帝王院高等学校
オカンのオトンは終日おねえ
一人きりでシャワーに打たれていると、飛沫の中で扉が閉まる音を聞いた。いつもの事ながら小さく笑い、冷水ばかり撒き散らしているシャワーヘッドを見上げ目蓋を閉じた。

「おやすみくらい、言わせてくれたって良いじゃないのよねぇ」

期待していた訳ではない。
たった一度だけ、狂う様に掻き抱いた細い体は誰にも捕える事が出来ないまま、今。これだけ近く、共に食事をして面と向かい会話し、同じ建物の中で眠れる。それだけで奇跡だ。
奇跡。その響きは酷く甘露に神経を支配する。


鬼の様だと汚らしいものでも見るかの様に吐き捨てた祖母の声を思い出した。古い考えだった、日本の妻の鑑。
可愛い一人娘を奪った男を憎み続け、生み落ちた赤い髪の孫を鬼の子だと嫌った人。両親同時に失った子供は孫を孫と認めない人の元で、入り婿だった優しい祖父が亡くなるまで健やかに、健やかに。

暮らしていましたとさ。


「…あーあ、年取ると感傷的になって嫌だわ」

叩き下ろしたシャワーヘッド、足元で溢れる冷たい水。冷えた皮膚は頭の先から爪先まで灼ける様に熱い。
こっそり祖母の目を盗んで駄菓子屋に連れていってくれた土曜の昼、野球好きだった祖父がキャッチボールをしてくれた日曜、屋敷の中では祖母を気にして肩を揉んでやる事すらままならないまま、中学入学直後亡くしたたった一人の家族と呼べた大好きな人。

付き合いで祖母が一度だけ外泊した日は、楽しくて仕方なかった。朝から晩まで祖父に張り付いて、朝から晩まで二人笑いながら夕飯の鍋を囲んで。
食べきれなかった鍋を前にどうしようか、などと眼を見合わせ、庭先に迷い込んで来た野良犬に全部プレゼントしたのを覚えている。

「何よ。皆してアタシを悪者にして」

自棄の様に呟いた台詞と共にコックを捻る。止まった水音は静寂を招き、世界にたった一人ぼっちの様だ。

「クソ可愛げのない息子と一緒に暮らしたいだけよ。クソ可愛げのない妻と一緒に暮らしたいだけなのよ。何が悪いのよ、良いじゃないの、鬼だって幸せになる権利はあるのよ。鬼の人権を尊重しろっつーの!」

飛び込んだジャグジーに潜り、頭だけ潜水艦の様に浮上させる。灼ける様に熱かった皮膚が急激な温度変化に悲鳴を上げて、爪先から鼻先まで一気に焼き尽くした。
ジャグジーの泡が頬や唇を刺激する。広過ぎる浴槽に一人、やはり何でも程々が大切だと目を閉じた。

家族と入れば楽しい筈のバスタイム。今までの人生でそんな幸せ、数える程度しかない。

『お嬢様はレイを愛しているわ』

優しくて優しくてどうしようもなく優しかった最初の妻は、妻と言うより盟友だった。

『けれど素直に受け入れる事が出来ないのよ。当然でしょう?私だって、認める迄には時間が必要だったもの』

同じ人間を愛した、親友。

『子供が産めない私は、お嬢様の赤ちゃんが見たい。お嬢様を愛しているの。矛盾しているわ。お嬢様がマリアの様にキリストを抱く姿を想像するととても幸せな気分になるのに、その反面、お嬢様が誰かを愛している光景に絶望してしまう』

男女間に友情が芽生えないなんて、笑い話だ。彼女は確かに親友だった。最初から最期まで、親友でしかなかったのだ。

『私が産んであげる』
『貴方の家族を』
『お嬢様が愛した貴方の子供を』
『愛するお嬢様の子供を』
『お嬢様を愛している私が』
『他の誰でもなく、私が』
『産んであげる』

