帝王院高等学校
雨さんより飴ちゃんの方が好きです
ポツリ、と。

鼻先に落ちた最初の一粒は、忽ち視界を覆った。

ああ、雨か。などと。
崩れ落ちた不良達の中央で一人。自棄に何の感慨もない。酷く心の中が空っぽだった。
それはまるで砂漠を彷徨い歩く旅人の様に、餓え過ぎて空腹すら忘れ掛けたかの様に。


アルバイト先で、女性に絡んだ酔っ払いから殴られた昨日。顔には傷を付けるな、と口喧しく日々繰り返していたオーナーが怒り狂ったのを思い出す。
暴れ回る人々、泣き出す女性客、怒号と悲鳴が渦巻く世界で気付いた時、誰もが恐怖に痙き攣った表情で見つめてきた。


ああ、また、やったのか。
何処から何処までが本当の『自分』なのか判らない。月を見ればまだ落ち着くけれど。月の無い夜は全身が悲鳴を挙げるから、ああ。
誰もが化け物を見る目をしていた。
見慣れた、けれど初めてそれを向けてきた人々に、漸く。ああ、またか、と。笑ったのだ。

腫れた頬を持て余しながら家にも帰れず彷徨い歩き、夏休みを理由に友達の家に泊まる、などと友達など一人も居ない息子に両親は何を思ったのだろう。
イチ君に迷惑掛けちゃ駄目よ、と言う一言で済ませた母親は、息子の親友にきっとその名前を刻んでいるのだ。本当の年齢すら教えていない友達、など果たして存在しても良いのだろうか。


「テメー、カルマだな」


繰り返される挑戦状。
返すにも、ホワイトカードに赤字のラブレターを持っていない。レッドスクリプト、いつか誰かの血で書いた落書きは、いつからかそう呼ばれ始めた。

「…カルマには印があんだろ」

首輪など何処にもしていない。
近寄る者全てを地獄へ招き入れるカルマには、皆、所有者の証があるのだから。見逃してくれれば良いのに。
どうせ、恐怖に痙き攣った表情で見るのだろう?どうせ、狂った自分を止めてなどくれないだろう?

「銀髪サングラスなんざ、この町には二人しか存在しねぇよ」
「面貸して貰おうか、」
「カイザー」

何で、そっとしておいてくれないんだ。
何で、そっとしておいてくれないんだ。
誰も傷つけたくないのに。
ほら、鳴り止まない携帯電話を開かなければいけないのに。

今日は誕生日なんだ。
15回目の誕生日なんだ。
20本も要らないんだ。

五本も多いケーキを見れば、去年以上に悲しくなってしまうから。出来るだけ明るい表情で、出来るだけ大人の態度で。
だから、見逃してくれれば良いのに。中学生相手にそんな大人数で酷過ぎる。もう、許してくれれば良いのに。


「にゃー」

ポツリ、と。
鼻先に落ちた最初の一粒は、忽ち世界を覆った。
足元には微動だにしない青年達の姿、それを踏み渡り見上げてくるのは純白の猫。黒猫だったら大声で笑っていたかも知れない。
なのに、天使の翼と同じ色の、猫。

「お前も、独りぼっちか?」
「にゃん」
「腹減ったなァ。雨降ってるから、濡れない所で休憩すっか?」
「にゃー」
「ん、何処に行くんだ?ストーカーしてもイイんなら、ご馳走すんぜ」

尻尾ふりふり、スマートに店先の雨避けを伝え歩く白猫を追い掛けて。テクテク歩けば、右肩だけがびしょびしょになっていく。

「ケーキバイキング行かない?女の子に大人気だって、クラスの子が騒いでたんだ」

鳴り止まない携帯電話は可愛い愛犬から絶えず。受信と着信が交互に。ああ、幸せ者だ。
家族にすら忘れられ掛けた誕生日を祝ってくれる優しい、大好きな皆。

「彼氏と行くのが夢なんだって。俺なら毎日付き合うのに」

重ねた嘘、塗り固めた真実の数だけ呼吸を忘れる。心の中は常に空っぽ、渇いて渇いて最早苦しさに慣れ過ぎただけ。

「にゃんこに人気のデートプランはやっぱ、縁側の陽なたぼっこか?」

ひょい、と水溜まりを飛び越えた白に拍手一つ、真似て飛び越せば、着地と同時に純白のレザーブーツが見えた。

ああ。
こんな日にそんな汚れ易いものを履くなんて、と。いつもの癖でサングラスを押し上げようとした指は、



「随分、楽しそうだな」


いつから見ていたのか全く判らないくらい唐突に、面識こそあれど初対面に等しい長身を目前に。
今更。

「珍しいものを見た」

去っていく長い尻尾へ別れを告げる暇すら許されぬまま、



「サングラスはどうした?」


過剰な羨望が唸りを上げ、憎悪に酷似した何かへ擦り変わる音を。
聴いたのだ。















「…つまらんな」



喉元で微かに呟いた台詞は、小さな唸りとして掻き消えた。何故か酷く胸焼けする。
慌ただしく、然し所作は美しく。
職務に忠実な部下達を横目に、真っ直ぐ突き刺さる異様な気配へ僅かばかり目を向ける。

