帝王院高等学校
囲まれたり囲んだり揉んだり忙しい
きっと、いや、絶対顔が赤い筈だ。
辛うじて下げた頭で伏せた視界に薄い唇が見えた時、益々混乱したから。口を開けば何を叫ぶか判らず沈黙したまま、口を覆う手を離したのは食堂を飛び出し走り抜けてからだ。

『ID認証完了、ゲートを開きます』

肩が荒く上下している。
普通科エリアに続く非常階段ゲートを前に、機械音声と同時にOPENと表示された鉄の扉がスライドした。
煤けた廊下、恐らく工業科エリアだろう男所帯臭さに笑って、屈み込む。自分がゲートを通るかこの場を離れない限り、この鉄の扉が閉まる事はない。

「…工業科は始業時間、誰も来ないだろ」

呟いて背中を丸め、尻を落として膝を抱えた。無意識に触れた唇が熱い。いっそ清々しいほど急速に、一晩置いたからこそ冷静に、思い出して総毛立つ思いだ。
昨夜は平気だった。あんな綺麗な顔を前に、頭の中はぐちゃぐちゃだったけれど、それでもまだ、冷静だったのかも知れない。

「やっちまった」

ぽつり、呟いてから、また。急速に火照り始めた頬を両手で押さえ、膝に額をグリグリ擦り付ける。
やった。そう、確かに昨日自分は生まれて初めて誰かにキス、をした。

いや、それ以前に何回も何回もされていたから、と言うハムラビ法典みたいな言い訳は通用するだろうか。
やった過去は変わらない。万一二葉がそれを口にすれば、一秒後には帝王院全てが敵に回るだろう。と、考えて背筋が凍る。ただでさえ左席委員会、と言うだけで充分に危ない立場だ。

「馬鹿だ、俺と言う奴は本物の馬鹿チンだー」

口にすれば情けなさに涙も出ない。
だから帝王院と言う世界では煌びやかな人間が尊まれ、例えば太陽が二葉に辱められたと声高に訴えようが、白百合を辱めた犯罪者として認識されるだけだ。

カラスは白い、と言えば罷り通る。白百合は決して黒にはならない。中央委員会の存在が即ち善で、それが帝王院の世界なのだ。
そんな事を今更実感して、どうなるものでもないのに。

「畜生」

悔しいのか悲しいのか判らない涙がじわりと滲む。こっちが被害者だ。確かに騒ぎを巻き起こした首謀者の一人だろうが、最終的には被害者だったと言っても許されるのではないか。
経験値0に等しい下級生を無理矢理押し倒して、舐めたり噛んだり、とんでもない所に指を突き付けた変態野郎。なのに何故こちらが逃げ出さねばならない。殴り付けて罵って跪かせて土下座させてもまだ足りないのに、今、こうやって逃げ負けてきたのはこちらの方。

人目から逃れて膝を抱えた負け犬、と言えば佑壱達が憤るだろうか。彼らは少なくとも、適わない相手を前にしても逃げる事はないだろう。


「畜生、ぴんぴんしてたし。…西指宿の野郎、いつか金平糖ぶつけてやる」

罪悪感、と。
沢山の虚勢を張った優越感・ざまあみろ・と言う強がりの中に、助けられたんじゃないかと言う名前を付けられない曖昧な感情が織り交ぜられて、渦巻いていた。
麻雀なんかで負けを期したのは完全に相手の罠に填まっていたからだ。じゃなかったら、あそこまで簡単に負けない。狼狽えていたからだ。死ぬかも知れないと聞かされて、間違いなく混乱した。

ざま見ろ、などと欠片も思えなかったから。

「人間なんか皆、嘘吐きじゃん。…知ってたけどなー」

零した溜め息に眉を寄せて、好い加減立ち上がろうと膝に手を置いた時だった。
確かに先程言った筈だ。左席委員会、と言うだけで充分に危ない立場である自分は、極力一人になってはならない。何故ならば帝王院の八割以上が中央委員会に従う、従わざる得ない風習だからだ。

「珍しいな。此処が開いてんの」
「俺らのサボり場所、これじゃ風紀からすぐ見付かんな」
「あーあ、風紀怖ぇっつーのになぁ」

作業着を着崩した三人連れが、咥え煙草で朗らかに笑い合う。三人の目は真っ直ぐ太陽に注がれ、明らかに素行が悪そうな態度が友好的とは思えなかった。

「でもさ、そこでサボってんの確か昨日左席になるとかほざいてた奴じゃねーか?」
「あらら、確かにこんなちびっこだった。っつったらSクラスか、凄い凄い、こんな小さいのによー」
「左席っつったら中央委員会よりスゲーんだったよなぁ」