優しくてどうしようもなく優しくて大好きだった親友は、産まれたばかりの子供と三人、バスルームで笑い合っている時も三人並んで眠っている時も、最初から最期までずっと、親友でしかなかった。
最期まで、家族にはなれなかったのだ。

「…フェイ、やっぱアタシ達の惚れた相手は一筋縄じゃいかないわ」
『当然でしょう?私達が愛した人は、世界で一番気高い薔薇』
「淋しさで丸め込んで、やっと手に入れたと思ったのに。今度は佑壱を盗られちゃったの」
『まぁ、素敵。ゼロと似てとっても可愛らしいんでしょうね、私達のベイビィは』
「くっそ生意気で親を親とも思ってないけどね」
『うふふ、グレアムなんかにのうのうと明け渡したからよ』

死んだ筈の親友が囁く声は辛辣だ。
何処か儚げで、美人ではなかったが愛らしかった彼女は、階級こそ低いものの元々は執事を多く輩出していた貴族の家を捨てて、日本に付いてきた。

長生きした祖母の遺言で、半ば無理矢理継いだ家を軌道に乗せられたのも彼女の支えがあったからだ。凹たれるとビシバシ嫌味を吐いて、頑張っても『まだまだ修行が足りませんわ』とにっこり笑ってくれる。
あの強さが懐かしい。

「…キングの意志を前に、何が出来るんだよ」
『何が出来る、ではなく、何かをするんです』
「放っといても、爵位はもうルークに渡った。後はルークに子供が出来れば、佑壱の継承権は遠ざかる」
『死に損ないが生き長らえて喜んでいるのは貴方だけ。皆、虎視眈々と狙っていたでしょう?』


ジャグジーの音が酷く耳障りだ。

『ブラックシープ、陛下の顔を継いだ銀髪の神児。けれど陛下の隣にファーストレディは居ない。

  いつ彼は産まれたの?
  彼は陛下のクローン?

  ブラックシープ、厄介者の眼は紅い

酩酊した思考回路が白濁する。
繰り返し繰り返した危機感は増すばかり。執事、と言う名目の元、神に囚われてから。

『クライスト枢機卿、貴方はいつも怯えてばかり。だから付け込まれるの』
「…手酷いな」
『ほら、大好きなお祖父様が亡くなって単身アメリカに飛び立った時の様に行動しなさい』
「爺さんが憧れてたメジャーリーグが見たかっただけだ」
『もしもルークが死んだら、今度こそ佑壱は貴方の手から遠ざかる。

  そして世界中から命を狙われてしまうでしょう。絶対なる世界神の名目を狙う人間から、その肩書きだけで安息はない。
  私達の大切な宝物。死んだらまた、次の後継者が神の玉座に座るだけ。


  私のベイビィを見殺しにするなら、許しませんわ』

壁に飾った鏡を見やる。
色素の薄い眼は赤に酷似した茶色、長男は母親の遺伝子を継がず真っ黒だと言うのに。

「鬼の子なら、いっそ鬼に産まれたら良かったのに」
『サファイア、それはグレアムの証。ダークサファイア、佑壱が隠し続ける神の証』
「今日、あの子を見たの。どんどん大きくなってて、どんどんゼロに似てくる」
『変ねぇ、ゼロは父親似だって皆さん仰るの。幼稚園でも、ご近所でも』
「髪が赤いから」
『そう、私が染めちゃったもの』

のほほんと笑う声が聞こえた。
苦く笑った口元は、忽ち爆笑を招く。

『だって産まれた時から金髪なんですもの。不良みたいでしょう?可愛らしいゼロが苛められてグレてしまったら、私は苛めっ子をうっかり叩いてしまいますわ』
「クリスに似たんでしょ。キングもクリスも、綺麗なブロンドですもの」
『私の愛らしいゼロをのうのうと明け渡してなるものですか。うふふ、お母さんっ子だった零人は私の遺言を守っているかしら?』
「ええ、毎週毎週欠かさず髪を染めて、毎週毎週痛んできた髪を美容室で葬ってる。お陰であの子だけ、いつも同じ髪型よ。人生の半分損してる」
『可哀想に』

