帝王院高等学校
東奔西走の果てにギャップの壁!
雨。

「何考えてるか読めない奴、って言われた事は?」
「は?」
「無言で着替えているそなたの気配が、私に尋ねかけている様に思えたが、違うか?」
「…とうとう他人の心を読む様になったんスか」

しとしとと降り続く、烟る様な雨だ。

「人は祈る術を知っているが、その多くは見返りを求める。つまりは願いに酷似した望みだ」
「…は?」
「信仰深いとは、縋らねば立っていられない弱者の言い分だと、俺は結論づけた」

あの日も雨だった。
(覚えているか)
(蝉も鳴き声が霞む驟雨の午後を)
(足早に通り過ぎている他人の群れの中)
(お前の足だけが、時を止めていた事を)

「『神の子』と呼ばれる度に、見えない枷が足に絡みつく様だった」
「そいつはアンタの話っスよね?」
「私が何を考えているか判らないと言ったのは、そなただろう?」
「俺が言ったんじゃなくて、誰かに言われた事はありますかって質問しただけなんで…いや、やっぱ言ってない!心を読まれただけじゃねぇか!言ったのはアンタだろ!」
「これでも色々と思う事はあるが、私の表情は心情に伴わない。理由には心当たりがあるが、そなたには無意味な話だ」
「無意味かどうかは俺が決めるんで」
「ほう。高等部自治会長如きが、下院中央委員会生徒会長たる私に意見をするか」
「無礼講じゃなかったんすか?」
「…良かろう。ならば着替えを済ませる間、何ら意味を持たない昔話に付き合わせてやる」

砕けたステンドグラス、白、赤、黄色、青、緑。
緻密に描かれた文様が砕け散った紅満月の、自棄に明るい夜を覚えている。闇の底へと落ちていく金髪の悪魔はキラキラと、ガラスの破片を纏い、月光に照らされていた。

「ある夜に父を失い、同時に父に捨てられ、死に損なった悪魔を父と呼ばなければ、明日を生きる術さえ持たなかった脆弱な子供が」

闇に溶ける漆黒の毛並みを覚えている。艷やかな黒だった。

「唸り続けていた筈の復讐心を喪失し、神の座に上り詰めるまでの、退屈な話の一部だ」

あの日は雨だった。
いつか失った筈の父の毛並みに似た、真っ黒な男を見た夏の日だ。

それはいつかの黄昏時に見た、銀髪の男に良く似ていた。深い真紅に夜の蒼を溶かした様なバイオレット、サングラス一つで人の印象は随分変わるのだと。


「誕生して間もなくから、私は表情を必要としなかった。太陽光に嫌われたからだ」

例えば、まるで豪雨か吹雪の様に舞い踊る、薄紅色の世界の中で。
春心地に湧く賑やかな他人の群れの中、その新入生だけは、酷くゆったりとした時間の中で立ち止まっている様に見えただろうか。




