帝王院高等学校
この容赦ない人生に試練を
「いらっしゃい」
「…」
「今夜は綺麗な満月だねー、先輩」

丸い、円い。
真円の月はまるでそこだけ時が止まっているかの様で、明るい夜なのに寂しさを散らしている様にも思えた。

「俺とは違った意味で罪深い名前を与えられたお前さんは、俺の声に抵抗していたね。こんなにしつこく逃げ回るなんて思わなかったよ。本当、蛇みたい」
「…」
「あはは、好きに喋って良いんだよ?お前さんが俺に気づいていた事は、とっくに知ってるんだ。俺があの子に子守唄を聞かせてあげている時、いつも恨めしそうな顔で盗み見してただろ」

オフホワイトのそれは、高等部の証。
満月の下でも黒に溶けてしまうネイビーグレーとは違って、来訪者が纏うくすんだ白は、月光に照らされて浮かび上がって見えた。

「…人のものを欲しがる奴は最低だ」
「ふーん?」
「家族を簡単に捨てられる人間には、いつか必ず天罰が下る」
「はは、榛原の呪いを知っているのかい。その台詞は山田大志が生前、榛原晴空に投げかけたものだよ」
「お前には必ず天罰が下る」
「誰をお前呼ばわりしているのかな、羽柴君」
「俺は違…っ」
「結果論で語ろうよ。最後まで家族を捨てられなかった山田大志は、弟と甥に会社を奪われた。何が違うんだい?」
「榛原を終わらせたのは、羽柴じゃない!」
「ああ、名字なんてどうでもいいんだよ。宍戸が灰原を名乗ろうと、榛原が山田に変わろうと、俺が当代宵の宮だって事は変わんないんだからさ」

この茶番劇に観客の姿はなかった。

「それとも、神坂を名乗らなかった伊賀の残党が十口に吸収された後に名乗った宍戸が未だに、同じ年に生まれた一族に同じ名前を名乗らせる事も知っているのかい?お前さん如きが知る訳ないか」

膝の上で眠る少年は決して目覚めず、素敵な夢の虜。
その眠りはいつも浅い。彼が欲しがるたった一つのものは、いつか神の子と呼ばれていた。天神の血がそうさせるのか。自由な小鳥だった帝王院雲雀の眷属だと証明されれば、この体には叶芙蓉の血が流れていても不思議ではない。

「見放された忍者の一族は昔、同じ年に生まれた全員が全く同じ名前を名乗った。俺は太陽、弟は夕陽。少なくとも俺に名づけたのは父親じゃないんだよ。榛原の事なんて何も知らない母親でもない」

完璧な脚本に取り憑かれている親王は口を閉ざしたまま、踊り子の前をし続ける。
彼はまだ、学園の舞台には立っていない。帝王院雲雀と同じ様に消えてしまった帝王院秀皇には、帝王院鳳凰の様な弟は居ないのだ。
血が繋がらない義弟は榛原でも帝王院でもなく山田を名乗り、現灰原の立場で世間を欺き続けるだけ。それを皇子が望む限り、欺瞞を開放してやれる人間は居ない。

「宮様が俺の名付け親なんだ。なのに宮様は、虎じゃなく龍に首輪をつけた。虎。ふふ。虎だって。俺は最近知ったんだよ。龍の背中には翼が生えていて、獅子の背中には阿修羅が居座っているんだってさ。獅子の王子様の父親には、虎が刻まれている」
「…」
「お前さんには判らないだろうね。判るもんか。俺は本能で気づいたんだ。同じ匂いがするんだよ、日差しが強い夏場だと特に強く感じたんだろうね。サッカーボールを蹴るキラキラしたそれに、俺はきっと嫉妬したんだ。蝉にもなれない猫如きが、天神より輝くなんて烏滸がましい真似が許される筈がない」

灰原はとっくに移り変わった。
山田太陽に命令する事が出来るのはこの世でたった一人だけ。天神だけ。帝王院駿河はきっと一生、その権利を行使する事はないだろう。彼は空蝉を開放した鳳凰の一人息子なのだから。

