帝王院高等学校
パパラッチより人の噂の方が怖いお年頃!
「ふふ。…神を冒涜した勇ましい人間は、やはり面白い真似をしますねぇ」
「…笑っているのか」
「この新聞が…ああ、枢機卿はまだ包帯が外せないんでしたねぇ。日本では、クライスト卿が愉快な大道芸を披露したそうですよ」
「ほう。この目で見られないのは残念だ」

此処には太陽は昇らない。
踊る様な風もなければ、飼育領域以外では虫も家畜も居ない。

「ファーストの病室に押し掛けてきた話は聞いてますが、親心でも芽生えたんでしょうか」
「クライストにその様な感情が芽生えた所で、あれが素直に受け入れるだろうか」
「シスター=テレジアが依然籠の鳥なのは変わらないのに、再婚会見を開いたそうですよ。それもハリウッドを拠点にしている女優と言う情報が公開されているにも関わらず、会見会場に相手は不在」

面白そうに笑う声は、鈴を転がすと言う表現が良く似合う。いつだって涼やかだ。
四季が巡らない中央区は、一年中過ごし易い温度で保たれている。未開発区域に一歩でも入れば凍える様な寒さを感じられる地面の下にあって、男爵が支配するセントラルだけは別世界だった。

「術後間もなく、ファーストが来た」
「存じ上げていますよ?枢機卿に振られて逃げていったあれは、対外実働部長に追跡されながらも逃げ延びた。勝負と言えるかは判りませんが、対外実働部とは思えないお粗末なミスですねぇ」

生まれ育った日本を離れたのは、もう随分昔の事の様に思える。
つい数ヶ月前の真夏に踏みしめた母国は、まるで見知らぬ異国の様だった。真紅の塔の様な時計台、正十二芒星が描かれている大きな円盤には幾つもの文字盤があり、羅針盤と見間違うばかり。
2年間暮らして、実物を見た事は一度だけ。時計台の外側は、内側からは見えないからだ。

「ほう、悪魔の末弟が失態を犯したと?」
「ファーストを取り逃がしたライオネル=レイは酷い怪我を負ったそうです。俺がリハビリがてら射撃場に通っていると言う話は覚えてらっしゃいますか?」
「ああ」
「先月、一時的に閉鎖されていました。区画保全部員と医療班のランクB社員が、複数名目撃されています。実戦経験の乏しいランクCなら理解しますが、普通BYSTANDERが立ち寄る場所ですかねぇ?」

名を取り上げられたかの様に、地下世界ではルーク=フェイン=グレアムと呼ばれている6歳の子供には、季節感覚がない。生まれ育った土地よりも地下生活が長くなるにつれて、色んな感覚が鈍っていく自覚がある。ほんの気紛れだった。
新たに知識として加わった、空飛ぶ車の性能が知りたかったのかも知れない。月が沈む方向へ追いかける様に夜のフライトを楽しんだ後、背中から追い掛けてくる太陽と共に出迎えた日本列島の季節は、夏だった。要約するとたったそれだけの話だ。地上に住まう大多数の人間には何の問題もない、誰もが快活に日差しの祝福を受ける季節が、ルークにとっては命の危険を齎しただけ。

「それは非公開情報だろう?私はこの部屋に籠もったままだが、雑音は何処からでも入ってくる。目を塞いでいる今は、より鮮明に」
「そう、ただでさえセントラルでも人の往来が少ない射撃場の一時的な閉鎖など、噂にもならない。中央情報部のアーカイブには、社員の事故として記載されています。詳しく調べれば誰なのかすぐに判りますが、日夜増えていく膨大なデータからピンポイントでそんな情報を知りたがる物好きは、普通居ない。ステルス社員は勤労揃いですから?」
「普通ではないそなたは無論、調べたのであろう?」
「本人は自らが招いた暴発と言っている様ですがねぇ。アビス=レイがこの記事に書かれている通りの行動に出たと言う事は、事実上、ファーストの犯行を認めていると勘繰られても仕方ないとは思いませんか?」