「私の世界は映像ではなく、音から始まった」

他人の鼓動をこの耳で確かめたいと思ったのは、18歳の誕生日を迎えたばかりだった。

















「あー、もーっ、ほんとに会えんのかよ?!」
「帝王院はOBだってフロントで所定の手続きを踏まないと、敷地内にも入れない学校なんだって!チケットがあれば一般客も入れてくれる今回の新歓祭はレアなんだよ!絶対に外れないからっ」
「でも影も形もないじゃんかぁ、あたしのシーザー様ぁん…」
「あの窓の向こうにハヤトは居たじゃん。でっかいからばっちり見えた。てか目があった」
「思い込み乙」
「アンタだってさっきまで、フェニックスの後ろ姿が見えたって騒いでたじゃん」
「私のこの格好見てそれ言う?!雨降ってるのにレザーだよ?!めちゃくちゃ重い本皮なんだけど?!」
「いやぁ、自腹で気合い入れてくるとこがガチ勢って感じだけど、まさか学校内にカルマコスのレンタル屋さんがあるなんてね。流石にこの情報は事前入手出来なかったわ」
「どいつもこいつも気軽になりきり総長ぶって…!どうせ合皮ですらないビニールジャケットだろうが!こちとら高2の夏から足掛け3年、暗黒皇帝時代から現在に至るまでお慕いしてんだよ!ぽっと出のニワカ共が邪魔しやがって…!」
「出た、同担地雷の意味不明なマウント」
「煩い、私は出会った日からシーザーに人生捧げるって決めたんだっつーの」
「出会ったって、アレが?高校時代の元カレに浮気されてる現場見てキレて、チャリで轢き殺そうと坂道下ってる所に喧嘩してるカルマに巻き込まれてパンツ丸出しですっ転んだ所に、『大丈夫ですかお嬢さん』つって手を貸してくれただけでしょ?私は目の前で一部始終見てんのよ」
「そらそうだろ、お前がその時の浮気相手だろーがバカ女」
「あの頃は人のもんが良く見えた頃だったの!和解したでしょ、あっちから誘ってきたんだって」
「んな事はどうでも良い。シーザー様はやらん」
「流石の私もそこまで馬鹿じゃないって。まず間違いなく東京で一番有名なチームの頭なんて無理、戦場に立つ前に殺される。ファンクラブ一桁台のナンバーは揃いも揃ってやばい女衆が揃ってるって、有名じゃん?」
「命賭けてる女子大生舐めんな、ババア共が怖くてシーザー様に告白なんか出来るか」
「本気で言ってるんだったら何その男気、惚れそうなんだけど」
「当然、ワンチャンはないと思ってる。もしあったら、交際初日に腎臓から捧げても良い」
「人生捧げる所か一日目で人生終了のお知らせ」
「私が人殺しにならず今を生きてるのは、あの日小汚い水玉のパンツを見せたのに『ふ、馬鹿だなお前は。ほら、俺の手に捕まる権利を与えてやるよ』って起こしてくれた彼のお陰…」
「捏造の限界を超えてきたか。アンタ大股開いたまんまピクリとも動かないで、手を差し出したまま困り果てたシーザーの後ろからうんこを見る目のフェニックスが『汚ぇもんいつまで見せてんだ馬鹿女』って怒鳴りながら、逃げようとしてたアンタの元カレを喧嘩相手のチームと間違えて殴り飛ばして、痛い痛いって喚いた馬鹿がアンタに泣きついたら」
「シーザー様のエロボイスで腰が砕けてた私が、その馬鹿に『アンタ誰だっけ』って言って円満に別れたんだった」
「アンタの円満の定義が広域過ぎて、凡人には理解出来ない」
「掲示板の書き込み、ガセだったんじゃない?」
「この学校にシーザーが現れるってやつ?信憑性は疑わしいけど、ファンクラブ一桁メンバーが全員行動してるって話でしょ。あのやばい人種が、揃いも揃ってガセで踊るかね?」
「意味不明な暗号みたいな書き込みもあったじゃん。あれだって今の所意味判ってるヤツ居ないだろ?」
「鐘が鳴る。一つ、二つ、三つ、そして微睡んでいた方舟の螺子が廻る」
「ぐるり、ぐるり、ぐるり、大地の安らぎは幕を下ろした。崩壊の第一歩だ」

空がまた、暗くなった。
分厚い雲に覆われた世界は昼なのか夜なのか、最早明確な境目がない。

「黒に子守唄を聞かせよう」
「純白の羊は眩い光を放ち、白日へ還るだろう」
「人形は穢れの全てを抱いて業の深淵に沈む」
「鐘が鳴る。四つ、五つ、六つ」
「12の星は分かれた。6つの星を抱く悪魔の魔法が完成する」
「鐘が鳴る。七つ、八つ、九つ」
「猫と犬が交わって」
「善と悪が交わって」
「世界は正常な時を取り戻すだろう」

