帝王院高等学校
お見舞いには赤い薔薇の花束を
「まぁ、遠野先生!お久し振りです」

いつも此処は慌ただしい、と擦れ違う患者や看護師を横目に、大学時代からの付き合いである後輩看護師に片手を挙げた。

「よっ、元気にやってた?先生ってのはやめてよ、もう引退してんだし」
「何を仰いますか!皆さん、遠野先生のお戻りを待ってるんですよ」
「っつっても正規採用になった途端やめちゃったから、私にゃ何の技術もないしねェ」

外科医は経験第一、と肩を竦めれば、運び込まれたばかりらしい担架を押した若い医師達が通り過ぎる。

「新しい子入ってんじゃない。中々良い男ばっかり、やるわね直江め」
「もう、先生ったら。確かに近頃、外科内科共に若い先生達が頑張ってくれてますけど、」

ふくよかな彼女は幾分年老いた表情を曇らせ、丸い頬に手を当てる。

「人員不足は当院だけじゃありませんもの」
「医者不足、か。20年前は東大より難しかった私立医学部も、今じゃ下手したら定員割れってんだから」
「産婦人科、小児科はもう、寝る暇もない過酷なシフトです。内科の先生方に手を借りている有様で…」
「救急外来は?」
「ええ、こんな言い方は何ですけど、患者は水物ですからね。いつ来るか判らないだけ、常勤医を確保出来ない状況は…」
「丸一日医者を病院に拘束させてたら、患者より先に死んじゃうぜ」

歯に衣を着せない俊江に困り顔の看護師が苦笑を零し、また、慌ただしく運び込まれた担架と救急救命士に目を伏せた。今度は迎えに行く医者すら居なかった様だ。

「看護師は何人?」
「10人平均で、百前後です」
「その半分が、」
「いえ、医師は40人に満たない状況で」
「ったく、直江の馬鹿は何やってんの!」

看護師が慌ただしく駆け回り、手術室方面で狼狽えた声を出している。
交通事故で運び込まれた二番目の患者は、太股にガードレールの破片が刺さっているらしい。

漸く手術着を纏った医師が一人駆け付けたが、手術は一般的に一人では出来ないものだ。然も良く良く伺えば、若い医師はまだ研修中。執刀させるには余りに力不足である。

「島田ァ!」
「えっ?」
「そこでオロオロしてるお主だコラァ!何うだうだやってやがるっ、とっとと殺菌処理始めろ!」

長い髪を口に咥えた輪ゴムで手早く結い上げ、ずかずか手術室に入っていく小柄な女性に若い医師は驚愕を隠さず、婦長である看護師がニヤニヤ笑う様を見た。

「ちょ、勝手に手術室に!」
「ああ、良いのよ島田先生。彼女は院長のお姉さん、元外科医なの」
「えっ?じゃ、じゃあ今のが遠野俊江先生?!でもっ、ちゃんとした女性に見えました!」

失礼な発言をカマす医師を、手術室から怒鳴り声が呼び付ける。
とりゃーっ、と言う叫び声と共に看護師らしき悲鳴が響き、麻酔ーっ、と言う叫び声が轟いた。

「ちょ!」

どうやら彼女が破片を引っこ抜いたらしい。麻酔無しで。
研修中の医師も流石にこのままでは不味いと手術室へ駆け込み、覗けばキビキビ手術に取り掛かっていた。これであの研修医も、立派な一人前になるだろう。


「日下部婦長、305の患者さんが部屋替えを希望してます」

と、若い看護師が足早に近付いてきて、彼女は覗いていた手術室から踵を返した。

「個室じゃ落ち着かないみたいで」
「変わった患者さんねぇ。まぁ良いわ、空いた部屋に替えてあげて」
「はい」
「あら?」

ナースセンターに向かっていた二人は、目の端に映り込んだ赤い薔薇に足を止める。
最奥の個室には、何年も入院している患者が一人。最近では同じ顔触れの見舞いしかなかった筈だ。
赤い薔薇を足元に、静かに佇む長身が見える。

真っ黒なシャツとスラックス、真っ黒な髪を緩く撫で付けた、目を惹く美丈夫だ。
隣の若い看護師が頬を赤らめる気配に苦笑を零し、婦長として気を引き締めた彼女が静かに佇むだけの男へ足を向ける。

「お見舞いでしたら、お昼までお待ち頂く必要があるのですけど」
「…?ああ、すいません。もう帰ります」

緩く振り向いた男が一般離れした美貌を曇らせ、丁寧に頭を下げた。

「あら、でも休憩所でお待ち頂ければお声を掛けますよ?」
「お気遣い有難うございます。連れを待たせているので」

足元の薔薇を一瞥し、もう一度頭を下げて去っていく。


「はぁ。婦長ぅ、素敵な人でしたねぇ…」
「そうね」

夢見がちな若い看護師の台詞、笑った婦長は赤い薔薇を余所に部屋の扉を見上げた。
此処にはたった一人、今では一日の大半を眠って過ごしている患者が居る。日本では難しい手術を、海外で受けるのを拒否した患者が。