但し、仮面に隠した表情は誰にも判らないだろう。恐らく背後に控えた二葉ですら、気付いていなかったと思う。

「陛下。測定はまた日を改めまして、進学部普通科は午前中一杯授業に変更致します。宜しいでしょうか?」
「現在授業中である特殊学部体育科・工業科は午後以降、普通科との合同HRで教諭陣の意見が一致しました。承認願います」
「尚、特別進学科Sクラスのみ午後の予定変更はございません」

澱みなく報告を続ける役員らに片手を上げ、振り下ろすだけで許可を示す。それだけで彼らは皆、一礼し踵を返した。
声を出すのも億劫、と言う訳ではなく、昨日までの自分は人前に姿を現すのでさえ嫌悪していたのだ。正確には、背後に控えた二葉が否を唱えない限り不可は出さない。

他人の声は全てノイズに聞こえる。
近くから遠くから、ガヤガヤと交ざりあって明確な音を成さないのだ。例え早朝の小鳥が囀るだけの神聖な樹海に在っても、世界には雑音が蠢いている。


「終わりましたか?」

右腕は肘掛に、頬杖付いたまま左手だけで無意識に弄んでいたノートブックを背後から覗き込んだ二葉が、揶揄めいた笑みを零した。

「腹が痛い」
「常備薬など効かないでしょう?後程、シリウス卿をお呼び致しますから」
「…」
「構って貰えなくて不機嫌そうですねぇ、…あの子は」

気付いていたのか、とは言わず、やはり気付いているかと首を傾げ、日向曰く『3日徹夜しやがれ』の仕事を数分で片付けてしまったノートブックから手を離す。
いつ見ても舶来人形染みた白い手が機械を奪い、控えた別の部下に手渡した。

「耳障りだ」
「ご辛抱を」

全てが騒がしい。
普通の人間ならば静かだと言っただろうが、不特定多数が犇めくエントランスは人が放つ雑音に満ちていた。
布擦れの微かな音、咳払い、囁き声、鼓動、果ては此処ではない別の場所で唸る低気圧。

目障りな光景は仮面で隠せば耐えられる。
耳障りな世界からは逃れる術がない。


「耳障りだ、と」
「陛下」
「言ったのだ、私が」

咎める様な声音、聞き慣れたそれすら耳障りでしかない。そうだ、少し前まで自分はいつも苛々していたのかも知れない。
この世界全てが煩わしかった気がする。

「ご辛抱を、会長」

学園から抜け出し、夜。
決まって向かうのは人に溢れた街の中、吠える生き物、跪く敗者の中でいつも、いつも。


「…誰に口を訊いている、そなたは」

吹き飛んだ椅子がリノリウムを弾き、凄まじい音を発てた。一斉に沈黙した皆が真っ直ぐ視線を向けてくる。
但し、直ぐ様椅子を拾い上げた役員達のお陰で直ぐ様視線は逸らされた。
誰かが倒した、と。理由さえ納得出来れば、人間の関心など然程持続しない。人間の興味など永遠には続かないものだ。依存するのは常に、麻薬の様な快楽を帯びた何かだけ。

「下らん」

たった一人、振り向きもしなかった背中が未だに。振り向かなかったからこそ未だに、真っ直ぐ殺意に似た気配を注いでいる。
この世で最も煩わしい生き物だと、いつか確かにそう思っていた。
但し、この世で最も煩わしいのはこの世界自体だ、と気付いたのはその生き物が居なくなってからだ。

「陛下、」

警戒する様に、然しやはり咎める様に口を開いた二葉が直ぐ様振り返り、舶来人形染みた右手を真っ直ぐ伸ばした。


「おや、嵯峨崎君。辞職した筈の貴方が何の御用でしょう?」
「退け、邪魔だ」

何の気配もなく歩くのは獣の習性、などといつか誰かが言った言葉を思い浮かべながら、先程蹴り付けた椅子に腰掛け直す。
無表情、と言うよりは無関心げな美貌に嘲笑を浮かべて、偽りの赤で見据えてくる生き物。いつか、この世で最も煩わしいと思っていた生き物だ。

「はん、今度は本物か」
「健勝の様で何よりだファースト。…が、今の私は酷く退屈している」
「へぇ、相変わらずつまんねー野郎だなテメーは」
「そなたが私を満足させてくれるのか、ヘブン?」

ああ、恐らく一秒後には喉を絞め上げていたのだろう手が、リノリウムに落ちた。
周囲には風紀委員を筆頭に、中央委員、自治会役員。
椅子騒ぎで集まっていた役員達が、他の生徒達への目隠しになっているのだろう。