何処かで鐘が鳴った。
何度目かの時を知らせる鐘の音が、暗い世界を響き渡る。





「「灰色の蝉が孵化する宵闇に、月はない」」








この学園には二匹の鳥が眠っていると、誰かが言った。

一つは真紅の鳥居らしい。祝詞を読む者を失った緋色の大社は、常世で静かに眠っている。
一つは夜の一族が水害に備えた方舟らしい。フランス語で子守唄、Berceuse、揺り籠を起こす呪文は誰が知っているのだろうか。



『神の寵愛を受けた子供は囁いた。
 神に等しい男に粛清を。無慈悲な親に報復を』



星の中枢に王冠があると言う。
クラウンはセントラルに。この学園の全てに、中央区への鍵が眠っている。
ノアの一族を統べる皇帝は、誰にも伝わらない開幕の鐘を鳴らしたそうだ。



「私の世界は映像ではなく、音から始まった。故に俺は祈らない」


姿なき神に矛を向ける、それは聖戦の開幕なのかも知れない。


























「あらま、雨が強くなってきたわねぇ」
「傘を差さなきゃならないので、足元が悪くなる前に屋根がある所に入りたいですね」

色とりどりの花で飾られたメルヘンな煉瓦道を歩く女性達が、藤棚の隙間から落ちてくる雨粒からパンフレットで頭を守っている。道幅がそれほど広くないので、閉じたばかりの傘を開くのは躊躇われる様だ。

「でも、雨に濡れる藤棚って風情がありますね」
「本当だねぇ、座ってゆっくりお茶しながらだったら最高なんだけど。然し、…聞いてはいたけど広い学校だ。歩いても歩いても、あっちに見える大きなお城にゃ、近づいてる気がしないよ」
「グランドゲートからティアーズキャノンは、直線距離だと1kmほどと書いてありますけど…。折角綺麗に飾ってるこの道が、少し、手が込みすぎてるって言うか」
「…はぁ。もう十数分歩いてるってのに、年寄りにはとんだ苦行だよ」
「遠野さん、無理をして怪我をなさったら大変です。少し休みません?」
「すいませんねぇ、私なんか放って先に行ってくれて構わないのに。エスコートを頼んだ馬鹿孫は、小遣いやった途端さっさと居なくなっちまうんだから…」

フロントで知り合ったばかりの、娘と年頃が変わらない女性に勧められるまま一度足を止めた遠野美沙は、とんとんと腰を叩いた。
夫を亡くし息子に病院を任せる様になってからのこの数年、時々気紛れの様に病院へ足を運ぶ以外は出掛ける頻度が少なくなっている美沙は、どうにか娘を現場復帰させられないか知恵を絞っているが、性格こそ激しいが腕は確かな遠野俊江は美沙以外にも声が掛かるらしい。時々派遣医師の真似事をしているのは知っていたが、戻る気があるならうちに帰ってこいと言った所で、素直に従う性格ではなかった。頭痛の種は長女と息子嫁の関係に尽きる。

「元気で素敵なお孫さんじゃないですか。あの年頃なのにすれてなくて、素直で」
「ありゃ幼稚園から成長してないだけだよ。三人の孫の中でも、とびっきりの馬鹿なんだから」

二人の仲について全てを知っている訳ではないが、嫁は秀隆に気がある素振りをしているものの、どうもそれだけではない様なのだ。こう言う時に同居している孫に活躍して貰いたいものだが、賢い筈の初孫は成績は良いがただの馬鹿で、三番目の孫に至っては正真正銘どこに出しても恥ずかしいただの馬鹿だった。癇癪持ちの嫁のヒステリーが年々酷くなっている最たる理由が、恐らく一番下の孫だ。毎日毎日気の毒になるほど叱っている様だが、馬鹿は死んでも治らないと言う悪口がある通り、医療では馬鹿は治癒出来ない。