「この子の名前は『光』、リヒト。俺と凄く似てるよね?あはは、そんな責める目で見ないでおくれよ。俺が悪者みたいじゃない?」
「その人から手を離せ」
「この子に同情しているのかい?家族を大切にしたいって思ってるのは判るけど、藤倉君はお前さんの家族なんかじゃないだろ?」
「っ」

眠り子の体内には、その名に相応しい光の血が流れているのだろうか。

「俺には同じ日に生まれた弟が居るよ。空を名乗る榛原で、俺達双子は異端なんだ。だってそうだろ?空と天は似て非なる存在なのに、俺は天そのものを名付けられてしまった」

例えば榛原でも宍戸でもない自分の体内にも、この名に相応しい血が流れているのか?

「でもそんな事は良くあるもんだよ。弱っちい雲隠が一番を名乗る事だってあるんだし、鬼に忠誠を誓いたがるお前さんみたいな奴だっている。羽柴会長は山田大志が残した唯一の恥だったけど、甥の方はそうでもなかったらしいよ?尊敬する伯父さんが興した会社が、孫の代で潰れるのが耐えられなかったんだ」
「………ちまえ」
「羽柴大和、君の父親は山田会長に憧れてやまない甥が満を持して名付けた、期待の長男だったのにねー。榛原優大は甘ったれで、身内の裏切りに気づかなかったけど人望はあったから、YMDを救う為に衰退の道を転がってしまったのはまるっきり羽柴一族の所為って事だね」
「…消えちまえ」
「藤倉君の髪を切ってあげた事があるんだって?染めてあげた事もあるんだってね。この子と話をしてるとね、高野君の次にお前さんの名前が出るよ。大河君の名前はあんまり出ない。罪悪感があるのかな?自分の母親の所為で、大河君のお母さんは死んでしまったって」
「お前なんかどっかに消えちまえ」
「去年似た様な事を言われたんだよ」

満月。
真円の月は深淵を覗かせる。クロノスタシスだ。切り取られた一瞬が永遠に続く様な感覚、これは虚無に良く似ている。

「シノ先生の方から俺に近づいてきたのにさ、眼鏡を掛けた執事さんがわざわざ挨拶に来てくれた。何だっけ?あ、そうだ、有村?兄を裏切った羽柴会長の愛人の子。繰り返す様だけど、お前さんの祖父は俺の祖父から会社を奪った羽柴会長の長男。君から見れば再従兄弟になるのかな?」
「煩ぇ」
「羽柴大和。自分の父親に嫌気が差して、愛人の子でありながら長男なのに家を捨てたんだ。派手にグレて暴れまわってたんだって?暴走族のトップなんて、かっこいいお父さんだねー、竹林倭先輩」
「手を離しやがれって言ってんだよ、クソ野郎」
「強がったって無駄だよ。お前さんは犬にも蝉にもなれやしない。有村…公家東雲家に500年以上仕えている信州の宮司は、最近まで本家の嫡男に子供が居なかった。勿論知ってるよね?東雲財閥の執事長の事だよ」

新月の夜、山田太陽と言うこの体は外に出ない。
プログラムされたロボットの様に決まった行動を繰り返す。例えばそう、明るくなるまでゲームをやめないだとか。たったそれだけの防衛手段。
元ルームメイトに襲われた日も、月がない夜だった。

「俺はね、結構何でも知ってるんだ。例えばそう、藤倉君の体に流れている血は吸血鬼と天神のものだとか」
「!」
「お前さんが8歳の時に宮様と出会っていただとか。お前さんのお母さんは、宮様のお母さんと同級生だとか」
「…」
「実の姉から向けられる愛情に怯えて家に帰れなかった弱虫が、好きな人の為に逃げる事をやめただとか」

灰原の証が消える日。晦の夜。光が存在しない新月の夜。
純黒の呪いが降り掛かる夜は、灰原はこの世から消えてしまう。呪い。それが交換条件。歌う事が出来ない蝉。何の役にも立たない、ただの中学生。今夜が終われば明日から、また月が満ちるまで。

