帝王院高等学校
叫びたくなる朝なりん
何か得体の知れないものから追われている気分だった。

身体中が冷たい。

理由の無い焦燥感が這い回り、理由の無い恐怖ばかり繰り返し繰り返し。


意識ははっきりしていた筈だ。
どうやって帰って来たのか思い出そうとして放棄したのは、もう随分前だった。時間感覚が薄れている。
片付いていない寝室には中等部寮室から運び込まれた荷物が、未だゲージに入ったまま散乱している。


ああ、そうだ。
心配そうなルームメートが手伝ってくれると言ったのに、自分は笑って首を振ったのだ。
もう眠たいから、明日また話すね、などと。至極いつも通りだろう表情で、首を振ったのだ。


「…さ、くら」

壁一枚向こう側に、心配そうな顔をしながらお休みなさいと手を振ってくれた友達。
今何時なのだろうかと、丸まっていたベッドから辺りを見回すものの、窓が無い寝室はただただ真っ暗なだけ。


「しゅん」


そうだ。
遊びに行こう。

思い付いたのはただそれだけ。隣にはルームメートの寝室があるのに、散乱する荷物の中から持てるだけの携帯ゲームを抱えて、靴も満足に履かずただ廊下を転がる様に転がる様に、

「ぉはよぅ、…太陽君?」

桜の穏やかな声が聞こえた様な気がしたのに。振り向く事は出来ない。
何か得体の知れないものから追い掛けられている気がするからだ。足を止めれば食い殺されてしまう気がするからだ。


ああ、昨日の服のままだ。
似合わないウェスタン、明るい廊下を疾走する変態に皆が何事かと凝視してくる。


「しゅん、」

部屋の前。
一番奥、たった一つしか存在しない金細工ネームプレートの、一番大きな扉。
いつの間にか、扉が黒と銀に変化している。黒に、シルバーの羅針盤。カードスキャナーも無い。インターフォンまで金細工で、とても触れたものではなかった。


「俊、俺だよ。開けて」

ドアを恐る恐る叩いた。
びくともしないノックは、向こう側に伝わったのだろうか。

「どうしたら…」

インターフォンに伸ばそうとした右手、中指。シルバーに輝く指輪に、赤茶の何かがこびりついていた。


「─────ぁ、」


赤い、錆色の何か。


「あ、ァアアア、あああアああぁ」
「時の君?」
「どうかしたのか?」

恐らく二年生だろう生徒達が、食堂へ続くエレベーターホールから顔を覗かせる。
嫌だ、近寄るな、追い掛けられてるんだずっと、赤い赤い黒い蒼い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い黒い、いや、蒼い、違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う追い掛けられている違う追い掛けられている違う誰も居ない、ずっと一人だった。


桜の顔を見た。
桜の木の下で。ヴァルゴ並木道、アクエリアス噴水の音が近くに、呆れた様な表情で「転んだの」と呟いた川南先輩の白い指が、右頬に伸びてきて、


『何だ、傷なんか無いじゃない』
『ぁれ?でもこっち側にも付いてますよぅ、太陽君、大丈夫?』

何を言ってるんだ、と。
ぼんやり見つめた白い指の先に、

『然も乾き掛けてる。血の匂い、みたいだけど』
『大変っ、手当てしなきゃ!』
『アハハ、何言ってんの桜。俺は怪我なんてしてないよ』
『ぇ?じゃぁ、それは』





そ れ は だ れ の




「あああああぁあああああぁあああああぁあああああぁあああああぁ!!!」

右手を扉に叩きつけた。鈍い音、近寄ってきた誰かを振り払う。
赤い何か。追い掛けてくる得体の知れない何か。


助けて。
確か自分はそう言ったのだ。

虐げようとしている誰かに、傷つけようとしてくる誰かに、助けて、と。確か自分はそう言ったのだ。
中等部時代襲われた時でさえ、そんな事を言った記憶はない。実際助けてくれた人間の手も振り払って、触るなと叫んだ筈だ。


助けて、と。
確か自分はそう言った。抱き締めてくる腕に、暖かい何かに縋り付いて、安堵した筈だ。


『たすけて』


笑う唇は赤、白い肌を伝う水滴、笑う蒼い何か。得体の知れないものが這い回っていく。



「俊、」


全身を、今も尚、



「クロノスライン・オープンっ、開けろーっ!!!」






助けてくれと、言ったのに。










「うっ、うっ、うぅ…」



乱れたシャツを掻き抱きながら膝に顔を埋める背中を一瞥し、淡々と息を吐いた。

「いつまで泣いてんだよ」
「おれ、汚されちゃったんだ!うっ、うっ、うぅ、ユーさぁん!」
「乳首舐めただけで喚くなや。フェラさせた訳でもねぇだろよ」
「うっ、うっ、うぅ…」

