帝王院高等学校
男なら一度は天下取ってみませんか?
「このまま日本で暮らす、と言う事かね?」
「Ja.(うん)」

久し振りに肉眼で焼き写した息子は少し背が伸びていて、最後に見た時とは髪型が違った。

「…君が私を快く思っていない事は知っているが、高野家は他人だ。幼い君にはそれがどう言う意味なのか、理解しきれていない」
「Ich war immer allein im Haus.(家に居る時も一人だった)」
「辛い思いをさせた事は私の落ち度だ。だがリヒト、今の屋敷に君の障害になる者は居ない。君の良い友人になってくれるだろう、双子のアンドロイドも手配しているのだよ。私は今後、長く家を開けないと誓おう」
「遅いんだよ、全部」

家の中に居ても潮風の匂いを感じるほどの小さな港町では、比較的新しい作りの家屋は洋風の造りで、ドイツの屋敷の本棚に何冊も整列している本の中に写る日本城の趣きなど、当然だが微塵もない。此処で息子がどんな生活をしているのか、判っているのは人伝の話ばかりだ。
この国が聖地でなければ、などと。内心どれほど歯痒さを感じていようと、幼い息子に悟られる訳には行かない。せめてもの矜持だ。何一つ守ってやる事が出来ず、己の子を自らの手で育む事さえ出来ない、惨めで浅はかで脆弱で矮小にして脆弱な男の。

「やり直しに遅いも早いもないだろう。私達は二人きりの家族だ」
「Ich wunschte, ich ware ein Fremder.(他人の方が良かった)」
「…誰かの入れ知恵かな?失礼だがあの家でドイツ語を理解しているのは、」
「クラウディア」

昔。と言っても、ほんの一年数ヶ月前までは。
仕事にかまけて妻子を蔑ろにしていた馬鹿な男が時折帰宅する度に、それでも彼らは文句の一つも言わず出迎えてくれた。世が世なら姫様だったかも知れない、などと笑い飛ばしながら言った妻が、結婚した後に覚えた趣味が日本の世界遺産にも数えられる建造物だった事からも、どれほどの憧れがあったか窺い知れるだろう。

「オレが、殺す、した」
「…」

彼女は日本語が苦手だった。たどたどしい日本語を口にする息子を見つめたまま、ふとそんな事を考える。
細菌研究で世に名を知らしめた藤倉斑鳩は、当時まだ一兵卒でしかなかった空軍の青年に何年も口説かれ続け、彼女の為に将校に上り詰めたアメリカ軍人の情熱に答えたと、まるで物語の様に語られている。二人の結婚は祝福の声の方が多かったものの、優秀な博士が日本人国籍だと騒いでいた愛国派も少なくはなかった。
人類が築いたあらゆる褒賞を取ると期待されていた天才研究者は結婚と同時に仕事を捨て、国籍を捨て、親から与えられた名前すらも捨てたそうだ。何事にも完璧に対応する彼女は、以降家の中で日本語を喋る事はなかっただろう。

「Guten Appetit(いっぱい食べろ)、オレ、言った」
「…ああ、覚えているよ。涼女が連れてきた白い毛並みのボルゾイ、あの子には可哀想な事をした」
「母ちゃん、死んだ。車、乗る、しなかった。ソーセージ食べたいって、言ったから」
「全て私の責任なのだよ。君に非はない」

一代で空軍将校としての名を馳せた父親に縛られ続け、楽しみと言う楽しみも知らなかった娘の心にささやかな希望を灯したのは、彼女の母親だけだった。いつの時代も、母親は子供の人格形成に絶大な影響を与えるものだ。

「Mir wurde gesagt, ich solle im Auto essen, aber ich habe mich nicht an mein Wort gehalten. Das ist der verdiente Strafe.(車に乗るまで待てって言われたのに、焼きたてを一本だけ頂戴って言ったから、バチが当たったんだ)」

生まれ育った国を捨てる決心をしたカミュー=エテルバルドさえ、今や電話をする事もろくにない療養中の母親が生きていると言う事実があるだけで、何処かそれを免罪符の様に感じている。爵位を捨てると電話口で告げた時、少女時代に歌手だったリリス=エテルバルドは歌う様に笑った。まるで悪戯好きなアイルランドの妖精の様に。