カサリと、乾いた紙の音がした。仄かなインクの匂い。これは新聞の匂いだ。

「妻を亡くして早5年、嵯峨崎財閥会長にして嵯峨崎航空代表取締役社長が再婚を発表しました。一介の実業家のプライベートで記者会見はやり過ぎな気がしますがねぇ、数年前からローカル局限定とは言え、バラエティー番組にも出演する様になった有名人です。前妻の急逝時には、財界の著名人に留まらず、地元の視聴者も弔問に訪れたほど」

季節感覚が失われるほど退屈な生活で、季節を運んでくるのはいつも、一匹の野良猫だった。
名前を与えて飼い慣らす様になっても、与えた部屋を彼が使う事はない。

『いつまでお父様と同じ部屋を使ってらっしゃるんですか?貴方はもう、乳離れしてらっしゃるんですよ』

何かの折に、中央区の誰もが恐れるキング=ノアの前で、子猫は宣った。同じ部屋と言うにはプライバシーが配慮されたルークの部屋は、それを期にノアと同じ屋敷ではあるが、別室に儲けられた。
その部屋に設えてある20畳ほどのクローゼットを、ネイキッドの名と共に部屋として与えたが、殆どベッドでは眠らない部屋の主の代わりに彼が勝手に使っている。初対面で寝込みを襲ってきた自称暗殺者にしては、警戒心が皆無と言うしかない。良い意味でも悪い意味でも、祭洋蘭と名乗った少年は自由だ。日本では叶二葉と名乗っていたが、どれが本名だなど尋ねる気にもならない。

「少し遅れて、クライスト枢機卿の母親の葬儀告別式も執り行われましたが、参列者はエアリアス=嵯峨崎の葬儀ほどではありませんでした。と、某掲示板に書かれてました。日本のアイアンメイデンと呼ばれた嵯峨崎可憐と言う方は、大層恨みを買っていた様ですねぇ。帝王院学園高等部在学時には、彼女に恨みを持っていた元社員が、嵯峨崎子息の誘拐未遂で逮捕されています」
「流石の情報量だ。つまり?」
「クライスト卿が再婚と同時にファーストを実子公表すれば、隠し子と思われかねないでしょうねぇ」
「私には問題があるとは思えんが」
「日本人は隣人の噂話が大好きなんですよ。悪い噂であればあるほど、食指が刺激されるもの」

全身に酷い火傷を負ったのは、夏の半ば。
皮膚と角膜の再生医療と立て続けに行い、気づけば秋が更けて冬を待つ今、ルークより一足先に治療を負えた黒猫は、特別機動部の監視がついていようが自由気儘に生活している。飼い主と揶揄されつつあるルークの病室に居ない時は、何処で何をしているのか。

「私にその趣味はないが、そなたにはあるのか?」
「枢機卿が生まれた日本は日本であって日本ではないのです」
「そうか」
「彼の妻が亡くなった時期と、女帝嵯峨崎可憐が亡くなった時期が重なると言うのは、世間の同情を買う重要な要素ですよ。嵯峨崎可憐が心を病み死んでしまうほど可愛がっていた嫁が亡くなって数年経つとは言え、長男と次男の年齢差はたったの4年半、学年にして5学年」
「そなたはあらゆる計算が早い。優秀な子猫だ」
「愉快ですねぇ…あ、小豆がシーツの上に零れちゃった。ごめんなさい殿下、もしかしたら医療班の誰かに、まるで大きい方をお漏らししたかの様に誤解されてしまうかも知れません。ですが白いものはいつか汚れてしまうものです。俺が悪いのではなく、宇治金時に粒餡を添えなければならないと定めた誰かが悪いのです」

先週までは射撃場に入り浸っていたと言っていたが、今日はかき氷器とブロックの氷を携えてやって来た。病室の中で、ゴリゴリと暫く響き渡った騒音を、ラジオを聞きながら耐え抜いた病室の主は、目元に巻かれた包帯と輪っか状のネットをそのままに、異様な甘い匂いに襲われている。
ベッドの主のすぐ近くでシャリシャリと音が響いているが、ベッドに腰掛けて新聞を開きながらかき氷を頬張っている、と言った状況で間違いない様だ。数ヶ月前に6歳を迎えたばかりの少年は、自分の分だけではなくルークの分の氷も削ってくれたそうだ。然し持参した宇治金時シロップが一人分しかないと言い放ち、氷だけ食べますか?と悪びれず宣った。丁重に断った途端、二葉は残念そうな声を零しつつも、ビューッとシロップをぶっ掛けて二杯目のかき氷を食べ始めたのである。一人分しかないのではなかったのか。