ぱしゃん、と。
水面から伸びた手がジャグジーパネルの電源ボタンを押した。
同時に許可なく開いたバスルームのドアへ眼を向けて、訝しげに眉を跳ね上げる口煩い秘書へ唇を尖らせる。

「コバック、バスタイム中に許可なく侵入するなんてセクハラで訴えるわよ」
「何度も言いますが小林です。話し声が聞こえた様なので、失礼ながらノックを省略しました」

プライベート中もスーツにネクタイを崩さない男が素早く広過ぎる浴室を黙認し、肩から力を抜く。
亡き妻からひたすら嫌味を浴びせられ続けてきたこの秘書は、亡き妻からの遺言を20年以上守り続けている石頭だ。

「何それ、浮気調査とか言わないでしょうね。万一ハニーとイチャイチャしてたらどうするつもりだったのよ」
「クリス様とは先程廊下でお会いしました」
「普通、浮気するなら家の中じゃなくお外なんじゃないかしら、ヤッシー」
「小林です。確かにそれもそうですね、大変失礼しました。何せ社長は信用がありませんので」

類い稀な外見と、財閥会長の肩書きで寄ってくる女性が余りに多い事を知っている彼の言葉は辛辣だ。言葉で人を殺せるなら、嵯峨崎嶺一と言う人間は毎日殺されているに違いない。
特に彼が『社長』と呼ぶ時は馬鹿にしている証拠だ。

「モリリン、先輩とアタシは帝王院初等科からの親友でしたよね」
「下の名前は守矢であって、モンローの類似品ではありません」
「そんなに石頭だから皺が増えるのよ。白髪こそないけど、貴方って昔から老けてんだから」
「………余程、俺を怒らせたいらしいな紅蓮の君。」

懐かしい呼び名だと目を細める。今や次男に与えられた帝君の証は、40年近く前まで自分のものだった。18歳でアメリカに飛ぶまでは、確かに。

「そっちこそ何が小林よ、嘘吐き。アタシを毛嫌いしてた鬼の風紀委員長は叶、…叶守矢」
「脱走遅刻門限破りの常習犯が何を抜かすか。ふん、死んだ前会長がわざわざ貴様の警護にご使命下さったんだ。感謝するが良い、木偶の坊」
「あらら、見た目は四十そこそこでもやっぱ中身はオジサンね。昔から何も変わってない」

説教親父、と昔繰り返した呼び名を吐き捨てれば、ニヤリと悪い笑みを浮かべた男の足が叩き下ろされる。
凄まじい水飛沫を上げた水面は、たった今まで嶺一が居た場所だ。辛うじて避けたものの、踵落としは確実に頭を狙っていた。

分家だが警護、企業スパイなど果ては暗殺まで手懸ける忍者の末裔は総じて腹黒サディストが多い。痙き攣り笑い一つ、本来ならば前本家跡取りが死んだ時に叶一族のトップへ登っていた筈の男を眺め、溜め息。

『小林さん、どうかレイをボコボコのズタズタに可愛がって下さいね』
『勿論です、奥様』

亡き妻のお陰で、この一つ年上の『友人』は着実に亡き妻の代理を務め上げてくれる。

「グレアムだか何だか知らんがな、…我が家の棟梁も酷くご立腹だ」
「やだ、聞いてたの」
「うちの甥っ子が人質だ。…貴様のお陰で、順調に調査は進んでる」
「世界最強マフィアにスパイするなんて、クレイジー通り越してドMね…」
「キングには双子の弟が居た」