「Ich habe ihm sein Talent weggenommen. Es ist mein Fehler.(そして今度は才能を奪った。僕が悪いんだ)」

何を言えば、6歳を迎えたばかりの息子の新年に相応しい表情を与えてやれるのか。
いつか天才と呼ばれた己の頭脳を限界まで回転させても、会話の糸口は少しも見えやしない。それ所か、妻がまだ生きていた頃は時折帰宅すると下手な日本語で出迎えてくれたものだと、未練がましい事ばかりが脳裏をよぎる。

「ほんとは、何も、食べたくない」
「リヒト」
「でも、食べないと、じーちゃんばーちゃんが、困る顔をする。ケンゴがわざと変な事やって、叱られる」
「…そうか。彼は君を、いや、皆を気遣ってくれるのだね」
「Ja.」
「君は」

罪悪感があるのか、と。尋ねる前に言葉は消えた。
6年の人生の中で、自分がこの子の何年分を占めているのかと。思いついた瞬間に、出会ってからほんの半年の子供よりずっと少ないのではないかと思ってしまったからだ。少なくとも少し見ない間に、裕也の日本語は上達している。日常生活や子供同士の会話では使わない単語を、彼なりに一生懸命繋ぎ合わせているから、今の会話ではドイツ語の方が多いだけだ。ネイティブと生活しているだけ発音は圧倒的に上達してて、もう数年暮せばネイティブ同然に育つだろう。子供の物覚えは早い。ほんの数日見ないだけでも別人に変わる、と言う諺もある。

「もう一度聞かせてくれるかね。帝王院学園に通う事を決めたのは、君の意思なのだね?」
「Ja.」
「慣れない国で、慣れない人間に囲まれる事になる」
「判る。バイエルンと、一緒」
「…そんな台詞を覚えてしまうほど、アウグスブルクは地獄だったのか」
「年金の日、じーちゃんと電車、乗る。何もないけど、城の名前ついてるとこと、…あ。誕生日、皆で電車乗った。姫路城、クラウディアみたいだった」

たったの4年半。リヒト=エテルバルドのドイツでの記憶は、ほんの数ヶ月で日本の記憶で埋め尽くされた様だ。
辛い記憶と同じくらい幸せだった頃の記憶も残っている実家よりも、とても豪邸とは言えない狭い家の中で他人に囲まれた生活を選んだのだろう。

「じーちゃんとケンゴが、いっぱい写真撮った。ケンゴはばーちゃんのケータイで、じーちゃんより上手に撮るんだ。じーちゃんが買ったカメラ、ちょっとしか撮れなくて」
「そうか。楽しそうだね」
「寒かった。けど、雪、見てない」
「アウグスブルクはミュンヘンに次いで雪が多い地域だ。積雪を期待しているなら、今の時期は五稜郭が良いだろう」

この何気ない会話を交わすまで、何日経ったのか。妻を失ってからの一年は、一日が一年分に感じるほど長かった。
けれど、そんな言い訳が息子を孤独へ追いやった免罪符になる筈がない。この子は選んだのだ。何の役にも立たない父親ではなく、何の柵もない、赤の他人を。

「ケンゴはテトラポットの上で走れるのに、オレは、落ちる」
「随分、危ない遊びをしているのだね。元気が良い事は喜ばしいが、過ぎたやんちゃは困りものなのだよ」

そして、人の気持ちを推し量る様になった。少なくとも妻が亡くなったばかりの頃の裕也は、会話と言うコミュニケーションを失ってしまったかの様だったからだ。

「君が心静かに過ごせるなら、何処で暮らそうと私に異論はない。今更言える立場ではないと思うだろうが、けれど忘れない欲しい。離れていようと、私は君の父親なのだよ」
「…ん、判った」
「少し、日本語が能辯になった」
「のーべん?」
「上手になった、と、褒めているのだよ」

同居する様になった切っ掛けは喜ばしいものではないが、大人に囲まれて大人が望む音を奏でてきた稀代の天才奏者の影響である事は、今更疑いようがない。裏を返せば、裕也以上にあの少年は気を遣って生活していると言う事だ。無意識に他人に影響を与えてしまうほど、張り詰めて生きている。