「その所為で大事なものを傷つけちゃ、笑うに笑えないよねー?あはは。俺は好きだなー、そう言う絶望に負けて堪るかって感じの、目」
「悪趣味振り翳してんじゃねぇ!失せろ気違い野郎が!」
「口が悪いね。俺は誰も傷つけちゃいないよ?勘違いしないでくれるかい、竹林先輩。藤倉君が死ねずに生きてるのは俺の所為じゃない。高野君は藤倉君の気持ちを蔑ろにしてるんじゃない、まともな道を示してるだけ。高野君に言われるまま従ってるのはこの子だよ?俺がやれって命令したと思ってるのかい?」
「っ、煩いっつってんだよ!知った様な事抜かしてんじゃ、」
「藤倉君はね、毎回振られるんだ」

この世で自分だけが悲劇のヒロインなのかも知れない。
何の力も持たない有象無象がシーザーの犬を気取っているのに、自分が名乗っているのは個体を示す名前だけなんて。

「そうなる様に仕向けてみたって、毎回成功するのは変じゃないかい?こんな話があるんだって。藤倉君の彼女はいつも、美容師の男と浮気して去っていくんだ・って」

ああ、そう。その目だ。
絶望を受け入れた瞬間の、その仄暗い眼差し。それが何より好きで堪らない。この瞬間、世界で一番可哀想なのは自分ではないのだと実感する事が出来る。

「お前さんはいい子だね。自分を犠牲にしてでも藤倉君を助けてあげるんだ」
「お、れは」
「松木先輩の事は助けてあげなかった癖に」
「っ」
「小さく丸まって、見ないふりでもしたのかい?」
「俺は…!」
「『自分の所為で誰かが犠牲になるなんて想像もしてなかった』」
「う」
「『助けるつもりが傷つけてしまうなんて、思いもしなかったんだ』」

ああ。山田太陽の時には感じない仄暗い感情が、明るい月夜に限って沸き起こる。
榛原太陽は何かに魂を喰われたのだろう。救いを求めたいつか、あの嵐の夜に自分は、唯一の神を見間違えてしまったのだ。何に救いを求めたのか、今となっては思い出せもしない。

「あはは。明神じゃなくても判るもんだねー、余程甘やかされてるのかな。羨ましいね、カルマの犬。」

解放を願うのであれば、条件を満たすしかない事は知っている。決して手が届く筈のない『天』から、殴られれば良いらしい。成功確率は何割だ?

「そっか、お前さんは犬になりたかったんだね。宮様だけの犬。きっと龍の欲望に同調してしまったんだ。強い雄に従いたいと思うのは、何も雌だけじゃない。それが空蝉の正解だよ。お前さんは何も間違ってない」
「…」
「弟に欲情する姉が間違ってるんだ。弟の友人に嫉妬して襲ってしまった姉が間違ってるんだ。お前さんは何も間違ってないんだよ。そして高野君も藤倉君も、誰も間違ってない」

満月。その強い光はまるで、昼日中の太陽を思わせる。
神はこれを美しいと言った。けれど自分はそうは思わない。金色よりも黒に囚われたからだろうか。
あの遠い夏の日、翠と蒼の瞳を長い前髪で隠していた。あれより美しいものを見た事がない。あの瞳の片方は、自分の所為でなくなってしまったらしい。罪深い事だ。簡単に許されない意味が判る。誰よりも自分が一番、自分を許しはしない。

「なのに現実はめちゃくちゃだ。絡まった糸は戻せても、混ざった絵の具は元には戻せない。夥しい数の色を塗り固めても、黒にはなれやしない」

山田太陽は榛原太陽を断罪する為に存在している。
何の力もない子供が、灰原の足枷になっている。忘れてしまっている癖に、彼の瞳に映る自分は自分ではない。約束を、あの日の全てを、何も覚えていない山田太陽を。彼はどう思ったのか。
麗しい宵の宮、宵月閣下の見る世界は偽りだらけ。脆弱な十口でありながら、世界最高の権力を手に入れた彼の王は自分じゃない。異国の皇帝。
庶民では近寄る事も出来ない天神とは真逆に、深い深い大地の内側に巣食っているもう一人の神様らしい。