囁く声音に眼を上げる。
顎を捕えた指先の主は冷え冷えする様な眼差しに笑みを滲ませたまま、

「ロード=ベルセルク、不吉な二人目の神児は裏舞台に隠蔽され、キングの影武者として育てられる」
「彼は16歳の時に陛下自らが解放したわ。以降、陛下の補佐として中央枢機卿の地位を与えられた。クリスも兄として慕っていたって」
「ああ、表向きにはな。だが然し、奴は22の冬に死んでいる。死因は病死」
「それがどうしたのよ」
「死んだのは日本で、だ」

濡れたスーツにも構わず囁き続ける声をただ見つめたまま、呟いた己の声は酷く擦れている。

「その一昨年の春、現ノアグレアム、ルーク=フェインが産まれた。忽ちその才覚を表し、誰もがキングノアの後継者として疑わずに、9年前9歳で爵位を受ける」

機密中の機密事項だ。万一盗聴されていたら不味い。

「キングは本当に、ロードを補佐として呼んだのか?」
「…どう言う事?」
「ルークへの継承が早過ぎるとは思わないか。父親なら、幼い息子に命を脅かす様な肩書きを継がせたりしないだろう」
「つまり陛下は早くから爵位を誰かに押し付けたかったって事?…つまり、生き別れてた弟、に?」
「そう考えれば自然だろう」

有り得ない話ではない、と。思う反面、有り得ないと呟いた唇は自分のものだ。

「爵位継承権がない。チェスではなかったもの」
「キングが己の名を与えれば良い。ルークへ名付けた様に。継承に必要なのか血縁ではなく、名だ」
「なら何で、殺す必要があったんだ?!」

叫んでから口を押さえた。満面の笑みを浮かべた『鬼』の眼に、赤い鬼が映り込む。

「やはりロードはキングが殺したのか」
「違う、ただの噂。ロードが爵位を狙ってキングを怒らせた、…ただの噂だ」
「ロードに地位を渡すつもりだったなら、殺す必要はない」
「…この話はやめ。俺らの命がねぇぞ、叶」

顎から手を離した秘書が己の顎に手を当てて、暫し考え込む。浴槽から立ち上がり男の隣を通り過ぎて、引っ掛けていたバスローブを掴んだ。

「ロードがキングを怒らせた理由が、別にあったらどうだ?」
「あ?」
「爵位ではなく、もっと別の何かで神の怒りに触れたのだとしたら、」
「神に感情なんか無い。キングもルークも、空っぽってね」
「なら何故、キングは日本になんか興味を示したんだ。26年前の春に来日し、今や日本の覇者」

確かに、言われてみれば可笑しい話だった。グレアムに比べれば帝王院など塵にも満たない。

「少し帝王院を調べる必要があるか」
「…帝王院は今やセントラル、グレアムの中枢。キングは勿論、ルークまで帝王院に君臨してる」
「帝王院財閥にはうちの家の人間も多い。隠密で我が叶に適う者は皆無だ」
「…アンタねぇ、甥を敵に回すわよ?グレアムの現宰相、ディアブロ枢機卿は相当実家を憎んでいるそうじゃないの」
「だから何だ。名門叶一門に産まれ、子供が居ない冬臣棟梁や男児に恵まれなかった文仁に何かあれば、二葉が継ぐ必要がある。奴は我が叶の血を色濃く表した天才だ。

  隠密に適した体躯。
  調教の才能。
  暗殺の知識。
  見合った経験。
  人を人とも思わない性格。


  どれをとっても素晴らしい…」

うっとり囁く男に肩を竦め、濡れた髪をそのまま巻き上げてヘアクリップを手探った。

「精々、命は大切にしなさいよ草食系気取ったドSコバック」
「小林です。その長ったらしい髪を乾かしてから消化してない仕事を片付けて下さい、社長」
「アンタも、アタシの大事な家族なんだから」

ドライヤーに手を伸ばせば、投げ付けられたバスタオルが顔面を打つ。
地味な痛みに鼻を押さえ、



「ドライヤー貸して下さい、嵯峨崎会長」

←いやん(*)(#)ばかん→
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