まるで、まっさらな弦楽器の様に。

「…多少、気に掛かるが」
「?」
「いや、何でもないのだよ。親がなくとも子は育ち、過剰な庇護は老婆心ではなくお節介だろう」

死んでいたかも知れない事故から奇跡的に回復したばかりの子供に、この家は鳥籠なのか牢獄なのか。けれど他人でしかない自分が、余計な口を挟む義理も理由もない。

「いつの世も、若い天才は先達の言葉を聞かないものだ」

昔、大人達から皮肉を込めて送られた言葉を思い出した。



『リヒトは侍の血を引いているんだから、いつか一国一城の主になる』
『それはこの屋敷を継ぐのではなく、新しく建設すると言う事かね?少々難しいと思うのだよ、この辺りは古城が密集している』
『石頭カミューには判んねーか、男心がよ』
『私は男で君は女だと思っていたのだがね、生物学上は』
『人の手垢がついてない新品だから意味があるんだろ。親が敷いたレールを走るなんて、エキじゃねー』
『粋ではないのかね?』
『恋人に親父殺されて自殺する様な甘えた根性じゃ、森を走りながらガトリングガンをぶっ放せやしない』
『オフィーリアと軍人の君を比較するのは如何なものかな?』
『誰も踏み込んでないまっさらな大地に、旗を立てるんだ。アームストロングは偉大なキャプテンだった』
『アポロ11号が立てたのは星条旗だが、幾ら君でも、宇宙に家を構えろとは言わないだろう?』
『石頭め。こんな狭い地球の一体何処に人跡未踏の場所が残ってるんだ』
『地殻変動の度に何処かが沈み何処かが陸地になっている。紫外線から身を守るオゾンがない、大気圏外でなくとも』
『金星とか良いな。ヴィーナス一丁目、かっけー』
『待ち給え、それならジュピターも捨て難いのだよ』
『木星は城建てる地面がないだろ、阿呆かよ』
『急に常識的な事を言う。金星には酸素もなければ地球が危機を迎えている温暖化をとっくにマスターしている、灼熱の星なのだよ』
『お前には夢がねーのかよ。全く、困ったちゃんだぜ』

妻の泣いた姿など見た事もない。
だから彼女は最後の瞬間まで穏やかな表情だったのだろう。埋葬してしまう事を躊躇してしまうくらい、安らかな表情だった。
世界中の何処にも居ない事が今尚信じられないくらい、記憶の中で鮮やかな姿を保っている。

この瞬間ですら。


「リヒト」
「何?やっぱり、写真、見る?」
「そうだね。それは後でゆっくり見せて貰いたいものだが、一つだけ約束してくれるかな?」
「何を?」
「この国で生きる事を選んだのであれば、まず自分の名前を書く練習をしなさい。自覚していないかも知れないが、君はリヒトの綴りも時々間違えているのだよ」
「書ける。ほら、Licht Ettelbard(リヒト=エテルバルド)」
「…次は藤倉裕也と書いてみなさい。まず私が手本を見せよう」

親とは、子供を思う数だけ悩ましい。
何処までが教育で何処までがお節介なのか、その線引を間違える親は世界中に掃いて捨てるほど存在する筈だ。中央情報部のアーカイブを検索する必要もないだろう。

「ん。書いた」
「ああ、成程…」
「何?」
「君は少し…いやかなり、独特な字を書く様だ」
「また、褒めた?」

いつか大人を馬鹿にしていた悪魔と呼ばれた神童も、自らが大人になってしまえば、幼気な息子へストレートに『汚ぇ字だな、おい』などと指摘する事は出来なかった。



































さぁ、

「血液型はB型、遺伝子配列は黄色人種の平均を超えず…か」
「サブマスター、今のは新たな情報ですか?」
「医療班シャドウウィングのデータを傍受した」
「ああ、昨夜マスターが受けた勅命の…」

聖地の蹂躙を始めよう。足音も立てずに、ひっそりと。

「解析結果が出た訳ではないが、DNA配列は16年前にスコーピオで採取された毛髪サンプルに適合している。AB検体のものだ」
「スコーピオで採取された黒髪のサンプルは3名分でした。内、AB型の検体は二つ」
「一つは帝王院駿河のものと断定している。未確認検体はまず間違いなく帝王院秀皇のものだが、…どう言う事だろうな」
「サラ=フェインが保有していた幼児の毛髪はマジェスティのものではないと推定されます」
「あくまで推測の域を超えていない。我らが唯一神の血液型は、ある意味で地球の神秘だ。マスター曰く『中央情報部が解析出来ない唯一の謎』」
「ノヴァはO型、サラ=フェインはA型。シリウスシンフォニア2体共に、O型です」
「クライストとイブの血を分けたファースト卿がO型である様に、遺伝子が突然変異する可能性は極めて低い」
「その表現は訂正が必要かと」
「訂正しよう。一卵性双生児が異性である確率より多少、低い」
「常になく曖昧な言い方をなさるご様子」