「宰庄司、か。梅森先輩のお祖父さんは宰庄司本家の末っ子だった。勿論お前さんはそんな事知らなかっただろうけど、帝王院秀之の義理の甥って訳だ。…いいね、悲劇的なお前さん達を纏めてくれるにはぴったりな人が現れた。運命みたいじゃないかい?」
「…」
「待ってるんだろ?空を飛べない蛇を助けてくれる神様が現れる事を、ずっと」

そしてその皇帝は、宮様の名を奪ったそうだ。
過ちなどある筈もない帝王院に齎された、唯一最悪の間違いが起きてしまった。
冬月龍一郎。月の宮を名乗れない裏切り者が、異国の神に従ってしまったからだ。冬月は帝王院に崩壊を招いてしまった。罪は裁かれなければならない。

「俺もそうだ。待ってるんだ。宮様から名を奪い、俺からあの子を奪い、天神の椅子を奪おうとしている異物の裁きを」

帝王院舞子を殺した加賀城瑞穂が裁きを受けた様に、中央委員会の王冠を剥奪した異国の蟲を。

「でもそれは、お前さんの業じゃない。とても良く似ているけれど、お前さんの執着は偽物だ。俺を騙す為に周到に用意された、試練の一つに過ぎないんだよ」
「さっきから何言ってんだよ、お前…」
「俺を正解から遠ざける為に、意地悪な宮様は沢山嘘を用意したんだ。可哀想に、お前さんは結局、俊が操る駒の一つだった」
「お前があの人を気安く呼ぶな!」
跪けと言わないと理解しないのか、下等生物が
「…っ!」

開幕のファンファーレはいつ始まる?

「空蝉でも十口でもないミミズの一匹如きが、皇を率いる白虎宵の宮をお前と呼ぶんじゃない。例え龍神だろうが許されない事だよ。俺を従える事が許されるのは、天神だけだ」

この酷くつまらない空虚な毎日を、あと何度繰り返せば幕は上がるのか。

「あーあ。立ち上がる事も出来ない癖に、反抗的な目はそのまんまなんて興奮するね。O型は自己顕示欲が強くていけない。世の中ってもんはもっと単純で、想像を絶するくらい複雑なもんだよ」
「く、そ野郎…!」
「犬に興味はないよ。俺は子猫の様に可愛い狼が欲しい。今はまだ満月の夜にしか出てこれないけど、いつか俺は本当の俺に戻った時に、あの時と同じ台詞を歌うんだ」

神よ。
羅針盤は止まったままだ。
この体の内側で、魂は次元に囚われたまま、眠っている。


開放を。
容赦を。
崩壊を。
終焉を。



「…どうせ偽物の宵の宮は、本物の俺には逆らえないんだから」





どうか。


















「あきちゃん。ねぇ、あきちゃん、待って」

泣き虫め。
すぐに発作を出しては大人達を困らせ、甘やかされている癖に。大人しく寝ていなさいと言われている所を見た。だから、素直に休んでいれば良いのだ。

「うっさいなー、お前さんは病気じゃん。こっち来ないでよねー」
「う、うぇ、やだよぉ、あきちゃん、ねぇ、あきちゃん。置いてかないでぇ」

二階へ上がる事も出来ない癖に。
大人達が言っているではないか。仕方ないのだと。この家はとても広いから、子供の足で動き回れる範囲は知れている。例えばこの家の一階部分は山田ではなく村井の表札が掛かっているが、それを知っているのは大人達だけだ。

「あきちゃんのお部屋は2階にあるんだもん。ヤスは病気なんだから、そこで寝てなよ」
「ひっく。一人、やだぁ。僕もあきちゃんのお部屋、行きたいよぅ」
「もうすぐお母さん帰ってくるから、大丈夫だよ」
「やだ、やだ」

面倒臭い。
幼稚園では自分の事は自分でやらなければならないのだ。トイレも、着替えも、お昼寝の準備も、歯磨きも、全部。山田太陽は一人で出来る。けれど弟の夕陽はそうではない。発作を起こす度に母は夕陽を抱えて病院へ走り、仕事で忙しい筈の父も祖父も急いで帰ってくるのだ。
一度だけ、深夜に夕陽が発作を起こした。眠っていた太陽は部屋に置き去りのまま、母は病院へタクシーで駆け込んだ。いつもなら急いで帰ってきてくれる筈の父親とは連絡がつかず、祖父は出張中で。