近付いてきた三人から囲まれ、中途半端に立ち上がり掛けた状態で逃げ道を探す。

「こいつにお願いしたら、窮屈な所でサボる必要もねーよな」
「そうだな、風紀なんか目じゃねぇんだからな左席は」
「可愛くお願いしたら、お小遣いもくれるかもね。何つったって、Sクラスの坊っちゃんだからよ」

そしてまた、情けなさに涙も出ない。いつもいつも、逃げ道を探してばかりな自分が。
余りの情けなさに、笑えてしまう。

「…君達に渡す金も、非行を助長させる気もないよ」
「んだと?」
「おいおい、よせよこんなちびっこ相手に」
「もしもーし、お兄さん達ちょっと聞こえなかったんだけどなぁ?」

立ち上がり、詰め寄ってくる生徒達を見上げた。どうせ小さくて平凡で、彼らからすれば平等に見る必要すらない人間だろう。

「だから、」

少し脅せば言いなりになるとでも思っているのだろうが、



「テメーらなんかが気安く話し掛けんなっつってんだよ!」

馬鹿にするな、ドイツもコイツも。
















「若頭に連絡は付いたか?」
「ああ、粗方伝えた。相手の情報が判り次第また連絡くれってよ」

厳しい男達が奥座敷を見つめ、響き渡る怒号に眉を寄せた。そのどれもが聞き覚えのある仲間のもので、尋問中の敵のものと思える声は聞こえない。
高坂組の朝は早いが、今朝は昨夜捕えた侵入者の問題で殆どの人間が徹夜明けだ。

「叶の棟梁はとっとと帰っちまうし、馬鹿高い金払ってんの判ってやがんのかアイツら…」
「腕は間違いなく確かだからな。契約には身辺警護はあっても、オプションは追加料金ってこったろ」

肩を竦めた男の足元に小さな葉や土を張り付けた綿毛が近付いてきた。男達の目が幾分和らぐ。

「ちっ、しっかりしてやがる」
「極道、マフィア相手に荒稼ぎする忍者共だ。昨日の雇用主を今日殺す世界に、金以外の繋がりは必要ねぇんだろ」

話ながら、縁側に刻まれていく肉球マークを拭い取り、庭に飛び出そうともぞもぞ態勢を整えた黄色い綿毛を男の手が掴み上げた。

「にょ」
「こら、ピヨリーヌ。また抜け出すつもりだろ」
「唇に生クリーム付いてんぞ、盗み食いしたんじゃねぇだろうな?」
「おでかけ〜」

日向が拾ってきたお世辞でも可愛いとは言えないタラコ唇の猫は、猫らしく鳴かず「ごはん」「トト」「おでかけ」と人間の様に鳴く。それが逐一タイミング良く放たれるものだから、中には本気でこの猫を喋る猫として認識している組員も居た。

「おでかけ〜、トト〜、ごはん〜」
「はいはい、組長が心配するから駄目だ。屋敷の中で遊べや」
「親父は下手したら死んでたかも知れないんだぞ?ピヨリーヌ、パパが居なくなったら嫌だろ?」
「ぱぱいや」

果物の名前に似た鳴き声を零した綿毛に二人は沈黙し、スパンっと開かれた背後の襖を振り返る。

「ピヨン、探したぞ」
「姐さん、おはようございます」
「ピヨリーヌちゃんは此処に」

白い袴姿で短い金髪をサラリと靡かせ、何処から見ても美青年だが美女ではない人に頭を下げた。しょんぼり目を伏せた綿毛が尻尾をふりふり、高坂組の紅一点に手渡され何処となく瞳を潤ませる。

「ピヨン。ミケ、サケ、ヤケと遊べといつも言い聞かせているだろう?」
「おでかけ…」

彼女が言うミケ、サケ、ヤケとは高坂曰くジュリアンヌ、カトリアンヌ、ラインバッハの三姉弟の事だ。決してミケ酒焼けではない。
イギリス人ながら親日家である彼女は滅多に英語を喋らない。7ヶ国語を操るバイリンガルだが、普段は常に武士道精神に富んだ日本語だ。

「お前はいずれ日向の愛猫として、高坂組を背負って立ち並ぶ殿子だ」
「にょ〜」

やはり猫らしくない鳴き声を漏らした綿毛の首根っこを掴んだまま、彼女は珍しく憐れむ様な眼差しを滲ませた。
因みにピヨンと言う名は日向が適当に付けた名前だ。が、組長の趣味には合わず組長以下組員達にはピヨリーヌと呼ばれている。雄だ。親馬鹿組長には姫と呼ばれていても、雄だ。