これは聖戦だ。
ノア自らが幕を上げた、統率符と統率符の。

「適正な表現があれば教えて貰いたいものだ。ノアから預かった日本人男性の毛髪サンプルと、帝王院秀皇と思わしき毛髪及び帝王院駿河の毛髪による遺伝子情報は、近親の高い数値を示した」
「サンプルはこの学園の学生でしょう?」
「学籍登録名は遠野俊」

唯一神の忠実な従者はただのエキストラ、主役は聖地の何処かで息を潜めている。
ステルシリー、掛け金同然の社名のままに。

「戸籍謄本に記載されているのは父親のみだ。婚外子の片親は世界的に珍しくないが、母親の場合だろう?」
「一般論では」
「出生届に記載された遠野総合病院、担当医は遠野美沙」
「遠野のファミリーネームは日本ではポピュラーなんですね」
「一つ言えるのは、中央情報部アーカイブ日本人姓ランキング1000位以内には登録されていない」
「成程。偶然と呼ぶには奇跡的な確率」
「遠野俊、左席委員会現生徒会長。クラウンと対等の権利を与えられた、この学園の頂点の一人だ。統率符は天。通称天神と呼ばれる帝王院財閥関係者を差し置いて、外部入学生に相応しい言葉だと思うか?」
「マジェスティが直々に任命したと言う事は、そう言う事でしょう。口に出されないのであれば、推測の域だと」
「そうだろう。陛下は思慮深い方だ」
「遠野俊の遺伝子情報を調査しろと命じられた真意は、やはりその辺りが関係しているのでしょうか?」
「保護者氏名は遠野秀隆」
「ひでたか?」
「ナイトの統率符を与えられたクラウンマスターと同音異字、皇帝の皇ではなく隆盛の隆」
「おうではなくりゅう」
「そうだ、王ではなく龍。…円卓を思い出すだろう?星座が記された12柱の座席に囲われた最奥、ノアの玉座に刻まれているのは対の龍だ。キング=ノアが即位された日に誂えた椅子の肘置きは、左舷オリオンと右舷シリウスを模したものとされている」
「サブマスター、僭越ですが中央情報部教訓の復唱を」
「万物は球体、真理は円を描いている。森羅万象はローマの如く繋がり、些細な差はあれど、決して異ならない」

穏やかな国だ。季節が良いのか、山間部の奥には桜がまだ残っている。

「脳はデフラグが出来ません。先入観をリセットします」
「帝王院秀皇はノヴァに認められた。この事実は覆らない」
「ナイトの失踪により、帝王院秀皇の第一子として届け出がされていた子供は母親と共に中央区へ送られた。9歳で爵位を継承、15歳で来日。記録に誤りがなければ、ですが」
「サラ=フェインの遺品にあった毛髪と、マジェスティの毛髪は共に、サラとの血縁関係を否定されている。然し色素が少ない幼児の毛髪は、発見当初からナイトとの血縁関係が立証されていた」
「然し出産は事実です。医療班は代理母の線で調査を開始しましたが、シンフォニア検体アダムの遺伝子情報とも合致せず」
「正しくは、合致しなかった訳ではない。ルーク=ノアとレヴィ=ノヴァの配列は酷似していた」
「初代マジェスティの保存精子は採取年代が古く、アダム・イブの誕生に際して使い切られています。現在18歳であらせられるノアを誕生させる事は不可能でしょう」
「例えば、何処かに初代のサンプルが残っていたと仮定する。然しレヴィ=グレアムの遺伝子欠損は著しいものだ。現在の医療班ですらシンフォニアの成功率は低い。その上、サラ=フェインが保有していた幼児の毛髪からは、信じられない事にナイト=メアの遺伝子配列に共通する箇所が複数存在する」
「円卓唯一のランクS、初代組織内調査部長、ですか」