「エアリアス=嵯峨崎が亡くなったのは5年前、現在10歳の嵯峨崎零人と現在5歳の再婚相手の子供が本当に嵯峨崎嶺一の息子だとすれば…」
「妻が病床に伏せている間に不義を犯した、と。邪推する者は少なくない、で、合っているか?」
「そう言う事です。俺とファーストが同じ日に入院する羽目になった一件では、流石にこんな事まで考えてなかった筈なんですがねぇ。聖地在住とは言え、監視されている名目の対外実働部副部長の次男が、対外実働部長に向かって鉛玉を打ち込む様な真似をしてしまった。大人しくしていたクライスト卿がこんな手に出てしまうのも、状況を鑑みれば納得ですよ」
「ファーストの存在が目障りな人間が居る事は、既に証明された」
「まぁ、この僕ちゃんも同じくらい嫌われているみたいですが。やれやれ、モテる男は大変ですねぇ。気の休まる暇がない」
「私の首筋に触れている金属の質感は、スプーンではなくナイフで良いか?」
「今なら簡単に殺せそうなんですが、中央区の医療施設はセキュリティが尋常じゃなく固いので、流石の俺でも逃げ切る自信がないんですよねぇ…。ああ、残念」

ちらりと後ろを見遣った二葉は小型ナイフを静かに折りたたみ、すっとルークの布団の中に押し込んだ。戸口に張り付いている特別機動部員の職務は警護だが、実情は二人の監視だ。
6歳とは思えない恐るべき聡明さでランクBに任命されたルーク=フェイン=グレアムの、完全な独断による聖地入りは当然問題視されいて、二葉とファーストが入院騒ぎを起こしていなければ、元老院の審査会が開かれていただろう。然し複数の部署を巻き込む聖地での事件には、元老院も関わっているのではないかと疑心暗鬼になっている社員も多い。然し現状、2ヶ月以上経ってもキング=ノアは行動を起こさないままだ。唯一神たる男爵を差し置いて、糾弾する者が現れる事はなかった。少なくとも、表向きは。

「所で枢機卿、キスはしたことありますか?」
「ある」
「浮気ですよ。誰とですか?」
「父上だ」
「おや、ノアと?」
「あれは私の父ではない。蟲如きと私を同一に並べるな」
「では何処のパパとしたんですか。お金欲しさに体を売るなんて、」
「犬だ」
「はい?」
「ドーベルマンに似ていたが、雑種だろう。私が傍についていないと、道に迷う」
「何だかとってもミステリアス。知ってますか?謎を秘める男はモテるんですよ…?」

わざとらしく声を潜めた二葉は、ベッドの上へ乗り上がったらしい。ぎしりと軋む音と、シーツが沈む感覚は、視力を必要としなかった。

「つまり殿下はファーストキスの経験がないんですねぇ、お可哀想に。技術班が持ってくる夥しい数の目薬は、今の所どれも目立った結果は残せていない」
「特別機動部が勝手に私を病人扱いしているだけだ。生活に不自由しない程度には回復している」
「それもこれも、枢機卿がDNAの提供を拒んでいたからですよ。ランクB拝命時に素直に従っていれば、今頃特別製の目薬が出来ていたでしょうに。ああ、この無粋な医療用ネットはいつ外れるんでしょう」
「私が好んでつけているだけだ。医療班の治験に付き合う間、他人に顔を晒さずに済む」
「病室でお面を被るのはちょっとアレですもんねぇ」

全身に重度の火傷、視神経に影響を及ぼすほどの症状だった事で、グレアム一族に多いアルビノの中でも症状が重い事が判明したルークの身柄は、ほぼ完治した今でも病人扱いだ。手術を要した事で中央情報部はルーク=フェインのDNAを採取し、キング=ノアをベースに作られていた医療品をルーク水準で作り直している。
外の製薬会社が数年懸かりで行うものを、この数ヶ月で臨床段階まで運ぶ手腕は流石の一言だ。然し地上での効果が証明されなければ意味はなく、治験の名目での軟禁状態と言うのが現実だった。平和な筈の中央区で警護がつけられている事からも明らかだろう。