「死んだ亭主は昭和を具現化した様な石頭な男だったけど、頭だけは良かった人だから、末の孫には上手い事やり込められてたよ。まぁ、何言っても無駄だって諦めてたんだろうけど」
「ご主人もお医者さんだったんですよね?」
「あの人は外科医だったよ。私の父がどっかで拾ってきたらしいんだけど、出会った頃から爺さんみたいな男だった。私と二つしか変わらない筈なんだけどね、何かにつけて睨むわ怒鳴るわ、最初はまぁ恐ろしかったもんだよ」
「なのにどうして結婚なさったんですか?苦手意識があるなら一緒にいるだけで気を使うでしょう?」
「何だろうねぇ。性格はともかく顔は良い方だったんだろうけど、勉強以外に趣味がなかった私はピンと来なかったし、父から縁談話が出た時は『阿呆かクソ親父』って思ったもんだけど…」
「ふふ、クソ親父って、結構言うんですね」
「ははっ、本人にはとても言えないけどねぇ。亭主も石頭だったけど、うちの父親も似たり寄ったりな性分だ。スケベな事ばかり言ってるかと思えば遊ぶ訳でもないし、死んだ母さんは何でこんなのと結婚したんだって思ったもんだよ」
「…ほんと、そう言うのって理屈じゃないんですよね」
「そうそう。後悔する度に殺してやろうかと思ったって、憎んで一緒になった訳じゃないんだからね。良し、もうひと踏ん張り歩きますか」

どうにか曲がりくねった迷路の様なフラワーロードを抜けた一行は、後片付けが始まっている屋台跡地で飛び跳ねている少年を見つけた。最終日セールと言う看板が立っている輪投げ屋の前で、店主から景品らしきものを受け取った背中が振り返り、美沙を見つけるなり猛スピードで駆け寄ってくる。

「ばーちゃんばーちゃん、やったぜ!輪投げでラムネ三本穫ったどー!」
「へぇ、やるじゃないか。で、幾ら使ったんだい?」
「貰った小遣い全部!」

胸を張る遠野舜14歳が自供するには、一回百円の輪投げで単価百円程度のラムネを三本ゲットする為に五千円を費やしたそうだ。いや、馬鹿でかい綿飴の袋を手首にぶら下げているので、それも含め、締めて五千円也。ほんの数分目を離しただけで、何でこんな事件が発生しているのだろうか。お年玉を持って出掛けた小学生よりも早い散財だ。これが中学3年生なのだから、母親が喚きたくなる気持ちが判らなくもない。

「お姉さんもラムネどうぞ!」
「あ、有難う、良いのかしら…」
「一本千円のラムネなんか滅多に飲めないからね、皆で乾杯しようじゃないか…」
「いっぱい輪投げしたからおまけでポスターも貰った。これ見てよばーちゃん、カルマのポスターなんだって。つーかカルマって何だ?」
「地元の若者がキャーキャー言ってる不良集団だろ?ばーちゃん不良は嫌いだ、よ…?」

びろんと孫が広げたポスターをラムネの玉を落としながら見遣った女医は、ぱちぱちと瞬いた。ド派手な集団のど真ん中に王様の如く突っ立っている銀髪サングラス姿の人物に、何故だか異常な既視感を覚えたからだ。

「んんん?んん?!」
「しゅ、舜君、このポスター、写真撮らせて貰っても構わないかしら…っ?」
「お姉さん、コイツのファンなの?」
「ファンって言うか…あの、このオレンジの髪の男の子ね、私の息子なのよ」
「うっそー!マジですか?!サイン下さい!」
「ええっと、サインはどうかしら、本人に聞いてみないと何とも言えないんだけど…」
「ちょっと待ちな、舜。アンタこの真ん中の白髪、どっかで見た事ないかい?」
「白髪ァ?うちの和歌も白髪だけどォ?」
「そうじゃない、こっちだよこっち」

美沙が指差したCaesarのスペルを流暢に呟いた高野佳子は、ハンドバックから取り出したサインペンでチキンラーメンカラーのTシャツにサインを書いた。健吾のサインが欲しかったんじゃないのかと思ったが、くるっと背中を向けて「背中に書いて下さい!」と叫んだ中学生は、イェー!と喜んでいるので、満足してくれたのだろう。