「我儘言う子はバチが当たるよ」
「あきちゃん、うぇん、置いてかないで、あきちゃぁん」

歩ける様になったばかりの太陽は、二階から一階まで一人で降りて、誰も居ない事を確かめて泣いた。けれど泣き疲れて眠るまで誰も帰っては来なかった。
目が覚めたのは、入院する事になった夕陽の荷物を取りに帰った山田陽子が、半狂乱で家中を探した後の事だ。二世帯を地面を通して繋げている山田家は、敷地全てで300坪ほど。建物は50坪が2つ分だが、山田家の1階部分から地下へ降りて村井家の一階部分と繋がっているので、家族が二階と呼ぶ山田家より一階の方が遥かに広い。歩ける様になったばかりの幼児には、最早冒険と言っても過言ではない距離だった。

「男の癖にすぐ泣くから、遊んでやんない」
「うぇ、ごめ、ごめんなさい。もう泣かないから、僕と一緒に遊んでぇ…」

陽子は帰宅していなかった夫を責め、夫婦の仲は冷え切ったらしい。
太陽の所為だとは誰も言わなかったけれど、夫婦の会話は夕陽の喘息発作が起きた時だけだ。そのくらいは3歳の子供にも判る。だから誰もが夕陽を構う。まるで最後の頼みの綱とばかりに。

「ヤス、トランプ出来ないじゃん」
「う」
「オセロも将棋も出来ないじゃん」
「う…」
「お前さんと遊んだって、つまんないんだもん」
「うぇ」
「ほら、また泣く」

祖父の和彰だってそうだ。働きに出たいと言う陽子の希望を叶えるかの様に、最近は帰りが早い。それでも元は出張や深夜帰宅が多かった多忙な役職の人だから、今日の様に陽子の出勤に間に合わない事もある。
幼稚園へ通いだして自立心が芽生えた太陽はしっかり者の長男役を押しつけられつつあるが、それも仕方ない事なのだろう。少しずつ発作の頻度が減っている夕陽が太陽に懐いているので、陽子は簡単な買い物の際には『お兄ちゃん、お願いね』と言って出掛ける様になった。
以前は太陽の手を引き夕陽を背負い、ベビーカーを台車代わりに買い物に出掛けていたものだが、近所にあった小さな商店が閉店してからはアルバイト帰りに買い物をしてくるか、和彰が休みの時に車で出掛けている。

「ヤスは弱っちいから、寝てなきゃ駄目なんだよ。あきちゃんは怪我も病気もしないから『いいこ』なんだ」
「…ひっく」
「大人の勝手な価値観を押しつけられて、ほんといい迷惑だよ」
「え?」

可哀想な次男。病弱で外に出掛ける事も出来ない。
排気ガスが犇めいている街中ではすぐに熱を出し、冷え込む夜には発作を起こす。漂白剤を飲んでも腹痛一つ起こさない長男とは違って、誰かが手を貸してやらなければ、大人が守ってやらなければ生きられない脆弱な子供。

「俺が引き裂いてやろうとした父さんと母さんの関係を、お前さんが懸命に繋いでるんだ。じーちゃんはきっと、ヤスに感謝してるよ」
「あきちゃ…?」
「弱いものは滅びるだけ。お前さんはいつか、俺の弟じゃなくなるだろ?」
「や、やだ」

ああ、そうだ。
母親を唆した道化師は自分。夫と次男に心を乱されて、眠れない夜を何度となく一人で過ごしている事を太陽は知っていた。夕陽が存在する限り彼女に平穏が訪れる事はないのなら、囁いてやれば良い。

『外に出よう』
『此処にはない何かが外にはあるんだ』
『孵化しよう』
『小さく丸まっている限り、夜明けは永遠に訪れない』

蝉の幸せは鳴く事だ。太陽の下で羽根を休めて、番へ愛を歌う事だ。
深夜どころか明け方に帰ってくる夫を待ち続け、寝た振りをして出迎える健気な真似が幸せな筈がない。だからと言って、仕事が生き甲斐だと言って憚らない和彰を犠牲にする必要もない。
誰も居ない家の中を歩き回り、泣き叫んだいつかと今の太陽は違うのだ。母親でさえ、祖父でさえ、太陽の囁きを素直に聞いてしまう。否定する事が出来ない。そして恐らくそれは、父親でさえも。

