帝王院高等学校
影に差すスポットライトの温度
世界人口の99%は有象無象だ。

「お前、毎週此処でピコピコやってんねんな。今日何度あるか知ってる?」

己と言う個人を主張しているだけで、あやふやな存在感で有耶無耶の内に人生を消費している、路傍の雑草と何ら変わらない。今日死んでも明日には新たな生命で塗り潰され、骨が風化する前に忘れ去られてしまう。歴史に名を残すのは相当の英雄か、極悪人ばかりだ。彼らは常に1%に満たない。

「…ここ、涼しいんですよね。一日中影になってて」
「あー、北と中央を繋いでるベルトコンベアの所為やんな」
「ベルトコンベア?」
「アンダーラインで外が見える場所なんて、そうあれへんもんなぁ。そりゃ知らんか」

多くの人間は他人を羨むか見下している。恐らくそれは、己が99%の『中間』だと知っているからだ。
自分より幸せな人間も、自分より辛い思いをしている人間も、そこかしこに溢れ返っている事を本能で理解している。つまりは今日この瞬間も、自分は悲劇のヒロインなどではなく、付け加えるなら世界を救う勇者でもない。1%に満たない何処かの英雄か悪人が歴史に名を残すまでのほんのエキストラか、脇役ですらない哺乳類の一種、更にはその極一部。

「その水槽の上に見えるのは、外側のリブラやねん。地上階のな」
「高等部の領域って事くらい、知ってますけど」
「中等部でリブラ北棟一階に部屋がある人間は、たったの30人や」
「知ってます」
「アンダーラインからしか出入りが出来ない事も?」
「学園長を除く教職員の中に、一人だけ元中央委員会長がいるって事も?」
「ほんま、見た目に反して可愛げがないやっちゃな」

自分が世界で一番不幸だと思う瞬間が誰にでもあるだろう。

「可愛いって言われて喜ぶ趣味はないんですよねー」

そんな事は天文学的確率で有り得ないと思っていても、世界に淘汰され一人ぼっちな気分に陥る事はある。誰もが己を悲劇の主人公と思い込みたいのだ。社会が求める主人公にはなれないのだと本能で悟っているから、一言で言えば悪足掻き。

「私服着てても金メッキのSバッジは忘れんもんやろ、Sクラスってのは」
「先生はどうだったんですか?」
「よぉつけ忘れて、副会長と会計からあーだこーだ言われとったけど?」
「人のこと言える立場やないやないかーい」
「ヘッタクソな関西弁やなぁ」
「そっくりそのままお返しします」
「大阪に憧れるルミネ大好きな東京生まれやもん」

薄暗いアンダーライン、中等部活動領域は近年新規に創設された国際学部と共有されている。
パーティーなどの催しにも使われるダンスホールを経由して、三叉路で分岐されている一方はフードコート方面。もう一方は国際科の生活領域で、中等部の生活領域はリブラ西棟の真下だ。
然し2年生から振り分けられる進学科の生徒と、中等部入学前の進級試験で結果を残した上位30名の3学年90名は、リブラ寮北棟の一階二階部分に部屋を用意されている。共にアンダーラインからの出入りしか出来ない為、高等部の生徒と接触する事はないが、表向きの事だ。抜け道は幾らでも存在する。例えば進学科のSバッジを所持する生徒であれば、彼ら以外の生徒が『開かずのゲート』と呼ぶ、ダンスホールのフードコート方面への扉を通過する事が出来る様に。

「外は炎天下やで。水路の水が干上がってもうたら大事や」
「その水槽って、下水施設から循環させてるんでしょ?干上がったりしないんじゃ」
「水路の水は山の湧水も混じってんの。お前らは外に出る機会が滅多にあれへんから知らんかも知れんけどな、山の中に田んぼや畑が幾つもあんねん」
「工業科の?」
「農業畜産コースの。いつからEクラスは工業科のもんになってんねん」