「佳子さん、そのペンでこの子の頭、塗ってくれないかい?」
「シーザーの頭を?ええ…こうで良いですか…?」

なんて勿体ない事をさせるのだろうと思いながら、美沙に言われるまま従った佳子を余所に、クネクネと踊っていた不束者ですが主人公は目を見開いたのだ。

「あっあっ、アーッ!こここ、これ、俊兄ちゃんじゃない?!」
「…やっぱり、私の見間違いじゃない様だね」
「え?え?シーザーが舜君?」
「シュンはシュンでも、この馬鹿じゃなくもう一人の孫の俊だよ。サングラスで誤魔化したって判る、口元がシューベルトそっくりだ」
「うんうん、秀隆兄ちゃんはイケメンだもんな。俊兄ちゃんもイケメンだからな。お姉さん、これ写真撮ってイイですか?!」
「えっ?貴方が貰ったポスターなんだから、好きにしたら良いんじゃないかしら?」
「いえ!これはもうお姉さんに差し上げたものなので!」
「いつ差し上げてくれたんだっけ?!」

余りにも会話が成立しない中学3年生を前に、高野佳子は震え上がった。一歳違いの一人息子も、こんな風に会話が通じないのだろうかと。

「所でばーちゃん、さっきあっちに父ちゃんが居た様な気がするんだけど」
「あっちってどっちだい?」
「輪投げしてる時に森の中に見えた赤い建物の窓。ほら、あそこにちらっと見えるだろ?」
「70過ぎてるばーちゃんに、あんな小さい建物の窓なんか見えないよ」
「医者だろ?レーシングしろよ」
「レーシックだろ。何でもかんでも中途半端に聞き齧って、ろくに覚えやしない」
「ふっふーん、俺は大器挽回なんだょ」
「漫画ばっか読んでないで辞書を読めと言ってるだろ、この馬鹿孫!恥ずかしいったらありゃしない」

これほど無駄な恐怖が、かつてあっただろうか。
幼い頃からピアノに人生を捧げてきた40代女性は、遠くにちょびっと見える時計台を呆然と見つめながら、窓なんて見えないと呟いた。

「これが、ジェネレーションギャップ…っ」

アニソン界の女神と謳われているピアニストは、わなわなとラムネの瓶を握り締める。
育ちの良い彼女には、瓶の開け方が判らなかったからだ。

















『ぎゃんぎゃんぎゃんぎゃんピーチクパーチク』
「わ、わかった、つまり急患が居るんだな?」
『ぎゃんぎゃんぎゃんぎゃんピーチクパーチクくぇーっ』
「じ、じーちゃん、すぐに行くから説教より先に場所を教えてくれ!俺にだって色々あるんだから、もう!」

震える手で通話を切った瞬間、男の肩から一気に力が抜けた。この数分間で鼓膜の機能が著しく衰えた気がするが、気の所為ではない筈だ。
そもそも生まれた瞬間から茨の道を歩いている遠野総合病院現院長は、鬼と呼ばれる遠野一族で唯一の菩薩キャラでもある。ぎゃんぎゃん言われてもめげず、ピーチクパーチク聞こえても、何とか話を最後まで聞いてやる心優しい男だ。遠野一族らしからぬ押しの弱さと、優柔不断な所はあるが。

「…弱ったなぁ。それにしても、俺は何でこんな所で寝転がってたんだろう」

携帯電話をスラックスのポケットにしまい込みながら小声で呟いて、少しだけ開けたままだったドアの隙間から薄暗い部屋を一瞥し、そそくさと閉める。

「俺の気も知らないで、じーちゃんは相変わらずマイペースだな。大体、山奥の学校で緊急オペって何なんだ…?縫合程度ならともかく、15年以上術着に袖を通してない俺にどうしろってんだ」

我ながら院長とは思えない台詞を口にしていると、遠野直江は乾いた笑みを浮かべた。
仕方ないではないか、実力で選ばれた役職ではないのだ。幼い頃から父の跡を継ぐのは間違いなく姉の俊江だろうと思っていたのに、頑固な父親は何をとち狂ったのか俊江ではなく直江に継がせるとほざいた。正直な話、「冗談じゃない」と言うのが直江の本音である。何せ遠野龍一郎は、名実共に日本最高の外科医だった。比較される事など、直江が継ぐ前から明らかではないか。

