帝王院高等学校
ねむねむさんがやって来たにょ!
「ああ、お疲れ様です総務課長」
「ん、お疲れ様です」

開いたエレベーターの向こうに、懐中電灯を手にした人の好さそうな警備員を認め軽く頭を下げた。ぴしっと敬礼した彼は元自衛隊員だったと言う経歴に見合い、中々体格が良い。

「今、お帰りですか?」
「資料室の掃除をさせられてた」
「またまた、忙しい総務でしょう?大変ですね」
「いや、大体毎日掃除をさせられてるんだ…。遅くまで悪い。まだ社長が残っているが、恐らく今日も泊まるつもりだろう」
「新年度ですから、お忙しいでしょう」
「さぁ、私には経済学は向いてないみたいだから。ま、私一人働かなくても倒産する事はないだろうな」
「はは、ご謙遜ばかり。では気を付けて」
「そっちもな」

肩を竦めて言えば警備員は鷹揚に笑う。入れ違いでエレベーターに乗り込む背中を軽く叩いて、薄暗いロビーを出た。



新月。
空は何処までも暗い。
汚れたオゾン層は星を覆い、低い空にはコンクリートの塊。時折泳ぐジェット機が唸りながら排気ガスを撒き散らし、砂漠から黄砂がやって来る。


「…いつまで、俺は。お前に振り回されれば良いんだ」

呟いた独り言を聞く者は居ない。
着慣れたリクルートスーツ、緩めたネクタイ、乱れた髪を整えながら小脇に挟んだ薄っぺらい安物の鞄へ目を落とす。

「シエ。…俺の嫁。他の誰のものでもなく、遠野秀隆の花嫁」

確認する様に囁いてから眉間を押さえた。いつまで自分はこの生温い幸せの中に存在出来るだろう。

可愛げのない可愛い息子、いつまでも愛しい妻、不便だらけのマイホーム、日曜日には日曜大工を。
夜長の暇潰しはテレビゲームで、安物のビールに枝豆をつまみながら、いつまで。


「頼む、戻って来ないでくれ。俺から今を奪わないでくれ。
  …誰にも何も話さないまま、他の全てを捨てて生きていくから」

目の前を排気ガスを撒き散らしながら駆けていく鉄の塊。車もバイクも人混みも国道をただただ流れていくのに、





「ナイト、…恵まれた秀皇。




  俺はお前を殺してしまいたい」




自分はまだ、立ち止まったまま。















「ぅ、ん」


爪先立ちを続けた足が震えている。
触れた唇の内側、這い回る舌が頬の内側や歯列まで撫でる度に役立たずな腰から力が抜けていった。

「ふにょ、むにゅ、ふぇ、んにゅっ」

後頭部と背骨。絡み付く長い腕は離れる気配が無い。
一際大きく震えた足から力が抜けて、カクリと折れた膝は然し絡み付く腕に支えられていた。

屈み込んで来る秀麗な顔。深くなるばかりの口付け、酸素を忘れた肺が今頃悲鳴を上げている。


「くゅ、しー、ょ」

呼吸の仕方を忘れてしまった。途切れ途切れに苦しさを告げても、舌を絡め取る舌先が離れる気配は無い。
舌先に噛み付く唇、後頭部から離れた腕が顎を掴む。もっともっとと深くなるばかりの口付けは、まるで食事の様だ。

「かぃ、ちゃ、くゅしィ、にょ」
「鼻を使え」
「ぅむ、ふにょ、むむむっ」
「本に、そう記してあった」

器用に口付けながら会話する男の台詞で、漸く呼吸を始める。


鼻息が当たって気持ち悪くないだろうか。
あ、カツサンドの味がする。
あ、今、ポケットの中のコロッケパンが潰れた気がする。


つらつらとつまらない事を繰り返し繰り返し、漸く離れた唇が濡れている様を見つめながら、震える指をその赤色へ伸ばした。


「ちゅ…したら、赤ちゃん出来ちゃう、にょ」
「そうか」
「もしカイちゃんのお腹がおっきくなっちゃったら、アルバイト探さなきゃ、めー」

緩く細まった蜂蜜色の眼差しに首を傾げる。濡れた唇を指で拭ってやれば、人差し指にその唇が口付けてきた。
びくっと肩を震わせれば、じっと蜂蜜色の眼差しが見つめてくる。言葉少ない神威から感情を読み取るには、その眼を見るしかない。