「定められた掟なんだよ。抜け殻を残す事が出来ない蝉は、芋虫のまんま死んじゃうんだ。お前さんもきっと、ね…」
「僕、お部屋行けるよっ」
「無理だよ。長い廊下と、階段がある」
「平気だもん!」
「今発作を起こしても、俺は病院に連れてってやんないよ。弱いものは死ぬしかないんだから」
「死なないもん!僕、トランプ出来るもん!」

例えば、目の前の弟も。
同じ日に生まれた半身でさえもそうだったなら、太陽を否定する者は世界の何処にも居ないと言う事だ。天神以外は。

「…俺は神に仕えない蝉」
「あきちゃん?」
「俺が禰宜だったら、お前さんはとっくに捨てられてる。だから俺は誰の命令も聞かない」
「僕も?」
「どうだろうね。…試してみるかい?」
「あっ。待ってあきちゃん、置いてかないでぇ!」

選択肢を与えないこの力が、招き寄せるのは喜劇だろうか。それとも悲劇だろうか。



弱いものは簡単に死んでしまう。
強すぎる自分は、永遠に一人ぼっちで残される。
弱いものは強い庇護欲を誘う。
何の価値もなく誰からも顧みては貰えない蝉の抜け殻の様に、大切に掻き集めてもほら。



握り締めれば簡単に、崩れてしまうだろう?







「っ、離して!」

どうせすぐに死んでしまう。
脆弱な十口はもっと簡単に死んでしまう。

「…動くなアキ、大丈夫だから」
「ネイちゃん、離して!」
「大丈夫…」
「誰、か」

何の為の力だ。
自分は絶対的な強者ではなかったのか?
激しく叩きつける雨音で。轟く雷鳴で。

こんなにも簡単に灰原は、無力化すると言うのか?


「ネイちゃんを助けて、神様ぁ!」

あの時、音すら飲み込む悍ましい落雷に照らされた真っ白なそれは。





果たして神の姿だったのだろうか・と。



























「な、何だか、静かになっタ?」
「待って、僕が覗いてみるから動かないで」

床に並べていたタロットカードをケースに仕舞いながら、宝塚敬吾は忙しなく瞬いた。ぴたっと引っついてきた茶髪の短い髪の毛が、限界まで目を逸らしても視界に入って来る。

「…本当だ、うちの大人達が居なくなってる。冬ちゃんの命令…?」
「そ、それ、君はさっきからうちって言ってるけド…あの人達はご家族?」
「もう、君は堅苦しい喋り方するよね。僕の方が年下なんだから、タメ口で良いって言ったでしょ?」
「あう、えぇっと、ご、めんネ…?」
「ふふ。リンは怒るかも知れないけど…」

ぴったりフィットしている短パンのポケットからスマートフォンを取り出した女は、暫く操作して「電波が復活している」と呟いた。敬吾もつられる様にブレザーのポケットを手探ってみたが、拉致された時に荷物を没収されていた事を思い出す。

「僕の荷物、返して貰えるカナ…?」
「敬吾君、携帯ないの?」
「ん。学籍カードと一緒に、スーツの人達に持ってかれたんダ」
「さっき言ってた黒服の男だよね?そいつらってさ、日本人じゃなかったでしょ?」
「ど、どうして判るノ?」
「…パパが言ってた通り、向こうに手を貸してる奴が居るって事か。冬ちゃんは泳がせとけって言ってるみたいだけど、大丈夫なのかな。僕もリンも、キハからは何も聞いてないんだよね…」