「遠野も立花も長生きの家系だと思ってたのに、まさか親父があんなあっさり逝くとは思わなかった。…憎まれっ子は世に憚るんじゃないのか?」

健やかな寝息が聞こえてくる室内の照明機器は全て落とされていて、窓辺のカーテンもきっちり閉められていたのではっきり見えた訳ではないが、直江が転がっていた三人掛けのソファの向かい側には、東雲財閥の会長と思わしき男が足を組んだ姿で休んでいた。
覗き込む勇気など直江には勿論ないが、起きた理由が理由だっただけに、慌てて廊下へ駆け出た直江が再び部屋の中に戻る事はない。ベッドの上で布団に包まっていたのは、間違いなくこの部屋の主の帝王院隆子だろうし、ベッドの脇の椅子に座ったままベッドの上に上半身を預けていた背中は、東雲幸村の妻だろう。物腰は柔らかいが、昭和の肝っ玉母ちゃんと言う言葉がぴったりな女性だった。人生で一度も見た事はないが、俊江が猫を被ったら東雲栄子に似ているのではないだろうか。この二人が出逢えば意気投合しそうなのは間違いない。

「東雲さん達は親戚同士だから構わないにしても、部外者の俺が隆子奥様と一緒に寝てたら駄目だろう。駿河会長に顔向けが出来ないなぁ」

隆子の担当医は直江だが、手術医は榊雅尚外科部長だ。診察しか出来ない直江がこの場に残った所で、出来る事は「全く」なかった。つまり直江を叩き起してくれた旧世代の天才外科医、遠野夜刀の緊急招集と言う名の『命令』を無視する理由が、今の直江には一つもないと言う事に他ならない。けたたましく携帯を鳴らしてくれたお陰で、人様の部屋で寝転がると言う恐ろしい状態から抜け出せたものの、喚き散らしていた祖父の言葉には「刺さっている」だの「意識不明」だの、余り思い出したくない単語があった。寝起きで上手く働いていない頭で何とか返事はしたものの、医師免許がなければ逃げ出していただろう。

「秀隆兄さん、まだ居るかな?息抜きついでに出てきたのに、これじゃゆっくり話す時間もない」

重過ぎる足をよろよろと動かしつつ、校舎一階の保健室とは何処だろうと溜息を零した瞬間、ポーン!と軽快な音を発てたエレベーターが開いたので、直江は反射的に顔を上げた。

「あーっ、やっぱ父ちゃんじゃんかァ」
「…は?えっ、舜?お前はこんな所で何をやってるんだ?」
「外から見えた気がしたから走ってきたんだょ!ったく、何でこんなとこに居るんだ?一階でフロントの人が俺を不審者と間違えて警察に通報しそうだったんだぞ?」

直江の二人の息子の内、圧倒的な馬鹿度を誇る下の息子が駆け寄ってきた。相変わらず何処で買ったのか良く判らない某カップラーメン柄のTシャツに、自称ビンテージの汚れ腐ったジーンズ姿の息子は中学3年生だが、頭の中身が幼稚園児と大差ないからか、実年齢より幼く見える。

「通報って、大丈夫だったのか?!迷惑掛けたんじゃないだろうな?!」
「ばーちゃんが説明してるから大丈夫だって。兄貴が帰ってきてばーちゃんが和歌のチンコへし折るって言い出して荒ぶってたから、俺が連れてきたょ!」

どう言う事だと声にならない疑問に放心し掛けたが、今は考えない事にした。深く考えると迷宮に迷い込む羽目に陥るからだ。今現在、自分の家には、更年期障害の疑いがある妻とサイコパスの疑いがある長男の二人きり。事件が起きる気配しかしない。よって何も考えたくない。

