帝王院高等学校
それは人魚姫に似ています。
帝君特権、天皇特権。
今まで無意味だったものを、こんなに有り難く思える日が訪れるなんて思ってもなかった。

「テンコーヘーカ?」

アンダーライン出口、車しか通れないゲートを抜けた途端、上から低く這う様な声が落ちてくる。
ピクリと肩を震わせて、真上の今や新緑色のヴァルゴ庭園を見た。アクエリアス噴水から真っ直ぐ南東に1キロ、最果てのフェンスは余り知られていない。

「何なさってるんですかー」
「良く判ったな、時空の君」

その下を通る地下車道のトンネルは勿論、わざわざ雑木林を突っ切ってやって来る者など皆無だ。
呆れ混じりの感嘆めいた台詞に、フェンスから見下ろしてくる男が意味深な笑みを滲ませる。

「秀隆が探してましたよー、しょげてたなー。何か最近付き合いが悪いんじゃないかなー。…俺に仕事させてご自分はサボタージュなんてねー」

本当に、嫌味を語らせたらピカ一だ。一息に何文字喋るつもりだろうと眉を寄せ、親友でもある山田大空に息を吐く。
少なくとも、この男に罪悪感など感じない。感じたなどと言えばどんな嫌がらせをされてしまうか。

「お前は優秀だろう?」
「あはは、帝君であらせられる天皇陛下が何を仰いますやら」
「見逃せ」
「中央委員会会長、速やかにお戻り下さい」
「ヒロキ」
「何でしょう、帝王院会長」

にっこり、冷気すら感じさせる笑みだ。もう一人の親友が此処に居たなら宥める様な目で、フェンス越しの男を黙らせただろう。

「…秀隆が本当に淋しそうなんだよ」

寡黙で大きくて暖かい親友、名を秀隆。世界中の何よりも強く、世界中の誰より優しい大切な親友。
フェンスに預けた腕に頬を当て、ポツリと呟かれた台詞に罪悪感が走った。つい先日までは秀隆が一番大切だった筈なのに。

「埋め合わせはする。秀隆に謝っておいてくれ」

諦めに似た笑みを見た。
土下座で許して貰えるなら、何の躊躇いもなくそう出来る。

「どうしても」
「やっと、見付けたんだ」
「罠かも知れない」
「判っている」
「それでも?」
「ああ」

全てを知っている大空が緩く目を細め、可哀想なものを見る様な、大切なものを見る様な眼差しで頷いた。

「期限付きだよ」

夏休み前とは思えない、山の上の小さな世界に涼しい風が吹く。

「今年いっぱい、だ。今度の修業式典までに、彼女は来日する。君のお義兄様を怒らせたら不味い」
「判っている」
「遠野総合病院の若様が相手なんてね」
「調べたのか?」

非難する様に言えば、片手を振った親友が片眉を跳ね上げる。ああ、不機嫌にさせたかと慌てて口を塞ぐが、プライベートを知られるのは幾ら親友だと言え容認出来るものではない。

「こそこそするからだよ。秀隆は本当に君が大好きなんだ」
「…」
「外に出て悪い事やってたら、取り締まる必要があるだろ。俺は左席委員会長なんだからねー、誰かさんのお陰で」
「大空、」
「初恋は実らない」

やはり、可哀想なものを見る目で呟いた親友に笑い掛ける。上手く笑えていたなら、満たされているからだろう。
いつか終わる幸せだとしても。

「彼女は私の知らない世界を教えてくれる」
「うん」
「初めて、お前と秀隆以外を愛しく思えたんだ」
「うん」
「笑い掛けてくれるだけで舞い上がるくらい嬉しい。名前を呼んで貰えるだけで涙が出るくらい嬉しい」
「恋だね」
「こんな気持ちは初めてなんだ」
「初恋だからね」
「他の誰を抱いても、こんな気持ちにはならなかった」
「判るよ、」

彼女持ちの親友は晴れやかに笑った。
今時珍しく文通なんかしているこの男は、何の変哲もない普通の女子校生に恋をしているのだ。

「だから、ちゃんとお別れして来なさい」

オンラインゲーム、それも麻雀で知り合った顔も知らない相手に。たった一年間の文通だけで、セフレも親衛隊も解散させてしまった。

「慰めてあげるからさー」

先日初めてオフ会をしたそうだ。
初めてゲームセンターでデートをした、と似合わない純粋な笑みを零した親友は見知らぬ誰かの様だった。

然しその相手の父親がリストラに遇い、自殺未遂を起こした事で事態は変わる。
彼女の父親が二十年以上働いていた企業の名は、ヤマダテクノロジー。帝王院には並ばずとも上場企業である電子メーカー、つまり、親友が将来継ぐ筈だった一流企業の名前。