「本来ならばベルサイユ宮殿にも引けを取らぬ我が実家の様な、こんな犬小屋とは比べる迄もなく伸び伸びとした空間で遊ばせてやりたいのだ」

組員二人は再び沈黙した。
誰もが高坂の屋敷を地区最大級の城だと噂しているが、所詮日本だからこその基準らしい。公爵家育ちの彼女にとっては、400平米の城も犬小屋同然か。

「だが、私は既に家を捨てた身。今や高坂組の一員だ。ならばその規律に乗っ取り、生活する義務がある。判るか?」
「ごはん」
「判った、苺ジャム入りの鯛焼きを買ってやる。安部河本舗まで散歩しよう。行くか?」
「トト!」
「良し、着替えるぞ」

意気揚々と奥座敷へ向かっていく一人と一匹に組員らは慌てて静止を促すが、今や捕えた侵入者を囲み一触即発状態だろう奥座敷の隣には高坂夫妻の寝室があった。
昨夜の騒ぎを風呂で聞いていた彼女は、夜通し道場で素振りしていた為に寝室には入っていない。着替えるには、当然奥座敷に踏み込む必要がある。


「邪魔する」
「ああ?!…姐さん?!」
「ちょ、入って来たらいかんですよ!」
「此処は危険ですぁ、今暫くお控え下さいや」
「着替えたいだけだ、気にするな」

無表情でズカズカ進んでいく美青年と綿毛に、痙き攣った組員達が冷や汗を流しながらオロオロ手を伸ばすが、彼女は躊躇わず寝室の隣にある物置部屋の障子に手を掛けた。

「開けるぞ」

出掛ける事を高坂に伝える為だが、組員達の声にならない悲鳴には気付いていないらしい。

「アレク?何しに来やがった。此処は女が入れる場所じゃねぇ!」

夜通し敵を痛め付けていた高坂の鋭い視線にも恫喝にも構わず、ツカツカ踏み込んだ彼女は綿毛を片手に部屋の中央で不遜な顔をしている男を見やる。

「ひま、私は散歩に出掛けるつもりだ」
「ああああ、だったら行ってこい!女が男の仕事に踏み込んでくるんじゃ、」
「手緩いものだ。この様な拷問で間者が口を割る筈がないだろう、たわけ者が」

綿毛を高坂に押しつけた彼女は白い袴を掴み膝を落とし、下卑た笑みを浮かべた男の血が滲む顎を掴んだ。

「へ、アンタが噂の姐さんか。噂通り、女には思えねぇな。…乳も小せぇ」
「御託はそれだけか」

高坂を含めた全ての組員が一気に青冷めたが、白い袴にぷっと唾を吐いた男は気付かなかったらしい。

「実はアンタが男で天下の光華会会長がホモだったら、笑い種になるぜ、─────ガフッ!」

血反吐を吐いた男が畳の上を転げ回り、初めて悲鳴らしい悲鳴を上げた。痙き攣る組員にも亭主にも構わず、ゆらりと立ち上がった彼女は底冷えする眼差しで転がる男を見下し、


「What did you say?(何だと?) 黙って聞いていれば辱めおって…」

まずは顎を蹴り上げ、腹を蹴り、最後には男の急所に躊躇わず踵落としを決める。全ての男達が目を覆った。
あれは、駄目だ。あれは反則だ。

「私を愚弄したばかりか、我が伴侶を辱めた罪は重いものと思え。…一時間、だ」

胸元から取り出した懐紙を、苦痛に歪む男の喉元に当てて艶然と微笑んだ人は酷くゆっくりただの和紙を一直線に引いた。

「一時間で、私は戻る」

男の分厚い皮膚に覆われた喉に、赤い線が浮かび上がる。つぅ、と血が滲む感触に震える男を覗き込んだまま、彼女は指を一本立てて背中を向けた。

「それまでに洗い浚い自白していなければ、イギリス仕込みの拷問を味あわせてやる…」

無関係の組員まで震え上がらせた囁きが、隣の襖に消える。
高坂の額に冷や汗が流れた。


「マジで怒ってんぞ…!吐けっ、吐いちまえ!命が惜しいなら今自殺するか吐いちまえ!」


叫ぶ悲痛な表情の高坂が震え上がる男をガクガク揺さ振っているすぐ隣、





「…胸は、幾つまで成長するものだろうか」

鏡の前でなけなしのオッパイを揉み揉みしている女性は、切ない溜め息を零した。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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