お金持ちだと言う話だ。
この病院で最も特別扱いされている、前院長の友人。


「いつもは奥様か秘書の方がいらっしゃるのに、今の方は初めて見るわね」
「息子さんにしては、お若い方でしたよぅ。あっ、でもお孫さんは今の方よりもっと美形ですよねっ」
「はいはい、良いから貴方は早くセンターに戻りなさい」
「はーい」

月に一回、この部屋の患者に見舞う人間離れした美貌の男が居た。帝王院学園の制服でやってくる、白銀の長い髪を靡せた少年、いや、青年だ。

「奥様か秘書さん以外には、彼くらいだったと思ったのだけど…」
「日下部っ、日下部婦長は何処かなァ!」

呟いてから白衣を翻し駆けてくる若い院長の姿に、彼女はふんわり笑って釘を刺すのだ。

「はいはい、此処ですよ」
「ああ、良かった。姉ちゃんが第一外科に現れたって本当か?義兄さんは来てないのか、義兄さんは」
「遠野院長、シスコンも宜しいのですが院内は走らないで下さいね」
「誤解だ。あんな兄貴みたいな姉を貰ってくれた侍に会いたいんだよ」

夢見がちに呟く男へ息を吐いた。まるで恋する乙女だが、


「君だって知ってるだろ。
  医学部卒とは名ばかりで、高校時代の姉ちゃんはヤクザに飛び蹴りする様な男前っぷりだったんだから…」















「あ、ちょーちょ」



左手だけで携帯カメラのフラッシュを瞬かせる俊は、ひらひら羽ばたく青み掛かった蝶を捉えた様だ。花ではなく植え込みの葉に止まり、積もった桜の白い花びらと二色のコントラストを奏でていた。

「ツバメシジミだな。帝王院には少ない品種だ」
「しじみ…じゅるり。美味しいのに食べてもお腹一杯にならないシジミちゃんっ」
「蝶が」

ぱちぱち一通り撮影しながら、左手だけで携帯の向きを変え、ひらひら飛んできた別の蝶に眼鏡を輝かせる。
白に黒筋の文様が刻まれた艶やかな二匹が、戯れながら榎の大樹に羽を休めた。

「アカボシゴマダラ」
「お着物みたいな模様、綺麗にょ。ハァハァ、デート中かしらっ」
「蝶が」

また、同じ呟きを零した右側を見上げ、かさりと落ち葉を踏んだ足元に目を落として右手を見やったのだ。
舞い睦む蝶にも負けず、繋がれた手は離れない。

「好きなのか」
「ちょーちょさん、可愛いなり」
「…」
「カイちゃん、ちょーちょ嫌い?」
「いや」
「じゃあ、好きなのね」

へら、と笑えば身を屈めてくる鼻先に瞬いて、唇を吸い込んだ。恐らく神威の目に鼻の下を伸ばした自分が映っているのだろうが、ぽってり飛び出すタラコを隠せばキスは怖くない。

「お前は面白い」
「ふぇ?」
「拒まれるのは、二度目だ」
「チュー?」
「いや、…そうだな。僅かばかりの興味もあった、が。実際は一人になりたかっただけだろう」

意味不明な台詞に首を傾げ、ずっと向こう側に人魚の噴水を認めて息を吐く。

「一人ぼっちは、寂しいにょ」
「煩わしかったんだ。全て、いつも傍にいた生き物すら」
「若気の至りって奴かしら?強気受けばかり食べてると、たまには優しい健気受けに眼鏡が行ってしまうものですし」
「昔、面白い生き物が居た」

頬を撫でる指の感触に気付きながら、気付かない様な振りで並木を見上げた。ひらひら飛び交っていた蝶も姿を消し、桜に囲まれた乙女座の庭をぐるりと見回す。

「第一印象は『拒絶』『殺意』『憎悪』『同情』」

並木道、つまり囲む様に植えられた桜は校舎側と道を挟んで咲き乱れ、ヴァルゴの中には榎や銀杏、タイサンボクなどの緑ばかりだ。

「雛人形の様な子供を、五つの誕生日に与えられた」
「お人形さんみたいな、子供?それってとびっきり美人さんだったって事?二葉先生より?」

目元だけで笑う神威が足元へ目を落とし、今度は僅かに瞬いた。

「自尊心の高い生き物だった。俺の元へ奉公にあげられ、雇用主である俺を幾度か殺そうとした様だ」
「ハァハァ、ちょ、ちょっと待って欲しいにょ!それって強気執事と美人ご主人様ネタ?!」
「余りに判り易い殺意、また、そんな生き物が向けてくる同情に興味を引かれて、相手をした」
「ハァハァ」
「四六時中、絶えず命を狙われる。すぐ隣の人間に、四六時中だ。暇潰しには適当だったと言えるか」

右手を引かれて、今までは俊が動くのに従っていた神威が森の奥へ奥へ長い足を運ぶ。
さわさわ囁く木々、音もなく落ちてくる葉、水の音に気付いて目をあげれば、噴水から続いているのだろうか、小さな川がある。