リブラ西側をグランドゲートまで走る水路の真下。
ティアーズキャノンの地下を走り、山中の谷を開墾して作られた田畑へ送られる農業用水を兼ねた水路はグランドゲートの手前、ヴァルゴ並木道で下水道と連結している。下水処理施設へ送られるのは主に生活排水で、比較的汚損が少ない雨水や農業用水はアンダーライン内部で濾過され水質チェックを行っていた。ラウンジゲートの風呂水も同じ仕組みで毎日循環し、最終処理を要する下水は極一部だ。
学園内の全施設は水冷暖機能を保有しており、夏場はアンダーラインで簡易処理された真水を循環させる事で空調を調節している。冬場はラウンジゲートの屋外浴場で沸かされている湯を延々と循環させ、年中暑過ぎず寒過ぎない25℃前後を保たれているのだ。

「先生が現役の頃は違ったんですか?」
「いんや、昔からEクラスは工業科の私物扱いされとったわ」
「なんでやね〜ん」
「お、いっちょ前にツッコミよった」
「俺の祖父母が三重県で暮らしてるんで、ちょいと訛ってるんですよねー。あと母親が何でか名古屋っぽい喋り方してたり」
「名古屋訛り?にゃーにゃー言うてるん?」
「語尾が『だわ』なんです」
「ブフッ。えらいピンポイントやないかい!」

アンダーラインの多くは水源世界。
工業科で開発された超強化ガラスによってフードコートも、地上では水路に見える部分も覆われているので、地下で見ると巨大な水槽が嵌め込まれた水族館の様な趣きがある。地上の光を水を通して得られる為、水中通路部分は昼間は照明が落とされており、夜は水中に設置されたライトアップで、地上も地下も現像的な光景が彩られる。

「あーあ、お笑いは世界を救うけど、暑さからは救ってくれへんなぁ」
「水分補給した方がいいですよ。年取ると体水分量が減るって聞きますし」
「阿呆言いなや、俺はまだ25歳やで。サイヤ人で言ったらピチピチのカカロットやで」
「ネタ古くないですか?ドラゴンボール、うちの親が小学校に上がる前だって聞きましたけど」
「実は先生も再放送世代やねん。子供の頃は漫画もアニメも見た事あれへんかって」
「人生損してますねー」
「それ元カノにも言われたわー」

とは言え、大抵の生徒の興味関心は、初めて見た時くらいのものだ。幾ら太陽光が注ぎ込まれるとは言え、水深3メートル近くある水路と強化ガラス越しでは、日向ぼっこには向いていない。その上、地上は炎天下だ。水冷設備は生活領域に限定されているので、業者用通路や、外への出口に繋がる廊下は季節に応じた体感温度だった。
例えば今日、東京は35℃の猛暑日。何時間も照らされている水路の温度は察するに余りある。農業用水として水門が開かれ、キャノンを挟んで2本走る水路が循環するのは夜間から朝方の数時間だ。昼を回ったばかりの今の時間は、ひたすら熱を帯びる大地と同じ様に熱を帯び、その恐ろしいエネルギーは強化ガラスなど難なく通り越してしまう。

「で、それ何?」
「それって、これ?」
「こないだPSPっての買ってん」
「これもPSPですけど」
「形が全然ちゃうやんけ」
「俺のは古いんで。こっちは初代ですよ」
「ポケットから飛び出とるんもPSPやろ?何で2台持ってるん」
「祖父二人が去年の進級祝いにくれたんです。こっちは中古で、こっちは新品」
「へぇ。優しいとこあるやん、そんでどっちも遊んでんの?普通、新しい方だけ使いそうなもんやのに」
「アカウント2つ作れるんで、オンラインゲームにはもってこいなんですよ。リセマラしなくても自分でトレードしたり出来るし」
「はい?何語?」
「それに、ここはワイファイが入るんです」

アンダーラインは不自由が多い。
生徒の寮室と各教室にはインターネット環境があるが、それ以外のエリアでは設置されている前肢掲示板か有線ケーブル用のジャックが幾つか見掛けられるだけだ。生徒全員に貸し出されているノートパソコンは教室に固定されているので、スマートフォンを持っていても利用出来るのは自室だけだ。