「そなたの指は鉄よりも冷たい」
「キスして欲しいですか?」
「いや」
「では、してあげます」

緑茶にしては甘ったるい匂いが鼻を擽った。唇に貼りついた二葉のものと思われる唇は異常に冷たく、ねっとり5秒ほど経って離れたかと思えば、目の前で盛大にくしゃみをぶっ掛けられたのだ。

「うわ、きったな」

鈴を転がす音がした。




































「見出しは、ハリウッド女優との電撃再婚!」
「…でも、こんな名前聞いてた事ないけどなぁ」
「馬鹿野郎、ブロードウェイだけでもピンからキリまで何万人居ると思ってんだ。ハリウッドなんざ見渡す限り全員何らかのスターみてぇなもんだよ」
「えぇ…?先輩、無茶苦茶なこと言ってません?」
「おら、さっさと事務所に戻るぞ!先に記事書き上げて刷りに回したもん勝ちだ!」
「はいはい、判ってますって」

雑音。と呼ぶには、この鼓膜は言葉を拾いすぎる。
文字を知らない獣よりは幾分マシなだけの人間は、地球上に存在するどの民族も大差ないらしい。世界が奏でる夥しい音の内、雑音に分類されるのは人間が生み出した音だ。などと、何の忖度もなく論文に書いた男を、ほんの刹那思い出した。


「…本物の馬鹿なんじゃねぇのか?」

いつもの胡散臭い笑みのない秘書を傍らに、壮絶なフラッシュに晒されながら会見会場を後にした男の、無駄に派手なゴールドのチャイナドレス。目の前に立たれれば否応なく視界を冒涜する密度が高いスパンコールは、外の人間が入ってこれない従業員通路の無機質な蛍光灯の下でも、その存在感を消していない。

「ンな真似をして、流石の元老院も黙っていねぇぞ」
「出来る限り布石は打っておいたもの。これだけ目立てば、ノアだって私を排除する事は容易ではないわよ」
「博打が過ぎるっつってんだよ。ステルスに不可能はねぇ。やろうと思えば事故に見せかけて始末する事だって、」
「ちょっと、何処に行くつもり?そっちは正面玄関よ」
「…先に言えファッキンジャップ」
「お生憎様。此処は日本で私は勿論日本人、そして此処は星条旗とは似ても似つかない日の丸を掲げる国よ」

曰くジュリセンなる派手な扇子で息子の頭を叩いてくれた嵯峨崎嶺一の一歩後ろを歩いていた秘書が、ブッと一瞬吹き出した。じろりと睨みつければ、わざとらしい仕草で眼鏡をお仕上げ、『どうしました?』と言わん表情で首を傾げている。

「…何がクリス=エアフィールドだ」
「あら、一人だけ逃げた癖に、しっかり聞いてたのね?」
「馬鹿が浅知恵振り絞った所で無駄なんだよ」
「説教臭い子。子供の癖に小言が好きなのねぇ」
「佑壱坊っちゃんはしっかり者ですねぇ」

殴りたくて堪らない。向こうは眼鏡を掛けていなければ、顔も嶺一の秘書とは全く似ていないのに、何故だろう。共通点を探す方が難しい筈のなのに、これが本能だと言うなら、理性が幾ら考えた所で正解を導き出せはしない。脊髄反射で正解を導き出せるのは理数系の特技だ、とまでは、流石に言わないけれど。

「赤出汁の味噌汁に向かって泥水なんか飲めるかと言ったあの頃を、小林は懐かしく思いますよ」
「コバック、それ昨日の話でしょうが」
「小林です」

小林守矢と言う人間を初めて見た時から、エアフィールド=グレアムの人見知りスキルは警鐘を鳴らしていた。全くの別人なのに、どうしても似ている気がしてならない。生理的嫌悪と一笑に付すには、背筋を這う嫌悪感のレベルは殺意に似ていた。唯一似ている気がするのは、喋り方だ。