「俺が持っていた他の何より価値を秘めていた、子供」
「初恋の人?」
「求めずとも得たものに湧く情など、愛情ではなかろう」
「むむ。確かに、恋は燃える情熱をたぎらせなきゃなんないのよね」
「いつしか、傍に在るのが当然の様に。イギリスはアレにとっては、酷く暮らし難い土地だと気付いて尚、ずっと」

細い細い、せせらぎの先にフェンスがあった。緑の果てに見た鉄色だけが、異質なものに思える。

「王の子に貸した。つもりが、奪われていた事に気付いた。最早興味は冷め、飽きた人形に意味はない」
「で、捨てちゃったの」
「逃がしてやろうと、押し倒してみた。抱けば情と言う名の興味が湧くのではないかと考えたからだ」
「グッジョブ!」
「但し殺意など生温い言葉では足りぬ抵抗を受けたがな。…俺には猫の戯れ程度だ」
「…」
「欲情する所か興醒め甚だしく、目の前から消えろと言った。その眼差しの第一印象は『恐怖』『憎悪』『絶望』『安堵』」

囁く声音に眉を寄せて、眼鏡を押し上げるのと同時に右手を引いた。
上体が崩れた所で無意識に腹目がけて膝蹴りを放てば、右手で軽く止められる。今度は止められた苛立ち紛れに投げ飛ばそうとして、笑う唇を見たのだ。



「どうした、愛らしい戯れなど」

佑壱にだって、負けた事はないのに。
抱き締められた腕の中、どんな攻撃も全て避けられて呆然とする。

「擦り寄ってきたかと思えば、戯れに爪を剥く。…猫の子の様だな」

囁く声音が耳元に、背中から宥める様に抱き竦められたまま、顎を掴まれた。ぐい、と後ろに引かれて、唇を口の中に挟み込んだまま目を閉じれば、眼鏡の上で、ちう、とネズミ。

「唇を隠せば拒絶出来ると思ったのか?頭を隠し、尾を隠し切れぬ猫の子よ」
「むぅ、ふわっ」

首筋に、襟足に、反転させられ真っ正面から抱き締められて今度は喉仏に。落ちてくる降ってくる舞い躍る蝶よりも軽やかな、口付け。

眩暈がした、気がする。
何一つ適わない気がする。

去年の夏に見た、狐の嫁入り。化かされた15歳の下に、狐が化けた様な美貌、長い銀糸。
忘れた日などただの一度も。


「や、ネクタイさん返して!」

奪われた白いネクタイが遥か頭上、神威の右手に掴まれヒラヒラ躍る。手を伸ばし飛び掛かっても、身長差は歴然だ。

「そう、毛を逆立てるな」
「きゃ、」

奪われたネクタイがヒラヒラ落ちていく。伸ばした手を掴まれ香りの良い大木に押し付けられて、腹まで開け放たれたシャツの間に黒髪、赤い唇。

「ぽんぽんにチューしちゃ、めーっ」
「唇を隠すからだ」
「ふぇ、カイちゃん、セクハラする相手が間違ってるにょ!」

胸元に、飾りにもならない左右の蕾に、臍の窄まりに、ちうちう。触れるだけだったり、吸い付かれたり、齧られたり。
駆け回るネズミ達が混乱を呼んできた。心臓が破裂してしまう。

「ゃ」

ベルトが外される音を恐怖の中で聞いた。心許ない金属音に涙目のまま、偽物の黒髪を掴んだ。

「パンツ見えちゃうから、めー」
「昨夜は腹も尻も見せていただろう?」
「知らないもんっ、きゃっ、ベルトさん取ったら絶交、離婚するにょ!」
「それは、本心か?」

真っ直ぐ。
蜂蜜色の眼差しが見上げてきた。はみ出した桜柄のトランクスが惨め、なのに本物の桜にも劣らない美貌がある。

「ふぇ、ふぇ、カラコン何処に行っちゃったにょ」
「外した」
「着けなさいっ、ぐす、変装訳あり主人公になりたいなら着けなさいっ」

口を衝くのは意味不明な台詞の行進、臍に口付ける痴漢が、こんなに美人だからいけないのだ。
訴えた所で信じて貰える気がしない。

「拒絶には言葉など無意味、抵抗など不必要」
「や、パンツ下げないで欲しいにょ!やだ、チンチン触るの禁止!」
「魂の根源から拒絶すれば良い。愛していると囁き、愛していると抱き締めた癖に子を捨てる親など数知れず」

誰にも触られた事のない場所に、ちう、とネズミが触れて。混乱の余り涙が溢れた。

「うぇ」

ひくつく喉から惨めな音が漏れて、痙き攣る頬を伝った雫が落ちる。


「消えろ、と。全身全霊で命じるなら、俺はすぐにでもお前の前から消えよう」
「ひっ、ひっ、ぐす、ひっく」
「消え失せろと、俺に。出来ねば、受け入れるより他に手はない」
「…んちん、に、チューした!ふぇ、カイちゃんはばっちい事ばっか、ひっく、セクハラばっかする…ぐす」

ファスナーが上がる音。晒されていた下半身が隠されていく安堵の中、



「穢れを知らぬ、眩しい生き物だな」


笑みを滲ませた唇が、目尻で囁いた。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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