「部屋にもネットあるやん。ルーターも貸し出してんで?」
「俺、ガラケーなんで部屋じゃネットしないんですよねー。だから有線で自分のパソコン繋いでます。ってか、週末は全然速度出ないし」
「あー、最近高等部も人数増えたからなぁ。マンション用の回線ってのは大体遅いもんやねん。お前ら生活時間ほぼ同じやもんな、アクセスが集中するのは仕方ないか。日曜やし」
「Sクラスじゃない生徒の方が圧倒的に多いし」
「それな」

リブラ北棟の地上階に部屋を割り振られる進学科も例外ではなく、裏手が雑木林なので携帯電話の電波も入り難い。それが理由なのか、中等部生徒の大半がガラケーと呼ばれる旧式携帯を利用している。アンテナが内蔵ではない分、通話に限ってはそちらの方が使い勝手が良いらしい。

「ほれ、有名なゲームあるやろ。車に乗ってバナナの皮投げたりするバイオレンスなあれ。ソフトのダウンロードが出来ひんの」
「マリカーは任天堂じゃないと無理ですよー」
「ゲームボーイの方やったか!」
「…ゲームボーイって。先生、世代じゃないでしょ。せめてWiiとか」
「ガリ勉の癖にゲームに詳しいキャラやん、ギャップ狙ってる?」
「…冗談。Sバッジ持ってたって、帝君には程遠い降格範囲圏ですよ。後期には落ちてるかも」
「夏期講習と自習に費やす日曜日に、糞暑い地下でまったりゲームに没頭する身空で、控えめな事を言うじゃないか」
「あ、標準語だ」
「あかん。今のナシ」

そんな何処にでもいる生徒の一人が、昼間は薄暗いだけの通路の片隅に座り込んでいる。真上はリブラ西側の水路で、北棟へ続く通路だ。進学科以外の生徒は寄り付かない場所。
中等部Sクラスの日曜日は基本的に休日だが、今の時期は午前中に夏期講習を受講する事が出来る。任意だが、受講率はほぼ100%だ。単位が与えられるだけでなく、前期の総集編の様な授業が好評を得ている。8月中旬には後期座席を決定する選定考査を控えている彼らにとっては、戦いの時期と言えるだろう。少なくとも講習が終わるなり昼食も取らず人気のない通路に座り込み、無心でゲームに勤しむ生徒は一般的とは言えない。

「や、東京生まれでしょ?東雲財閥、本社も家も20区にあるって有名だし」
「それや、実家が有名過ぎるねん。俺が偉いんやのうてオトンが凄すぎるだけやのに、何処行っても坊っちゃん扱いされんの。ほんましんどいで然し」
「いいんですかねー、生徒にそんなプライベートな愚痴聞かせて」
「お前、俺の受け持ちちゃうもん。先生、高等部の専門やし」
「適当だなー」

こんな場所に用などない筈の東雲村崎が声を掛ける程度には、気に掛かる生徒だろう。

「つーか、いい加減こっち見て話せぇへん?」
「男前は見慣れてないんで。ってか、汗凄いですよ」
「見てないと思えば案外見てんね。せや、最近デスクワーク多くてなぁ。太ってきてん」
「全然そう見えませんけど」
「んー、最近の子は人と目を合わせるって習慣がないんかいな?」

この世界には99%の有象無象と、1%の選ばれた人間が存在する。

「二重人格」
「はい?」
「言われませんか?」
「初めて言われた。俺がそう見える?」
「商売が絡まないのにニコニコしてる人間は信用するなって、奥さんの前でも貼りつけた様な笑顔を崩さない人から教えられたんですよ。経験則って奴です」
「はは。その年で悟った風な口を叩くんだな」
「いつか大人を見下していた子供は、自分が大人になる頃には忘れる。だって子供に子供らしさを求めるのは、いつだって大人なんですもん」
「中2は子供やで?」