一つだけ無くなった指輪、自治会役員用のレプリカであるシルバーの指輪を嵌めていた人差し指を眺めながら立ち上がる。

「ったく、テメェが邪魔すっからヒロアーキ=ヤマダも見失っちまうし、製作期間2日のお気にも無くなっただろ」
「うっさい!お、おれにあんな事した癖に!」
「お前なぁ、」

大して体格の変わらない獅楼が真っ赤にさせた顔でガミガミ怒鳴った。急激に襲われた眠気から覚めて、慌ただしい足音がゲートの向こうに近付いてきたのを覚えている。
恐らく太陽のものだと思われる叫び声。流石に気になったものの、立ち上がろうとした瞬間跳ね起きた獅楼によって阻まれたのだ。


曰く、行きたいなら俺を倒せ。

「近頃のヤンキーは根性が足んねぇぞ」
「ユーさん、うっ、ユーさぁん!変態から汚されちゃったよー!」
「佑壱そっくりな俺にそれを言うか、親衛隊長」
「ユーさんじゃないもんっ、偽物になんか興味ないもんっ」

1分と懸からず組み伏せた零人が、悔しげな獅楼を揶揄うつもりで手を出したのが敗因だ。まさか此処まで初だとは。

「はいはい、好い加減泣き止めよ。もう8時回ってんぞ」
「うっうっうっ」

初めて見た佑壱ですら此処まで泣き喚いた事はない。寧ろ幼い頃の佑壱と言えば日本人を馬鹿にしていて、腹違いの兄を毛嫌いしていた。



『オマエみたいな奴、兄なんて認めない。俺の兄様はオマエみたいな奴とは違う』

6歳、だっただろうか。
佑壱が小学校に上がる頃だった筈だ。零人は中学校入学前だった。
現れた新しい母親に戸惑いながら、いつの間にこさえたのか、鼻の下を伸ばした父親の隣に赤髪の子供。

『零人、今日からお前の弟になる佑壱だ』

燃える様な赤い髪は父親と同じ色。自分には無かったもので、羨ましかったのを覚えている。
月に何回も何回も染めては痛んできた毛先を切る、死んだ母親の遺言を守り続けて数年。二歳の時に死んだ母親の記憶は微かだった。残されたビデオレターで笑う、特別美人ではないが穏やかそうな母親は、幸せになりなさいと繰り返し繰り返し。


「あー、だから悪かったって。好い加減機嫌直せ、チョコやっから」
「要らない!」
「はぁ」

母親は子供が作れない体だった。
ビデオレターで微笑む人はそう何の躊躇い無く吐き捨てる。では自分は誰の子供なのだろうかと疑問に思った五歳、父親にはビデオレターは見せていない。遺言を受けた秘書から直接渡されたからだ。

『…ゼロ、私の愛しい息子』

繰り返し繰り返し、夜。
ベッドに潜り込む度に誰かが耳元で囁いた。当時から帝君だった零人の寮室は一人部屋で、セキュリティも完璧だ。深夜に訪問者など居ない。
なのに何度も何度も毎晩、誰かが耳元で囁いた。愛しているよと、許してくれと、抱き締めてやりたいと、愛しているよと、何度も。

「ほら、朝飯喰わねぇと授業始まるぞ。普通科はそろそろHRだろーが、良いのか?」
「うっ、うっうっ、どうせ馬鹿なおれにはユーさんみたいな特権もないしっ、うっ、うっうっ、頑張って勉強しても平均点だしっ」
「判った判った、特別にテスト勉強見てやるから、放課後職員室に来い。許せ、な?」
「うっ、うっうっ、どうせ馬鹿な俺なんか総長から捨てられちゃうんだ!烈火の君を足止めしなきゃいけないのに、負けちゃうし!」
「…あのなぁ」

ああ、もう。
あんなに泣かせてみたかった弟は他人の前では素直だは、開き直って可愛がりたいのにそれはプライドが許さない。
22年の人生で、父親を独占した償いをしたい弟は母親を独占していた。欲しかった父親の赤い髪も母親のサファイアの瞳も恵まれず、だったら金髪黒目の自分は鬼の子供だろうか。