「零人坊っちゃんは味噌おでんより、おでんに味噌ダレをつけて食べる方が好きなんです。特に大根が。あつあつの大根を、猫舌気味のお子様舌で召し上がるんですよ。熱いのに我慢しちゃって…ふぅ。この小林、思い出すだに母性本能が昂りますねぇ。佑壱坊っちゃん、どうぞ遠慮なくこの小林を母と思って下さいませ」
「備わってなきゃ可笑しい父性本能も芽生えなかった奴が、何言ってんのよ。この子の母親はクリスだけよ」
「社長、選択権は佑壱坊っちゃんにあるんですよ。子供は親の持ち物ではありません」

柔らかい口調と言えば聞こえは良いが、ねっとりした物言い、特にわざとらしい語尾が癇に障る。言っている事は一見正論の様に思えるが、それが本音かどうかが疑わしい。

「今日の事にしても、何も知らない坊っちゃんを騙し討ちの様に連れてくるのは反対でした。第一、坊っちゃんはまだご自分の名前が書けないんですよ?」
「書けるわ、ぶん殴るぞハゲ」
「この子の日本語能力は日本語検定一級水準だって、非公式とは言え認められてんのよ。言語学に関しては、ゼロは勿論、私もアンタも逆立ちしたってこの子には勝てやしないわよ」

今日の緊急記者会見にしても、何一つ知らされていなかった。二度と帰らないつもりで飛び出した中央区に残してきたものは、男爵家との繋がりを示すエアフィールドの名前だけ。統率符は初めから持っていない。
来日して真っ先に駆けつけてきたのは嶺一で、飛び出したまでは良いが行く所など何処にもなかった5歳の子供に、嵯峨崎佑壱と言う名前を用意していたのも、彼だった。真夏の雷雨明けに一週間も入院する羽目になった佑壱を毎日訪ねてきたのも、何度来るなと言っても聞かず、何度呼ぶなと言っても佑壱と呼び続けた女装男が。あの生気がない、幽霊の様な表情のクリスティーナ=グレアムが神である兄男爵に逆らってでも思い続けている、たった一人の人間らしい。

『…愚かな子。夢や希望を抱くのはお前の自由だが、それはいつか自分の心を死なせるだろう、猛毒だ』
『テメーと一緒にするんじゃねぇ、クソババア』
『お前は何処へも行けやしない。お前の内に流れる時限爆弾が、お前とセントラルを繋ぎ止めている限りは』

血液は、酸素に触れる前から錆びている。死んだ鉄の色だ。
いつからだろう。口の中が錆びている気がする。口でなければその奥だ。理由は知らない。完熟した柘榴より濃い、肉も骨も汚染する様な鼻につく匂い。目を閉じると強く感じる。コーヒーを飲んでいる時だけは安心する。眠る様に死んでいった盲目の女が、食事よりも好んでいた色のないコーヒーを思い出した。焙煎された豆を挽く事も知らなかった2歳の子供を、天才だ天才だと褒め続けた、寂しい老婆の事だ。

「…上が上なら、秘書も例に漏れず馬鹿だな」
「あーら、お生憎様。その馬鹿の血は、アンタにもしっかり流れてるのよ。この髪なんかが良い証拠ね」
「俺に触んな」
「イ・ヤ」

扇子を秘書に投げつけた嶺一の手が、わしわしと佑壱の髪を撫でる。撫でているのか揉んでいるのか、或いはその両方か。ぐしゃぐしゃに掻き乱されていく髪の感触に、佑壱は父親の手を振り払った。
容赦なく殺すぞと睨んでやったが、ずっと高い位置にある嶺一の真紅の双眸は笑っている。この目が嫌いだ。思い出したくないのに、あの真っ白な生き物を思い出させる。黒羊と呼ばれている、あの真っ白な生き物の目だけが、紅い。

「テメーの鬱陶しさはネイキッドと良い勝負だ。馬鹿がつまんねぇ画策した所で、ババアが外に出てくる事は絶対に有り得ねぇ」

最後にノアを見たのはいつだったか。佑壱は滅多に対面する事のない伯父の顔を思い出そうとしたが、思い浮かんだのは白銀の仮面だった。
ああ、未練がましい。自己嫌悪は絶望的な殺意を滲ませた。自分に憤ってみても何ら意味を為さない。外に出る自由を与えられていても、外に出るだけで全身に大火傷を負う様な生き物も居る。それだけの事だ。立場上従兄弟同士だからと言って、肌の色も違えば目の色も異なる佑壱は、日焼けで苦しむ事もなかった。