その独り言の様な呟きは誰に向けられたものなのか。ただでさえ口下手で人見知りが酷い敬吾は口を噤み、意味もなくそわそわと肩を震わせた。

「…って、こんな愚痴を聞かされても判んないよね!大丈夫だよ、僕が何とかしてあげるから。オジさんを見つけたら助けてくれると思う」
「おじさん?」
「うん、守矢君。本当は優しい癖に意地悪な事ばっかり言っちゃう、天邪鬼なオジさんなんだ。今頃可愛い後輩を避難させてると思うんだけど、キハを全面的に信じてる訳じゃないみたい。リンもキハは怪しいって言うけど、…あ、ごめん。また喋り過ぎちゃった」
「あ、あのっ、僕、誰にも言わないから大丈夫だヨっ?友達居ないから!」
「敬吾君って結構自虐的だねぇ。自信がない子?」
「う、うん、男の癖に情けなくて、ごめんネ」

ああ、恥ずかしい。今日初めて知り合ったばかりの人間からも見透かされてしまう、己の底の浅さが嫌で堪らない。
なれるものならカルマの総長の様に、誰からも慕わられるカリスマ性を持った人間に生まれたかった。誰の前でも物怖じせずに笑える、高野健吾の様な人間になりたかった。

「何で謝る?」
「ぇ?」
「僕、男だから女だからって決めつけられるのが一番嫌い。自己顕示欲が強い男より全然良いと思う。ほら、草食系男子って最近流行ってるでしょ?」
「そう、かナ?」

ランと名乗った少女はパーカーのフードを目深に被ると、敬吾が片づけたタロットカードのケースを上着のポケットに突っ込んだ。キョロキョロと廊下を綿密に窺って、敬吾の手を掴む。

「行ってみよ。監視の僕と一緒に居れば、見つかっても誤魔化せると思う」
「え、ええっ、あ、あのあのあのっ」

言い分は判る様な全く判らない様な、何にせよ手を繋ぐ必要はあるのだろうか?
異性と手を繋いだ事など、祖母が死んで以降一度としてなかった筈だと目を白黒させた敬吾は、有無言わせない力強さで引っ張ってくれるランの後を転げそうになりながらついていった。

「そうだ、敬吾君って嵯峨崎佑壱君と同じ2年生なんでしょ?」
「…へっ?あ、ウン、えっと、僕の方が歳は上だけど、紅蓮の君は同級生だヨ」
「どんな奴?やっぱり偉そう?いつも日向君を殴ってるって聞いてるんだけど、不意打ちで殺せるかな?」
「殺っ?!」
「リンはヴァーゴの前で庇ってくれたアイツを、きっと過大評価してるんだ。日向君に暴力奮う、最低男なのに…」
「ばーご?」
「僕の叔父さん。パパの弟で、世界一性格が悪いんだ」
「せっ、世界一?!」
「毎回絶対に僕とリンを間違えるんだよ。確率十割って事はさ、わざと間違えてるんだと思う。とにかく、冬ちゃんとパパとは全然似てない。本当に卑劣で最悪で、偏屈な人!」
「そ、そんな酷い人、いるんだネ…」

何を隠そう、叶二葉その人である。イギリスだろうが帝王院学園だろうが、彼はキングオブ腹黒で知られている。

「冬ちゃんの体が珍しいからって、自分のデータと移し替えてお祖母様を脅したんだよ。…アンドロジナスなんて嘘ばっかり、普通の男の癖に」
「アンドロジー…両性具有?」
「跡継ぎになりたくないからって平然と嘘ついて、日向君に全部押しつける気なんだよ。日向君がどんな目に遭ってたか、知らない筈ないのに」
「ランちゃんは、ひ、ヒナタ君の事が、好きなノ?」

他人の顔が光の速さで真っ赤に染まるのを見た。苺色と言う言葉がぴったりだ。

「絶対内緒だよ…?!日向君の周りには美人しか居なかったんだから、私なんて相手にされる訳ないしっ」
「えっと、ランちゃん美人だヨ?僕、健吾より美人だと思う…」
「えっ、ケンゴって男の子でしょ?」
「ぇ?ウン、男の子だけど、健吾は美人だって皆言ってるヨ?」
「ふふっ。やだな敬吾君、面白い事言って笑わせようとしてるでしょ?ふふふ」

何故笑われているのか判らずに、敬吾はきょとりと首を傾げた。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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