「秀隆と一緒に抱き締めてキスしてあげるから、ちゃんと帰って来なさいね。ご主人様」

父親を殴った。
勘当同然に追い出され、何も彼もを失った親友を囲ったのは自分。


見放しても良いのに。
家族も帰る場所も無い友達なんか、要らないでしょ。
君は天皇陛下なんだから。


そんな事を言うから、初めて親友を殴った。後から秀隆の責める目に落ち込んだのを覚えている。
彼女の為に家を捨てたなんて、馬鹿馬鹿しくて清々しくて、愛しかったから。

「君は俺とは違うんだから。…思い余って下手をしたら、駄目だよ」
「帝王院を捨てる、か。この私が」
「出来ないだろうけどね」
「捨てたら私もお前も路頭に迷うな」
「ニートのパトロンなんか最悪だよ」
「私は大学卒だぞ、働き口は幾らでもある」
「帝王院の名前だけで食べていけそうだよね」
「もし家を捨てたら、付いてきてくれるか?」

此処から見上げる乙女座庭園は、通い慣れた丘の上の楽園に似ている。



「何処までも付いていくよ、秀皇」

笑い合って無言で頷くのを合図に、二人は背を向けた。
どちらもきっと、笑っていた筈だ。少なくとも、この時までは。


「…だから、必ず帰っておいでよ。あの男が知る前に」

その囁きは知らない。

「君には婚約者が居るんだから」

ただただ、通い慣れた丘の上の楽園へ真っ直ぐに。期限付きの幸福へ、真っ直ぐに。





「サラ=フェイン。






…キングの愛人が、ね。」








だから神様、聞こえていますか。





「お帰り、秀皇」


私は貴方をこの世から消そうと思いました。傷付いた親友二人を目にして、私は初めてこの手で誰かを傷つけようと思ったのです。

「何、を。なさっておいでですか、帝都義兄様」

母親が名付けた血の繋がらない美しい兄を、貴方を。

「っ、逃げ、ろ!─────秀皇!」
「黙れ、下等人種」
「ぐ、あ!」
「大空!」

初めて、いつもは穏やかで寡黙な親友の唸る声を聞いた。初めて、いつも食えない笑みを浮かべる親友の叫びを聞いた。

「こんなクズ共と付き合うから、変わってしまったんだな」
「何を、仰って」
「こそこそ私に隠れて何をしていたんだ、秀皇」
「義兄、様」

大切な親友達が、ゴミクズ同然に放り捨てられる。爪先からは這い上がって来たのは恐怖だ。

「サラが悲しんでいる。彼女のお腹には子供が居るのに、お前の」

近付いてくる秀麗な美貌が笑った。その後ろで嘲笑う女の姿に絶望する。

「陛下のご命令だから、私は貴方みたいな貧乏アジア人と寝たのよ。それが何?こそこそ余所の女の所へ行ってたなんて」
「サラ、子供が出来たと言うの、は」
「本当よ、来年の春には生まれるわ。だから、早くこの子に名を付けてねナイト」

這い上がって来たのは恐怖だ。
今にも目の前の全てを消し去ってしまいたかった。


『どうした、また笑ってんのかよ』

そう言う唇が笑い掛けてくれるだけで舞い上がるくらい嬉しかった。

『ひでたか』

口調も仕草も乱暴な癖に、他のどんな女より晴れやかに笑いながら名前を呼んで貰えるだけで涙が出るくらい嬉しかった。


「本当、に。俺の、」
「貴方の子だって言ってるでしょ。だから早く、一刻も早く名前を付けてよ!」
「サラ、止しなさい。品性を疑われる」
「申し訳ありません、陛下」

どうして、諦めようと思えたんだろう。どうして、期限付きの幸せなどで我慢出来たんだろう。



『どうした、変な顔してよォ。この漫画、面白く無かったか?一個下の弟は毎週読んでんだけどなァ』

晴れやかに清々しく笑う人を愛してしまった。

『今度この実写版観に行かね?来週の日曜、休みなんだ』
『二人で?』
『他に誰誘うんだよ。あ、そうそう弟と言えばなァ、来年結婚するんだ。高校の時から付き合ってる彼女と』

愛してしまった。

『ハーフでさ、結構美人な彼女なんだけどォ。ちょっと細かいっつーか、几帳面ぽいんだよなァ』
『それは困ったね。俊江さんは、大雑把だから』
『何だと!…まァ、そーなんだよ。反り合いそうにねェんだよなァ。俺ァ、見た目からして男らしいからょ』
『性格と言動は、ね。見た目は可愛らしい女性だよ』