「俺を人質にした気分にさせたんだったら悪かったな。俺にゃ、そんな価値はねぇんだよ」

初めての来日の記憶の大半は病室生活で、人生初めての高熱で寝込んでいる間に、ルーク=フェイン=グレアムは強制送還を食らっていたのだ。あの寒気がするほど綺麗な顔に傷を負ったと言う、ネイキッド=ヴォルフ=ディアブロと共に。

「やぁねぇ、毛も生えてない癖に大人ぶっちゃって、捻くれた子」
「テメ、何処触ってやがる?!」
「さっきだって、私はアンタも一緒に出て欲しかったのに」
「前屈みで目ぇおぴろげてた、精神異常者軍団の前に出ろってか。…この俺に!」
「そう言ってるのよ、この俺様馬鹿息子に」
「俺が馬鹿だと?!」
「自分で言ったんじゃない。私が馬鹿なら、アンタも漏れなく連帯保証つきのお馬鹿ちゃんよ。どぉ、嬉しいでしょう?」
「シね」

嵯峨崎財閥と付き合いが長い、市内でも古くからあるホテルの従業員は、今回の会見に快く協力してくれた様だ。通常、外部の人間に使わせない従業員通路の先、同じく従業員専用の地下駐車場で待機されていたのはフルスモークのワンボックスカーだった。演出の一部なのか、単なる整備不良なのか、車体には所々擦り傷が見られる。

「口が悪い子。最近反抗期振ってるゼロにも頭痛めてるってのに、5歳離れてる筈のアンタの方がやさぐれてるって、どう言う事よ」
「はっ。苦労知らずのお坊ちゃんと見比べて頂けるなんざ、光栄の極みだな」
「…アンタ本当にチェリーなのよね」
「誰がさくらんぼだって?」
「ああ、うん、そうね。ちゃんとお子様みたいで安心したわ」
「何言ってんだか。男の癖に化粧なんざしやがって、臭ぇんだよテメーは」
「加齢臭より良いでしょ。短い足で一生懸命ついてきちゃって、抱っこして欲しいんだったら素直におねだりしたらどう?」
「You are just talking airhead.(寝言は寝て言え馬鹿野郎)」

カツンカツンと軽快に響いているのは嶺一のピンヒールだろう。履いた事はないが歩き難くはないのかと思わなくもないが、口にはしない。
急に同居する事になっただけの他人の範疇、まだ嶺一はそこに居る。第三者から見ればポンポン軽口を叩いている様に見えたとしても、自尊心の塊が息をしている様な佑壱にとって嵯峨崎嶺一と言う男は、弱みを握られている一人以外の何者でもなかった。少なくとも今、彼の存在がなければ佑壱の居場所は何処にもない。自分から助けてくれと頼んだ訳ではなかったが、逃げる様に飛び乗った飛行機を降りて最初に嶺一の姿を見つけた時、佑壱は逃げなかった。あの時一瞬、何処かほっとした様な気になった事は、墓場まで持っていかねばなるまい。

「ネバダで言語学客員教授を任されていました、ボクはこの通り天才です、どうか精神異常者の皆さん可愛がって下さい。…くらい言えたら、拍手してあげたわよ?」
「テメーも異常だ。流石、アビスに落とされずして未だ生き延びてる犯罪者ってか」
「褒め言葉として受け取っておくわ。それよりアンタ、この後ちょっとしたパーティーがあるからそれには絶対に参加しなさいよ」
「やなこった」

隠しきれない経年劣化=ポンコツ車と呼ぶに相応しい車体の側面に『モーリヤンクリーンサービス』と刻印されている。
つかつかと先に歩いていった嵯峨崎航空秘書室長が、油が切れているのか錆びているのか、自棄に重そうな後部座席のドアをギギギと開ける様子を見守った佑壱は、小林秘書が振り返る前に車内へ飛び乗った。