「善い顔をしている。私に過虐の趣向があれば、酷く楽しめたに違いあるまい」
「…ほざけ、くそったれ」

左足の下に崩れた凄まじい眼光を見やり、もう一度頬杖付いて緩く首を傾げた。少しは苛立ち紛れになったかも知れない。
少なくとも先程まで耳障りでならなかったノイズが、今や佑壱の悪態に掻き消されている。

けれど、あの声には適わない。
二葉も佑壱も防音設備も何も彼もまだ、あの声が招く静寂にはまるで。


「ああ、これを返しておこう」

胸元から無造作に取り出したリングを放り、コロコロ転がって赤い髪に絡んだプラチナを睨む横顔を見た。
昔からは想像だに出来ない完璧な雄へ成長した生き物は、踏み付けられようが見下されようが構わないらしい。まるで抵抗しない顔から足を放し、違和感を覚えた脇腹を爪先でなぞる。
ピクリ、と跳ねた肩を見やれば赤い眼差しが睨み付けてきた。

「んなもん、クーリングオフした筈だ」
「そなたが左席委員を名乗ろうが、理事会決定を覆す事は許されぬ」
「…じゃ、貰っといてやろう」

随分素直だな、と瞬いた刹那、跳ね起きた佑壱が踏み付けられていた右頬を拭って、喉元に左手を固めた拳を当てた。

赤い首輪。
KARMA、のスペルが存在感を放っていた。

「俺がこれをどうしようがテメーにゃ無関係だ。理事会決定だからな」
「そう、そなたが中央の情報をクロノスへ流そうが、私にやめろと命じる権限はない」
「精々後悔しやがれ『神帝閣下』」

右拳をジャージのポケットに突っ込んだ男が左拳を開き、親指だけ首筋に当てる。


「陛下はうちの皇帝ただ一人だ」

スス、と横一直線に喉を横断した左親指を真下に突き刺して、



「Darling, go to hell.(地獄へ落ちろ、ご主人様)」

恐らく昨日、執務室を壊滅状態に陥らせたのは佑壱だろう。今朝になって漸く元に戻った中央執務室は、修繕に来た業者に爆発テロでも起きたのかと言わしめたものだ。
相変わらず無駄に行動力があるな、とスタスタ去っていく背を眺め、呆れを固めた様な二葉の溜め息を聞いた。

「あーあ、煽ってどうするんですかお馬鹿陛下。見ましたかあの生意気な顔、磔にして犯し狂わせてやりたくなりませんか全く」
「ほう?山田太陽よりは些か愛らしいと思うが」
「おや、でしたら陛下はあんな一般庶民に欲情なさるんですか。へぇ、流石は万能な我が神」

ぽい、と二葉が投げた何か。
組んだ足の上に落ちたカプセルを見つめ、躊躇わず飲み込む。役員の誰かから手渡されたチェイサーを煽り、

「そなたを敵に回せば退屈しないだろうがな、命が惜しい」
「老けてても18歳ですからね、陛下は。私はまだ17歳ですけど。羨ましいですかそうですか」
「二葉」

何も彼もが億劫で。外した仮面を右手に、空いた左手のグラスを掲げ囁いた。

「やらしい声を出さないで頂けますか、李上香じゃあるまいし」
「そなたに疵を付けた愚か者か。私のサファイアに」
「ねぇ、陛下。黒いでしょう?」

右目を押さえて艶然と嗤う唇。どうやら気紛れな猫はずっと機嫌が悪かったらしい。

「黒曜石の様に。私は日本人ですからねぇ」

黒曜石はあの眼差しだけだ、と。
心の中で呟いた台詞が去年の夏に見たグレーの光景に重なる。全てに無興味過ぎて、あの時見た人神皇帝の顔は覚えていない。
ただ、全てに絶望し今にも泣き出しそうな眼だけが、ずっと。


『カイちゃん』

もしもあの時雨に濡れたあの眼が涙を零していたら、どうだっただろう。手に入れたばかりの我が儘な黒猫の様に、懐かせようとしたのだろうか。
己の興味を満たす為だけに。

「いっそ汚して頂けませんか」
「ほう」
「タイトルは『堕落し逝く天使』」

随分夢物語の様な題名だ、と首を傾げ、何やら騒がしい向こうへ振り返る。

「穢れ落ち絶望に浸った手が救いを求めるまで、貴方が。私へ手を伸ばすほど疲れ果てるまで」
「その手を掴むのか」
「ええ。私は救いを求める手を振り払ったりはしない」

誰かが転がる様に駆けてくる。
一年の生徒らが騒がしい様だと仮面を纏い、



「果たされない約束を砕くまで」

ああ、耳障りなノイズは雨の音か、と。

←いやん(*)(#)ばかん→
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