少なくとも今日、この瞬間。
傍聴人でしかない自分は、主役達に気づかれないまま。息を潜めて窺っているだけ。認識されてもいない脇役は99%に含まれるのか、この疎外感が悲劇の演出であれば、悲劇の主演と言う肩書きを負っているのか。

「京都大学」
「うん?」
「って、大阪弁が主流なんですか?」
「まさか。全員が全員関西人やないし、東大かて東北弁喋ってる奴は居るやろ」
「昨日まで喋った事もない同級生が、気を遣ってくるのってどうですか」
「居心地は良かないやろなぁ」

世間一般で言う中途編入。世間では珍しくもない光景は、帝王院学園では珍しい。
3年前に『初代外部生』と噂された初等部5年生は、中等部進級と共に学年30位に認定されたが、たった2年で学園に馴染んでいた彼は騒がれる事はなかった。いっそわざとらしい程に。

「同情は欲しがってる人にだけして欲しいんですよねー、俺。Sバッジが守ってくれるのは基本的にプライドだけで、一度でもSクラスだった奴には何の防御力もなかった。それ所か、自分より下位だと思ってたルームメイトが進級して、何で自分が降格しなきゃなんないんだって」
「お前は被害者面してたらええねん。人の噂も75日」
「今7月ですよ?俺が刺されたのって4月なんですけどねー」
「Sクラスで刃傷沙汰が起きたって、殆どの生徒には知らされん。30人しか居れへん教室で、29人が同情してても300人中の1割の話や。他の270人は今日もいつもと同じ日曜日を平和に過ごしてんで」
「大河が」
「大河朱雀?」
「知ってるんですか?」
「中等部で謹慎喰らった猛者を知らんとでも?」

決して今この瞬間、自分は世界に一人などではない。

「素行は出鱈目だけど、無意味な暴力を振るう様な奴じゃないんです。俺が階段から突き落としちゃった時だって、怒ってたけど殴ったりはしなかったし」
「突き落としたんかい」
「あの大河が白百合を襲うなんて有り得ないと思うんですよねー」
「乱闘騒ぎを起こしたのは間違いないで。高等部Sクラス相手に喧嘩吹っ掛ける中等部Sクラスってのは、まぁ、そない珍しいもんでもないけど。中央委員会役員に手ぇ出す奴は、滅法レアケースやなぁ」
「レアって事は、0じゃないんでしょ。皆がレアだレアだって言ってるモンスターを日課で狩ってる俺にとっては、日常茶飯事だもん」
「さっきからピコピコやってのって、モンハンかい」
「や、これは普通のRPGです」
「ああ、冒険か。男のロマンやな」

果たされない約束に賞味期限なんてものもない。

「お前細っこいから、バッタバッタ敵を倒してくゲームに夢中になるのも判る」
「二重人格」
「2回も言うたでコイツ」
「アンタを優しいって言ってる奴らって、正気じゃないんですかねー」
「せやろなぁ、俺の何処が優しいねんなぁ」
「誰にでもいい顔して誰に対してもきっちり線引きしてるだけなのに?」
「山田君、先生よか遥かに性格悪いん違う?」
「今のは褒め言葉として受け取ります。いいんですか、こんな所でサボってて」
「ええんですぅ、さっきまで3時間ぶっ通しで補講の監督やっててん。長めの昼休み貰てもバチは当たれへんわ」
「昼休みならご飯食べて、煙草吸ったりとか」
「あー、先生は煙草はやらん人なんよー。やるのはこれだけ」
「…はい?え?うんめー棒?」
「うんめー棒、一本10円。大体毎日10本は消費してんねん。これとか、酸っぱいグミとか、きな粉棒とかもめっちゃ好き」
「俺より全然子供じゃん。ホストやってそうな顔してるのに」
「誰がホストやねん。バイトは家庭教師しかやった事あれへんって」
「へー。女子生徒?」

接点などない筈の中等部生徒と、高等部教師の会話は、コンクリートの内側の蒸し暑さを忘れていつまでも。その会話を聞いている第三者だけを置き去りに、ものの数分で二人だけの世界を彩った。
まるで舞台の上の主役達の様に今、この狭い世界の99%はあの二人だ。1%の仲間外れが自分。そんなスポットライト、必要あるのか・と。自虐的に。悲観的に。