「身内の集まりみたいなもんよ。今日まで内緒にしてたアンタを社員にも紹介しておきたいから、絶対!出なさい!」
「サンフランシスコの湾の下の崩落寸前の地下空洞で、林檎もまともに剥けない女から生まれました。父親の存在を知らされたのは、対外実働部のシャドウウィングを盗んで来日した後、ボクはこの通り可哀想な幼児です。どうか日本の皆さん、ボクが日本語が判らない可哀想な子供でも見捨てないで下さい」
「くすくす」
「何笑ってんのよ腹黒眼鏡」
「小林です」

チャイナドレスの上にジッパータイプのカジュアルなジャンパーを羽織った嶺一は、一纏めにしている長い髪を隠す様にキャップを被って、野暮ったい眼鏡を掛けている。運転席に回ってジャケットを脱いだ秘書も嶺一と同じジャンパーを羽織りファスナーを上げると、眼鏡をサングラスに変えていた。小林はともかく、嶺一の下半身は太ももの付け根まで豪快にスリットが入っている、ドレス姿そのままだ。助手席に座れば外からは見えないとは言え、何故急に秘書とじゃんけんを始めたのかは謎だ。
グーで負けた悔しそうな嶺一に対し、パーで勝利した秘書はサングラスの下でニヤリと笑い、運転席へ乗り込んだ。

「では佑壱坊っちゃんは決して窓の外に身を乗り出さず、この小林守矢の丁寧なハンドル捌きに揺られながら、久屋大通の景観をお楽しみ下さい。屋敷に戻っても、この小林が良いと言うまでドアを開けてはいけませんよ。ああ、チャイルドロック搭載車なので開けようと思っても開きませんがねぇ」
「…何がチャイルドロックよ。廃車寸前のポンコツじゃない」
「黒塗りのメルセデスが従業員通路から出てきたら、正体を明かしている様なものでしょう?しつこいパパラッチの光る目を騙すには、労を惜しんではなりません。では会長、助手の役割なんか出来ないでしょうが、助手席へどうぞ。何せ貴方は廃車に乗る敗者」
「つまんねぇギャグ抜かしてんじゃね…こほん、つまらない親父ギャグから加齢臭がしてるわよ、コバック」
「社長、とうとう認知症ですか?貴方達親子の命とハンドルを握るこの私は、何を隠そうモーリヤンクリーンサービスの幽霊社長、小林ですよ」

走り出した車内、後部座席のシートの上に寝転んだ佑壱は、暫しの沈黙の末にとうとう口を開いた。耐えられなかったからだ。

「幽霊社長って何だ」
「存在しない会社の存在しない役職の事よ。アンタも見たでしょ、この車に書いてあった胡散臭いロゴ」
「モーリヤン何とかってのか、あれが何だってんだ」
「お父様と違って若さが溢れてらっしゃる佑壱坊っちゃんは、当然、この小林の名前をご存知ですよねぇ?」

聞いた自分が馬鹿だった。
嵯峨崎佑壱はこの日、自己嫌悪は殺意では消せない事を幼心で理解し、狸寝入りを覚えた。

「関西出身の癖に、アンタのギャグって昔から全然面白くないわ」
「勢いだけの大阪人と一緒にされては困りますねぇ。京都と大阪は決して交わらない、北極と南極ほどの違いがあるのです」
「寒いって点では一緒じゃないのよ。暖房つけるわよ」
「乗車前からつけてますよ、何故かちっとも効いていない様ですが。何せ300円で引き取ってきた骨董品ですので、後で廃車屋に引き渡してきます」
「300円?!」
「ええ、今日のガソリン代です。車両本体価格はタダでした」
「アンタって奴は…!」
「ハンドルが重いですねぇ。ギアもローから切り換わる気がしない」
「ちょ、止めなさいよ!私と佑壱を殺す気なの?!」
「大丈夫ですよ、車検は通ってます。明日で切れますがねぇ。ふふふ。ほぅら、もうすぐ左折です。私達は曲がりきれるでしょうか…?」

聞くつもりがなくとも聞こえてくる会話で、佑壱は初めて嶺一に同情を覚えた。今日は色んな事を覚える日だ。
自分の意志ではどうにもならない生理的嫌悪を克服するのは、どうも割り算より難しい。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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