この平和は今日で終了する。
神が決めた掟を破り、神がそう定めたからだ。

「帝王院秀皇が円卓に見初められた最大の要因に、レヴィ=ノヴァに共通する複合血液があった。性質的にA型に近いRh-、1億人に一人存在するか否かの特異体質だ」
「当時の特別機動部は、帝王院秀皇の体質がマジェスティキングの延命に効果をもたらす可能性があると判断したと、サーバーに記載されています。奇しくも検体イブと年齢が近く、マスターネルヴァの魂胆は恐らく…」
「ナイトとイブの交配による子供が、キング=ノアのバックアップに相応しいのではないか、だろう。今でこそ大人しく秘書に甘んじているが、前特別機動部長の冷徹さは語り草だ。今でこそディアブロ卿の無慈悲さが目立つが、特別機動部と対外実働部に慈悲はない」
「キング=ノア時代は、毎年部員が殉死する部署だったと」
「それに比べれば、現在のステルスは易しいと思われているだろうな。元老院が度々勧告する通り、特別機動部のアンドロイド保有数は異常だ。対外実働部はほぼ機能していない」
「察するに、人員管轄部の反乱の目的は」
「マスターも恐らく、マジェスティが命じた調査に関わってくると推測している。真実を知るついでに、マスターサムニコフを揶揄いに出掛けられた」
「どちらがついでか、訂正が必要かと」
「自動演算では89%の確率でサムニコフ卿の泣き顔を肉眼保存する方が優先だと示されているが、11%もやる気があるなら褒められた域だ」

星の記録を残さず紡ぐ膨大な本であれ。書庫であれ。円盤であれ。歪み一つない、真円の。

「年中キーボード叩いているだけの12部署別運動不足ランキング一位の我ら中央情報部に、多忙ランキング3位の区画保全部長を押し倒せるものでしょうか」
「殺して剥製にする方が効率的だろう」
「自動演算では28%の確率を示しています。10%の確率で押し倒しモノにする、62%の確率で区画保全部長のシンフォニアを私的流用し引退。南極でペンギンとスキューバ生活を楽しむ」
「シアトル生まれのマスターは楽しいだろうが、マイアミ生まれのサムニコフ卿には酷な話だ」
「中央情報部AIはマスターエルドレッド=ノーマンの異常性を悔やんでいます」

正確ではない円周率を論破する、圧倒的静謐さを以て。

「ランクA任命権は、ランクSにしか許されない。組織内調査部がマスターを罷免するまでの辛抱だ」
「円卓が変わる方が早そうですが」
「爵位が移り変われば、有り得る話だろうが…案外それが目的か?」
「目的?人員管轄部の?」
「いいや、ノア本人だ」
「…まさか」
「今回命じられた遠野俊の父親が統率符を保有している男だとすれば、元老院は現男爵はルークではなくナイトであると指摘するだろう」

それこそが、中央情報部の存在証明だ。

「跡取りを持たない統率符ルークではなく、統率符ナイトの継承権が確実に上がる」
「はい。ランクS継承権の取り決めに、その表記があります。ノヴァに複数の後継者が存在する場合、直系尊属を持つ事が順位に影響すると」
「ノアが帝王院秀皇に刷り変われば、継承権は彼の子供に分配される。一位は戸籍謄本通り、帝王院神威」
「はい」
「但し、あくまで書類上の話だ。我がステルシリーは、帝王院秀皇と帝王院神威の血縁関係を科学的に否定している。そこで、帝王院秀皇にもう一人息子が居ると証明された場合」

記録係が舞台上に立つ事はない。けれどそれば傍観者限定の話だ。ランクA、ABSOLUTELYの中央情報部長は傍観を良しとしなかった。単なる私情か、ノアに命じられた任務を果たす為か。真実は彼の心の中だけに。記録として残せるものは常に、結果として残った歴史だけだ。

「演算するまでもなく、元老院の判断は確固たるものとなるだろう。つまりは今回、ノアからマスターが受け取った黒髪の持ち主が、正当な継承権を持つ事になる」
「一位継承権保有者は…」
「ステルシリー社訓に倣えば、未定のランクS。更に面白くなる魔法を掛けるとすれば、レヴィ=グレアムの継承権は3名に分配されていた」
「一位ナイン、二位オリオン、三位シリウス」
「事実上、キング=ノヴァに血の通う世継ぎはない。ルークの正当性が否定され、ナイトの正当性が肯定された上で、…継承権一位に浮かび上がった人物に、オリオン又はシリウスが関係している場合」
「どう言う事ですか?」
「人員管轄部が動かざる得ない理由の一つだ。帝王院財閥の創始者、大宮司帝王院俊秀の従兄に当たる冬月鶻と言う男の長男一家は火事で亡くなっている。オリオンとシリウスのデータベース開示は、中央情報部でもランクB以上の特権。知っているのは、私とマスターだけだ」
「サブマスターはどちらだと睨んでいるのですか?」
「可能性が高いのはオリオン」
「有り得ません!」
「シリウスには娘がいる」