「遠野がお前らの飼い主だってバレたら不味いんじゃねぇのか?」
「そうだよ、生徒会長に掴まっちゃう。あっ、そー言えばハヤトさんは大丈夫だったのかな!」

泣いていたと思えば立ち上がり、キョロキョロ周囲を見回す獅楼が拳を固める。
呆れ混じりに笑って、包みから取り出した小さなチョコレートを獅楼の口へ投げ入れた。

「ふむっ」
「さぁな、こんな所に居たら情報の入り様がねぇだろ。地下は中央領域だ」
「うー。良く判らないけど、だったら外に行く」

モゴモゴ頬を蠢かしながら頷いた獅楼は疑いの眼差しを向けつつ、零人の悪巫山戯に抵抗した時の乱れを整える。

「機嫌直ったか?」
「もうしないなら、うん」
「しねぇよ。相手には不自由しねぇからな、俺は」
「あっ、ボタン取れてる!酷いー、サイズ合うのこれしかないのにぃ」
「シャツのか?判った判った、俺の所為だって言いたいんだろ」

シャツを掻き握り、キッと涙目で睨んでくる獅楼に何とも言えない嗜虐心を刺激されながら、ツンツン立てた赤い髪を撫でてやった。
ブリーチとは思えない手触りの良さだ。

「おれ、いきなり大きくなったんだ!だから採寸まで既製品使うしかないんだぞっ」
「今日、身体測定だろ。新しいシャツ買ってやっから、今日一日我慢しとけ」
「ダメだ、無駄遣いしたら総長から首絞められちゃうってケンゴさんが言ってたもん」

余り総長の俊に話し掛けた事が無い獅楼は、カルマ幹部達が語る『総長7武勇伝』を信じ込んでいる。その大半が獅楼への揶揄いからなる冗談だが、それを教えてやる優しいワンコなど居なかった。

「壊れたら直せ、そもそも壊すなって言うのが総長の格言だよ」

眼鏡は良いのか。

「はぁ?カルマってのはどんな集団なんだよ」
「えっと、まず一日三膳でしょ、」
「へぇ、一日三善か。社会貢献してんじゃねぇか」

ああ、会話文の相違。

「んで、朝の挨拶は元気良く、バス地下鉄の席はお年寄りに譲る、身内に優しく、」
「ヤンキーが朝からおはようってか?業界用語だろ、夜でもおはよう」
「何で?カルマの集会は大体朝7時だよ」
「はぁ?佑壱起きてんのか?!」
「当然じゃん。総長は8時くらいにしか来ないの。集会は大体幹部の皆がやって、総長はご飯食べてる」
「…」

そりゃ無言にもなるだろう。
零人だって総帥の時は毎回毎回舎弟を纏め上げ、結束に尽力したものだ。ただでさえ数が多い上に、幹部ですら他の総長クラス。気を抜けばいつ寝首を掻かれるか。

「総長は居るだけで心強いから、いいんだよ。大体幹部の皆が囲んでるから、近寄れないけどさー」

なのにカルマ皇帝はご飯食べてる。たったそれだけで狂犬46人を纏め上げている事実。

「何か、凄ぇな」
「だからこのシャツ縫って直さなきゃ…うっうっ、お裁縫なんかやった事ないのにー」

加賀城財閥は、嵯峨崎財閥に匹敵する旧家だ。その本家一人息子である獅楼は殆ど寄付金だけで入学し、本人が努力家だった為に何とか普通科上位に収まっている。
佑壱に関わる生徒は大体把握している零人が短いアシメの赤髪を掻き、息を吐いた。

「判った、ぱぱっと直してやっから、とりあえず朝飯食ってこい。直したらAクラス担任に渡しとくから」
「えぇ、ちゃんと直せるの?」
「失敬な奴だな、俺の器用さは神だぜ。裁縫、シルバーアクセ、凄ぇんだぞ」

目を輝かせた獅楼に万更でもない零人が胸を張る。

「ねーねー、料理も出来る?ユーさんみたいなオムライス、作れる?!」
「いや、料理は無理」
「ちぇ、使えない奴っ!」

ぶーぶー頬を膨らます獅楼が脱ぎ捨てたシャツを片手に、美形は乾いた笑いを浮かべ肩を落とした。


「酷い奴だな、お前。俺も泣くぞ、おい」
「オムライス食べたいのにぃ、食堂には無いのにぃ」

本当に。
使えない人間なら、良かったのに。


「なぁ、その髪」
「ん?もう、触るなよぅ」
「何処の美容室で染めてんだ?」


人間のままで、良いのに。

←いやん(*)(#)ばかん→
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