名分なんだ。秀隆に命じたのは紛れもなく俺だ。あの時、憎らしいあの男を殺したのは疑うべくなく、…私」
「秀皇」
「親父に会いに行ったんだ」

疲れた様に微笑んで、ソファーへ深く背を預けた男が髪を掻き上げた。安っぽい笑みを失えば途端に威圧感を滲ませる美貌は、リクルートスーツで身を包もうが隠し切れない。どんなにボロを纏おうが、生まれ持つ品格を消し去る事など出来る筈がないのだ。


帝王院秀皇。
全てから逃げ出した、日本最高位の男。戸籍すら捏造し、ただの一般人に成り済ました偽りの男。
本来ならば何不自由なく暮らしていた筈の。


「何が失敗だったのかと考えた。答えは一つ、遠野俊江に出会ったその日が岐路」
「…」
「あの日、俺の全ては容易く崩壊した。あのまま嫡男として後継の職務を全うし、言われるがまま跡取りを産むに相応しい女を添えていれば。誰もが傷付かず済んだろう」
「君が傷ついたよ。サラはキングを愛していたから、あの男のDNAで妊娠したんだ」
「調べは付いていますよ。不自然な点が多々ありましたので、数年前に叶を使い調べたんです」

叶一門は流石だな、と息を吐き、味方だからこそ喜ばしいが、敵になれば厄介と言わざる得ない。
次期後継者筆頭、叶二葉の悪名は海外だけに留まらず日本にも広く知られているからだ。本家には一切関わりがない専務ですら、遠縁の跡取りに関しては『関わりたくない』と言うのが本心だろう。

「どの道キングの息が掛かった女を宛行われてた。サラ以外でも同じ事だ。キングは誰もを魅了し、人を惑わせる」
「当の会長ご自身が余りにも無防備に陶酔なさっていたのですから。つまりあの子供は、」
「二年、暮らしたんだ」

呟きにしては重い、擦れた声音に口を噤む。短い様で情を募らせるには余りにも永い二年と言う月日は、確かに充分なものだったろう。
始めから金髪の男爵を警戒していた山田大空でさえ、生まれたばかりの無色素の赤子を可愛がった。それこそ、実の子の様に。

今、実際に父親となって我が子を手放しに可愛がれないのは、あの日の痛烈な別離が糸を引いていると思う。いつか別れるなら始めから可愛がらない方が良い、と。
恐らく意識的に警戒線を引いているのだ。妻にも、子供にも。


「俊江さんは何も聞かないのかい、今も」
「何一つ」
「出した筈の婚姻届が受理されていない事には気付いてるだろうに」
「義父さんが認めなかったからな。…グレアムに関わる俺を、最期まで」
「どう言う事?偽造戸籍で結婚するのが嫌だから入籍しなかったんじゃなかったの?」
「チェスの俺を、嫌がったんだ。ナイトの名がある限り許す訳にはいかない、と」

沈黙する専務と目を合わせ、意味が判らない言葉を反芻する。裏社会と言うべき男爵家の名を、一般人が知る訳はない。事実、昔ならいざ知らず、このご時世に爵位など表向きには何の価値もないのだから。

「遠野病院が裏経済に精通してる、なんて、初耳だよ。ちょっとやそっとの家じゃ、ノアに目通りは出来ない。山田の名前でも、東雲の名前でも恐らく無理だ」
「ああ、帝王院が目通り出来たのは奇跡に等しい。親父がどんな手を使ったのかは知らんが、あの時キング=ノアに目通り適ったのは偶然だ。子供だった俺が、たまたま顔を会わせただけ」
「だったら何で遠野前院長がグレアムなんて言葉を、」
「遠野は義母さんの家だ。義父は義母に知り合った時、医学生だったらしい」
「じゃ、日本医学界のゴッドハンド遠野龍一郎は入り婿って事か!そんな、初耳にも程がある…」
「義父の戸籍は明らかに改竄形跡があった。シエに出会って間もなく、私が自ら調べたのだからまず間違いない」
「改竄?一般人にそんな真似が、」
「冬月子爵家」

聞き覚えがない名前に眉を寄せれば、ばさり、と書類を落とした専務が忙しなく眼鏡を押し上げた。パクパクと唇を開閉し、小刻みに震えながら目を瞠っている。

「ふゆ、づき」
「小林専務?」
「政府反逆罪で、昭和初期に一族全てが処刑された家、です」
「反逆罪って、穏やかじゃないね、また」
「無実だろう、と言うのが俺の意見だ。処刑記録はあるのに、事件記録が残っていない」
「生き残りが居る筈だ、と。聞いた事があります」

小さな声で呟いた男へ振り返り、何をそう怯えているのだろうかと瞬けば、開いた口から零れたのは恐ろしい事実だった。

「昭和初期に警視総監の位を頂いていたのは、叶でした」
「な、」
「実際、冬月子爵家を殺したのは我が叶一門です。今でこそ嵯峨崎財閥のSPをしている父は、数年前まで警視庁に在籍していました。…話だけは聞いた事があります」
「嫡男が逃げたのか?」
「いえ、叶が逃がしたと言う話ですが…深くは判りません」