照れ屋な所も、可愛らしいぬいぐるみだらけの診察室も、退院した受け持ち患者に毎月可愛らしい葉書を送ってやる性格も、全て。

『何だそれ!何だそれ!お主っ、高校生の癖に大人を口説くつもりか!』

愛してしまったんだ。

『口説いたら、怒るんですか?』
『そう言うのは彼女にやるもんだろ!』

ふわふわな短い髪に口付けただけで狼狽える人を。

『お主、お主、俺ァこう見えて今まで一度もカレシ居た事ねェんだぞ!勉強と遊び一筋だったからなァ!』
『ぷ』
『あァん?!』

8歳も年上なのに、真っ赤な顔で腰を抜かす人を。

『く、くくく、は、ははは!俊江さん、真っ赤だ!』
『テ、テメェ!』
『駄目ですよ』
『ぅ、わ!』

手を掴んで引き寄せただけで硬直してしまった、人を。


『…駄目。可愛らしい女性が、そんな言葉遣いをしたら』
『な、な、な、』
『折角の可愛さが、台無しだ』
『お、お主、い、ま』

だから、愛してしまったのだ。

『キキキ、キス、』
『好きだ。…頷いてくれるなら、全て捨てられる』
『…は?』
『答え、また。聞きに来ます』

今日こそ神様にお願いしようと思っていました。幼き日に尊敬を抱いた神様へ、初めてお願いしようと思っていました。

『それまでに、フレンチキスくらいで青くならない様に鍛えておいて下さいね』
『ばっばっばっ、バッキャロー!』


神様、に。




「秀皇、私の甥に名前を付けてやってくれ。産まれてくるお前の子供に」
「………」

全て捨てる覚悟で、お願いを。

「まだお前は高校生だから、挙式は卒業後に引き延ばす。今後に付いては、追々話し合おうか」
「余り待たせないで頂戴、ナイト。私は貴方みたいに暇じゃないの。ねぇ、キング陛下ぁ」


したかったのです。
愛した人から愛されたかったのです。
幸せ、に。



「へ、いか」


なりたかったのです。


「…大空」
「逃、げよう、陛下」
「何処へ」
「何処でも良い!このままじゃ駄目だ、嫌な予感がする!俺なんかじゃどうしようもないけど、ほら、君が作った親衛隊に協力して、」
「ABSOLUTELYを使えば、彼らが危険に晒される。…誰も義兄様から逃れる事は出来ない」

あの時、傷付きながらこっちの心配ばかりしてくる親友と逃げていたらどうだっただろう。

「今日、…彼女に告白して来たんだ」
「だったら尚更!」
「嫌われたかも知れない。少なからず好かれていたとは、思うけれど」
「秀皇!」
「秀隆、お願いがあるんだ」

見上げてくる優しい親友に笑い掛けた。物言わぬ彼は真っ直ぐ自分を見つめている。


「手紙を届けてくれないか」

別れの言葉を書いた、一緒に行こうと約束した映画チケット二枚。

「付いていくって言ったよねー」
「私が諦めれば全て丸く収まる。…俺はサラを抱いた。愛しい人の代わりに、誘われるまま」
「キングの愛人なんだよ、あの女は」
「知ってる」
「本当に、…何で君ばかりこんな目に遭うんだ」
「金持ちのボンボンだからだろう」
「俺が将来金持ちになったら、子供には厳しくしない。玩具とかゲームとか買い与えてやって、うんと甘やかす。決めた」
「麻雀三昧か、彼女と」
「金持ちはチェスだよ」
「チェス、か。そうだな、キングもナイトもチェスの駒だ」

果たされない願いは何処に消えるのだろう。果たされない望みは何処に消えるのだろう。

「…秀隆が戻って来たら、スコーピオで徹夜ゲームしようよ。あそこには学園長が居るから、キングも迂闊に入れない」
「父さん、怒るだろうな。まさか孕ませるとは…」
「然もキングの思惑通り、向こう方の女をね。馬鹿だねー、馬鹿陛下日本一だねー」
「手酷い」


眩しいくらいの夕暮れ時、暮秋の夕暮れ時。

「16歳で父親か。…御愁傷様」
「子供には罪はない」
「そうだけどー。名前、考えてる?何か執拗く名前付けろって言ってたけど」
「ルーク」
「チェスからか。安易だね」

果たされない願いが別れの言葉に託された日。


『もし子供が出来たら、親の名前から付けてェんだよなァ』
『どうして?』
『何か親子お揃いでさ、仲良く暮らせそうじゃね?そうだ、秀隆って優秀の秀だろ?俺が俊江で、俊はシュンとも読める』
『それが?』
『シュウとシュン、何かお揃いっぽい!』




「日本名は、─────神威」


神様にお願いがあるのです。
私が貴方の威光に従う代わりに、産まれてくる子にはせめて自由を。

「神の威光に怯まない、強い子になるよう」



『なら俺にもし息子が出来たら、俊が良いな。お嫁さんの愛称も考えてる』
『何でパクる。ハニーとか言ったら吹き出すぞ』
『判らない人には教えてあげません、ニブチン』
『誰が鈍いと!』



「秀皇」
「神威には玩具とかゲームとか買い与えてやって、うんと甘やかす」
「ひでたか」
「どうせ同じ読みなら、秀隆になりたかった」
「─────うん」
「慰めてくれるんだったな。だったらうんと慰めてくれ」

ああ、結局答えを聞きそびれた。愛していたけれど、愛されていたのだろうか。
自信はあったが、確信など何処にも無い。全ては果たされぬまま泡に消えた。




「愛しいシエを忘れる為に。」


マーメイドの様に。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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