「…俺は母親には向かん」
「ぇ、でも、ちゅーしたのは僕だから、やっぱりカイちゃんが健気受けじゃないかしら」
「違うな。俺がお前を孕ませたいだけだ」
「ふぇ」

ふわり、と。羽の様に浮いた体。
庭園から舞い降りた白銀を思い出し息を呑みながら、覗き込んでくる甘い色合いの瞳を見やる。

「子を持てば足枷になろう。食う飯に困り、他の誰からも見向きされず主人に従うより他無い」
「ぇ?」
「俺はお前をその立場に追い詰める。…逃がすつもりは毛頭無い」

ポケットからはみ出したコロッケパンを無意識に掴んだ。全く読み取れない瞳の感情に困惑し、近付いてくる唇に狼狽して。

「ぁ」

掴んだパンを握ったまま、神威の顔に叩き付ける。少しだけ見開いた蜂蜜に狼狽え慌てて手を離すがもう遅い。潰れたコロッケパンがポトリと腹に落ちてきた。

「あ、あにょ、痛かった?ごめんなしゃい、痛い痛い飛んでけー!」
「…」
「あにょ、あにょ、眼鏡のお友達に貰ったにょ。うぇ、カツサンド食べちゃったけど、コロッケパンはカイちゃんにあげるつもりで…ふぇ」
「俊」

静かに覗き込んでくる目から逃げる様に顔を伏せる。パンを腹に乗せたまま両腕で神威の頬を挟み、ぐいぐい押し返した。

「つぶ、潰しちゃったなりん。ぱんだらけのコロッケパンは、ツナマヨ味で美味しいにょ」
「俊、」
「だ、だからカイちゃんにあげるつもりで、ぼ、僕、カイちゃんにあげるつもりで、」

ズレたサングラスがポトリと落ちる。
腹の上に、潰れたパンの上に、


「逃げるな」
「ゃ、ふぇ、ごめんなしゃい、うぇ、ごめんなしゃい」
「…俊」
「ふぇ、ふぇぇぇん」

頭の中が真っ白だ。
どうしてこうも上手く行かないのだろう。神威を怒らせる様な事ばかりしている。また、嫌われるのかも知れない。中学時代の様にトイレへ閉じ込められたり、卒業旅行に誘って貰えなかったり、一番後ろの席に追いやられたり、机の上に菊の花が飾られたり。また、嫌われるのかも知れない。

「俊、」
「ごめんなさいごめんなさい、うぇぇぇん」

何もしていないのに嫌われた中学時代。ならばこんなに嫌がらせばかりしている今は、嫌われて当然ではないか。

「俊」
「ばっちいにょ、あっち行って!」
「俊?」
「カイちゃんが、汚れちゃうにょ!」

綺麗な人の周りに自分みたいな汚い人間が近付いてはいけない。
だって自分は物語の主人公とは違う。何の取り柄もなくて目付きが悪くて子供から泣かれて猫にも嫌われて、犬からは吠えられて。


『我が校の恥』


頭が悪いからテストは毎回平均ギリギリで、見下す教師達から繰り返し言われたではないか。



『首席入学の生徒が不登校なんてなぁ』
『生きてて楽しいか遠野』
『お前、不良なんだって?』
『困るんだよねぇ、校長がお人好しだからって先生達までPTAに叩かれるのは』
『我が校の恥』
『転校したらどうだい?委任状には良く書いとくから、親御さんには上手く説明して』


頭が真っ白だ。
優しい先生も居た。100点のテスト用紙に花丸を描いてくれた先生も居た。
なのに、してもいないカンニングを担任から咎められて。騒いだPTAから違う学校に飛ばされてしまった、優しい先生達。


「ど、う、しよう」

駄目だ。
自分はいつも皆を不幸せにしている。だから佑壱達から離れようとした筈なのに。


『お前なんか教え子じゃない!近寄るなっ』


楽しくて、どうしようもなく、楽しかったから。忘れていたのだ。

「どうしよう。…病気になりたい。じ、事故でもイイにょ」
「俊?」
「は、早く死んじゃわないと、皆から嫌われちゃう。どうしよう、自殺したら親戚からまた、母ちゃんが…」
「俺を見ろ」
「ごめ、ごめんなさ、ごめんなさいごめんなさい、せ、先生、生まれてきてごめんなさ、」