落とした書類を拾い上げ、冷めたカップをやおら見つめた男が新しい茶を淹れる為に急須を手に取る。
硝子の向こうは空一面、ビルの群れがすぐ真下で蠢いている。空港が近いこの辺りは余り大きな建物は造れないのだが、嵯峨崎財閥と言うコネで建築基準法を僅かに越えさせたのだ。

「当時、明治からの時代わりで騒動の最中にあった冬月子爵家は、内乱で亡くした跡取りに嫡男がありましたが余りに幼く、事実上叔父に当たる人間が後見として家督を継いでいたそうです」
「あー、何だか読めてきたな」
「その後見人が事件を巻き起こしたか、政府に目を付けられたか、か」
「いえ、恐らく幼かった嫡男が後見人を殺害したのではないかと私は睨んでいるのですが…」
「はぁ?」
「80年近い昔の話なので確かめようがありません。もし私の想像が確かなら、嫡男は政府から…いや、叶から庇護されるべき人材だった、と」
「叶が庇護?はっ、日本裏経済最強の家が高々子爵なんかを、」
「グレアムだな」

鼻で笑う大空を余所に、湯気を発てるカップを手にした男の囁きで世界は沈黙した。

「グレアムが求めるに相応しい聡明な子供だったら、話は別だ。あの時代、賢い子供は噂の的になっただろう。海の向こうにすら届く程度には」
「冬月子爵の生き残りがグレアムに居たとして、結果遠野前院長とどう関わる?いや、君が言いたいのはつまり遠野龍一郎イコール冬月龍一郎、だろう?それで何故グレアム嫌いになるの」

浅く首を振った親友を前に息を吐き、どの道答えは出そうもないかと力を抜く。喧嘩別れしたのか、ならば何故日本へ逃げた遠野龍一郎をグレアムは追わなかったのか。謎は深まる。
医学生時代に出会った、となれば、その年には日本に戻っていたのだから、グレアムに居たのはそう長い間ではない。

「内情を知る若者を逃がすほど、甘い家じゃないと思うけど」
「確かに…社長の仰る通りではないかと、私も」
「グレアム、か。どの道縁がある名前だ。…俺がキングと出会わずとも、結果的にうちの息子はグレアムと関わらざる得ないのか」
「俊君には言ってあるのかい?帝王院の家督を奪い返せ、って」
「それは正しい言葉か?」

瞬いた親友を見やり、ネクタイの乱れを漸く整えた男は酷く理知的な笑みを浮かべ、

「グレアムの名を持つ子供と、帝王院の名を持つ子供。その手に持つべき名を、互いに間違えているだけ」
「ああ、そうだった。逆だね、神威からしてみれば、俊君は『強盗』だ」
「帝王院の名には何の未練もない。俺はあの日死んだ筈の人間だ。このまま、遠野秀隆のままで何ら不自由はない」
「時給800円の会長、なんて冗談じゃない。君の個人口座にとんでもない預金があるのは知ってるけど、宝くじとか懸賞とか、そう頻繁に当たったなんて信頼味に欠けるよ」
「パチンコで儲けた、と言うのはどうだ。競馬でも良い」
「天下の帝王院秀皇様がギャンブルですか。…涙が出るよ」

渇いた笑みを零す男に、するりと解いた縄を投げ寄越し、ぽきりと手首の骨を鳴らして立ち上がる。

「お父さん、元気そうだった?」
「扉一枚、逃げてきた」
「情けない」
「義父さんが死んでからは一切外に出てない様だが、生きているのか死んでいるのか」
「相変わらず薄情な息子だね、君」
「親子関係は昔から悪かった」
「君が一方的に父親を嫌ってたんじゃないか。その内因果応報するよ」
「俊はパパっ子だから大丈夫なんだ。しゅーちゃんとしゅんしゅんはラブラブなんだ」
「メール返ってくるの?」
「…」
「うちの長男は毎回律儀に『うざい』って返信してくれるよ。A型だからね。羨ましいかい、そうかい」

ちゃちな口論で勝利した社長と、一気にヨボヨボになった課長を交互に見やった専務が痙き攣る笑みを浮かべ、その内弾ける様な笑みを奏でた。

「はは、やはり貴方はその方が『らしい』ですね」
「うん、今更オーダーメイド着ても絶対違和感あるよ!あはははは」
「…二人共給料減らしてやる」
「経理局長である私が給与計算しているんですけどねぇ」
「ついでに遠野課長の時給200円にしとこっかー」

つられて笑う社長と専務を恨めしく振り返った男は扉に手を掛けようとして、窓ガラスに写り込んだ自分へ小さく笑う。


「根暗平凡地味蓑虫」

呟いた自分宛ての悪口で、聞いていたらしい背後が益々笑い爆ぜた。全く、失礼な友人達だ。情けなさを通り越して笑いが出る。

スラックスにしまったままだった携帯を開けば、嫁の卵メール一件、息子の件名無しメールが一件、部下からの呼び出しメール30件。卵のデコメが一つ浮き上がる質素なメールを見つめ、帰りに卵を買わなければならないと頷き、部下からの呼び出しを無視したまま息子のメールを開いた。

ああ、もう。
笑いが出る。耐えられそうもない。



to: 俊
subject: 無題

パパイヤ




「面映ゆい」


久しく使わなかった口癖が零れるくらいには。

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あきゅろす。
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