「腹減ったから小遣い頂戴」
「おいおい、母さんを引っ張り出して何するつもりなんだお前は…。いや、お前がそんな事を考える訳ないか」
「ケチ、何で千円なんだよ。俺もう中3だぞ?」
「受験生が勉強日和の日曜日に、祖母引っ張り出して他校で遊んでるんじゃない」
「勉強が人生の全部じゃないって俊兄ちゃんが言ってた」
「鷹翼中学をオール5で卒業した俊君とお前には深い溝があるんだ。俺の言う事は聞かない癖に、俊君と秀隆兄さんの影響は受けるんだな」

親として子を貶したくないものだが、褒められる所と言えば嘘をつかない(つけない)所くらいしか心当たりがなかった。長男より扱い易い気がするだけで、思春期の男は何にせよ面倒臭いと言う事だ。

「父ちゃんは夜刀祖父さんに呼ばれてるから行かなきゃいけないけど、お前は母さんから離れず、大人しくしてろ」
「ばーちゃんが言ってたけど、母ちゃんの甥っ子が通ってるんだろ?挨拶とかしとかないでイイのかよ?」
「そんな話は初耳だぞ?甥って事は、東條本家か?」
「コッコーを売ってたとか何とか」
「骨董か」
「多分それ」

俊江が年中反抗期だっただけに、毎日トラブルを起こす姉の影で真面目な思春期を過ごした直江は、人生で誰かに逆らった記憶がない。今の妻にしたって、幼稚園から高校まで同じ学校だった幼馴染みと言う接点くらいしかなく、大学進学前に何故か向こうからアプローチされて付き合った結果、研修医になって間もなく子供が出来たので、慌てて籍を入れたに過ぎない。ハーフながら旧家の出である妻の実家は、今でこそ真面目な商売を営んでいるが元はその筋だった。日本最大組織と言われている光華会が関東を統一してから弱体化し、妻の祖父の代で足抜けしたらしい。学生時代は勉強漬けで世間知らずだった直江がそれを知ったのは、結婚後だった。

「高坂先輩から聞いた事があった様な…。東欧だか北欧だかのハーフだろう?」
「父ちゃんの嫁さんもハーフだろ」
「ノルウェーのクォーターな。お前には出なかったけど、和歌には隔世遺伝したよなぁ」
「兄貴は見た目が派手なだけで、黙ってると父ちゃんに似てるってばーちゃんが言ってたぞ」
「舜、携帯が鳴ってないか?」
「おう、三分に一回兄貴から掛かってきてるけど無視してる」
「俺はお前のその能天気さが羨ましくてしょうがない」
「父ちゃん…。もう千円くれたら俺が稽古つけてあげる☆」
「もう万札しかないから駄目だ。お前に福沢先生を持たせると事件が起こる」
「そんなに馬鹿だと思われてんの?!逆に自信になるょ!」

何故か胸を張っている息子の頭を無言で撫でた父親は、可哀想になって小銭入れをそっと手渡した。院内で勤務中に缶コーヒーを買う為の小銭だが、数十枚入っている筈だ。その重さに飛び跳ねて喜んでいた息子の遥か後方に、顔を顰めている母親の姿を見つけた。

「外から見えたって聞いた時は変な冗談だと思ったもんだけど、アンタそんな所で何をやってるんだい、直江」
「母さんこそ、一人で出掛けるなんて何年振りだよ?お陰で助かったけど…」
「何がだい?」
「話は後で。えっと、そちらさんは?」
「どうも、高野と申します」
「どうも、遠野です。母と息子がご迷惑お掛けしてませんか?」
「あの、つかぬことを伺う様で何ですけど…」

しゅばっとピアニストが広げたポスターに、母と息子がビシッと指差した。ぱちぱち瞬いた内科医は、真剣な表情の三人を順番に眺める。何が起きているのだろう。祖父が今頃ブチギレていそうな気がするが。

「「「これ、だーれだ?!」」」
「はぁ?これって、どれ………ん?あれ?何で秀隆兄さん…じゃない、俊が写ってるんだ?」

パパパン、とハイタッチを交わし合っている三人を前に、オタクの叔父は首を傾げた。
お陰様で、山田太陽の腹には未だナイフが刺さりっぱなしである。

←いやん(*)
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