頬に痛み。
パシン、と。渇いた音が白濁した頭を現実に戻す。
呆然と見上げた網膜に白銀、蜂蜜色の眼差し、赤い唇。


「誰に、吹き込まれた」

低い低い声音が鼓膜を揺らした。
心臓を鷲掴みにする様な、春には不似合いな冷たい声音が。

「答えろ、─────誰に吹き込まれた」
「カイちゃ、」
「誰がお前に吹き込んだ?それともお前が俺を怒らせたいだけか?」
「ふぇ、うぇ、…ひっく、ふぇぇぇん、ふぇ、ふぇぇぇん」

頬が痛い。
でもそれよりもっと左側の胸が痛い。何度も何度も考えた事だ。死にたくても親を困らせない死に方を探して、死にたくてもカルマの仲間を見る度に楽しくて、楽しくて。

「ひっく、ほっぺ痛い、うぇ、うぇぇぇん」

忘れた振りをしているつもりで、本当に忘れていたのだ。

「悪かった、泣くな。俊、泣くな、どうすれば泣き止む」
「ずずっ、ぐすっ、くしゅん!」

泣き過ぎて腫れた眼が痛い。
鼻が痛い。
くしゃみと同時に抱き上げる腕の力が増して、安心感に気が抜けたのだ。

「ネンネ、したいにょ。昨日、徹夜したから、…ねむねむさんが来たなりん」
「ああ、寝ていろ。湯冷めしたんだ。部屋まで運ぶ」
「ぅ、ん」


ふわふわ、ふわふわ。
やって来た睡魔に身を委ねれば、まるで雲の上を歩いているかの様にふわふわ、ふわふわ。



「…俊」



子守唄の様に囁く声音を聞いた。
無意識に掴んだ温もりは、微笑んでいたのだろうか。
とても温かい。凄く、温かい。





『ステルシリーライン・オープン、男爵へ通信応答です』


耳のすぐ近くで鼓膜を震わせる声に腕の中の黒髪を眺めながら目を細める。

「父上か?」
『サー=ネルヴァ枢機卿でございます』
「…父上の第一秘書か。捨て置け、手が離せんと伝えるが良かろう」
『仰せのままに、マスタールーク』

今にも途切れそうな声音を小耳に、濡れた頬へ唇を寄せた。
塩辛い味がする。
涙など初めて味わったな、と瞬いた眼差しは冷たく煌めいた。


「いや、言伝がある。学園法人、…應翼財閥に関わる過去三年分の履歴を調べ上げろ。セカンドでは救い上げられなかった案件だ」
『畏まりました。お急ぎでしょうか?』
「ああ。グレアムの全てを用い、明朝までに報告を寄越せ。…期待に応えられぬ駒は要らん」
『陛下の御意に従います』

些か気を引き締めたらしい音声が了解を示し、静寂が蘇る。
誰の気配もしない闇空を見上げ、温かい体温を抱いたまま白亜の寮を目指した。



ひらひら、ひらひら。

今年最後の桜が儚く散っていく中を、静かに。誰の邪魔もなく、真っ直ぐに。



「生徒会長は生徒の安全を守る、か。…面倒な責務だ。他人の行動には何の興味も得ない」


人間、とは厄介な生き物だ。
笑い、泣き、眠り、空腹を訴え、怒り、狂う。
始終穏やかとは行かない。


「空がお前の色に染まっている。黒はお前だけのものだと、愚かな人神皇帝に知らしめるのは次の機会に繰り越された」

むにゃむにゃ口を動かしながら擦り寄って来た頭に目を落とし、すぴすぴ寝息を漏らす鼻先に口付ける。
先程までは鼻呼吸を忘れていた癖に。押し付けてきた煌びやかな小説にちゃんと書いてあったのに。

「腑甲斐ない雄を、許せよ」
「…ぅ、むー」
「母を守るのは父の務め。…お前が言った言葉は、誰の言葉よりも都合が良い」
「ん、ゃ」

我儘な生き物だ。
眠っている時は鼻に触れたら嫌がり、起きている時は唇に触れたら嫌がる。

「許しを乞うには代償が必要だ」

潤んだ黒曜石で見つめられた瞬間、正常な思考回路は望めない。全ての雑音を掻き消す声音が名を呼んだ瞬間、世界は全て白濁するのだ。

「お前を虐げた人間、…いや、違う。俺を怒らせた珍しい人間を、」

真っ白い世界に黒はたった一人。
好奇心だと思っていたこれは、果たして本当にそれだけだろうか。依存出来るものなら何でも良かった筈だ。依存する事に憧れていただけだった筈だ。



なのに、何故。
考えているのだろうか。




「ファースト曰く、…死んだ方がマシな目に遭わせてやる。」



依存させたい、などと。

←いやん(*)(#)ばかん→
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