人の感情は目に見えない。形として残らない。調べようがない。

「二度の妊娠では誕生せず、自殺行為としか思えない体外受精を経て、帝王切開で誕生した一人娘だ。母体の神崎遥は間もなく亡くなった。神崎糸織は32歳。現在15歳の遠野俊を産むには、少なくとも15歳で帝王院秀皇と出会っていなければ不可能だ。然し15歳の彼女がニューヨークを出る以前に、帝王院秀皇は失踪している」
「可能性は低いだけで0では」
「遠野病院現院長、遠野直江41歳には息子が二人。一歳違いの姉、俊江は独身」
「遠野美沙の血縁者ですか」
「前院長は遠野龍一郎。日本のみならず欧州でも名が知れた外科医だが、不可解な事に中央情報部のアーカイブには殆ど情報がない。まるで敢えて我々にだけ知られない様にしているか、何者かが削除しているのか」
「確かに、不可解ですね」
「特別機動部2代目マスター、コード:オリオンの日本名は冬月龍一郎だ。これを調べるまでに、我がマスターが十年懸かった」
「…」
「演算を試してみるか?」
「いえ、結構です。畏れながら、マジェスティルークはそこまで見越していると?」
「当然、そうなるだろう。オリオン卿の帰還を、元老院は60年待ち続けている。現在に至るまで伴侶を持たないキングの、唯一無二のメア。コードは、」
「ランクS、クロノスタシス」

心を読むテレパスの悪名がある心理学教授でもない限り、感情を前に科学は無力だ。

「我らノアの円卓は決して一枚岩ではなかったが、壊滅したと見るべきだろう。継承しないままのナイト=グレアム、伝説のランクSクロノスタシス=メア。更に神話とされるナイト=メア=グレアムの日本名は、全社員が知る通り、遠野夜人だ」
「…Single3名の血を引いている可能性が高い、トリプルスリーのルーキーですか。もう中央情報部に収まる話ではないのでは?」
「君の意見に強く賛同する。着目すべきは、左席委員会役員名簿だ。どう足掻いても目を逸らしたくなる名前が、少なくとも二つ」
「判りました。脳への記録を拒絶します」
「書紀に嵯峨崎佑壱、到底理解出来ない役職に藤倉裕也」
「…サブマスター、今の行為はパワーハラスメントに相当します」
「サードパーティーサーバーをミラーコピーし解析した結果、主成分が横暴と傲慢と暴虐だと言われ続けている対外実働部長が甲斐甲斐しく朝食を運び、主成分が冷酷と無慈悲と人の生き血だと言われ続けている吸血鬼の一人息子が殿と呼んでいる生徒の存在が判明した」
「Scheise, Alle Ding' sind Gift und nichts ohn! Der dummsten Bauern ernten der dicksten Kartoffeln!(クソッ、毒だって判ってるのに!馬鹿な奴ほどデカい獲物を欲しがるんだよな!)」
「君はフランクフルト出身だったな。我社の公用語は?」
「…日本語です。失礼、取り乱しました」

傍観者にも感情はある。徹底的に押し殺す教育を施されていようと、肉体は兵器ではないのだ。

「左席委員会会長はマスタークロノスと呼ばれる。君の彼に対する印象は?」
「恐ろしいの一言です」
「高等部一年Sクラス一番は、懲罰棟収容歴がある。懲罰棟はマスターディアブロの猟奇的な拷問趣味で改装されている様だが、彼は最下層の拘束具に繋がれ、自力で破壊したそうだ」
「…本当に人間ですか?」
「身体測定のデータを見るか?200kgまで測定出来る握力計を握り壊し、垂直跳びは176cmの体で415cm、50メートル走は眼鏡を両手で押えながら5秒後半」
「…金メダル獲得は不動でしょう」
「理事会が採点した入試結果はフルスコア。然しカリキュラム内での個別テストは軒並み0点」
「ただの馬鹿でしたか」
「全13教科の個別テストを異なる13の言語で回答し、教師が採点出来ず0点とされている」
「前言を直ちに訂正します。それはサイコパスです」
「強く賛同する」
「…推定知能指数を演算してみましょうか?」
「本人に回答する気がなければ結果は確定しない。入学初日に特別機動部長を回し蹴りした新入生を、君はどう対処する?」
「良く生きてるなぁ…」
「アーカイブによれば、マスタークロノスはファースト卿を『イチ』と呼んでいる。監視カメラ映像を目にしたマスターは微笑んで、『こりゃ近づいたら駄目な種族だ』と仰られた」
「同族嫌悪では」

この聖戦の舞台に必要なキャストは、余りにも限られている。


「君の無礼な物言いには多少思う所もあるが、強く、賛同する」

ルーク=フェイン=ノア=グレアムが対等と認めた、化け物だけだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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