「いや男。そのオカンにごっつー気に入られて、気に入られ過ぎてストーカーの真似事されて辞めた」
「顔がいいのも大変ですねー」
「俺よか弟の方が男前やねんけどなー」
「ブラコンかー。って、弟いるんですか?」
「居るで。お前と同い年、中2」
「この学園?」
「いんや、都内の別の私立」

炎天下の日曜日。7月の末。
春に笑顔を失った少年が、久し振りに誰かと必要外の会話を試みている、そんな平和な光景が。恐らく世界で今この瞬間、自分だけが嫉妬を抱えて窺っている。

「東雲先生は弟、可愛いと思います?」
「さぁ、どうやろな。一回り近く離れてるから、よう判らん」
「あ、そっか。学園で生活してる間に生まれたって事ですもんねー」
「同じ長男として聞いてもええ?」
「何を?」
「本気で欲しい訳やないけど、ノリでねだったもんを親が用意してくれた時」
「うちはおねだりが通用しないケチな母親が居るんで、共感出来ないなー。何となく、俺より出来が良い弟の方に甘いとは思いますけど」
「ほーか」

姿を表す勇気もない癖に、会話に割り込んで自分だけを見ろなど、口が裂けても言えない癖に。
だから、本能で気づいているのだろう。自分はその舞台に上がる事が出来ない。与えられた選択肢は一つ、指を咥えて羨む事だけだと。

「うちのオカンは次男には甘いっつーか、放任やねん。好きな事を好きなだけやったらええって言う方針」
「それっていいんですか?跡取りが教師やってて」
「跡取りや何や言うてんのはオカンと他人ばっかで、オトンからは何も言われてへんし。そっちこそどやねん、ワラショク」
「あはは、今時法人に跡取りなんて。昭和じゃ、3代で潰すって言われてたそうですし」
「3代で潰れたと言えば、YMDが有名やなぁ」
「俺でも知ってる会社ですねー」
「お前も弟居るんやろ?」
「西園寺の特進に通ってる可愛くないのが」
「西園寺の進学科かい、そら賢いな。西園寺の平均偏差値は60、特進は通年70やさかい」
「弟が言うには、特進だけでこっちの2クラス分居るって。こっちはたった30人だから、敵じゃないそうです」
「高等部の一般受験受けたらおもろいやろなぁ。未だ嘗て一人も存在せぇへん、外部昇校生はレア中のレアやで」
「外部受験で選定される事ってあるんですか?」
「名目上はな。上院が作成する試験問題で満点取れれば、本校の選定考査同等の扱いな訳やし。ただなぁ、今年の高等部は無理やろな」
「今年?…あ、帝君が二人居るからですか?月の君と、神の君」
「祭美月も賢いのは間違いないんやけど、今の中央委員会長は正真正銘のバケモンやさかい。選定考査13科目受験時間が、トータルで50分っての知ってる?」
「トータル50分?!」
「せや。一時間目の試験時間に、一人だけ全科目受験してん。昼寝の時間が欲しいからさっさと終わらせるっつってな」
「そんで満点…」
「開いた口が塞がらへんやろ。昇校以来毎回やねんで?そもそも海外の大学で教授やってた生徒やさかい、職員会議は満場一致の『お望みのままに』や。匙投げたっつー訳」
「教授やってた?」
「この学園の何処探してもそんな奴は3人しか居れへん」
「3人も居るんかい」
「多少の我儘は叶えて貰えるってのが、帝君のご褒美やもんなぁ」

知恵の実を囓れと唆した蛇は、足を失った。人類は知恵を手に入れ、争いを知った。
蛇は大地を歩く権利を失って、地面を這いずり回る醜い爬虫類に退化した。彼らは進化しない。それが神の与えた天罰だからだ。

「然しほんま暑いなぁ。外に出た方が、風がある分涼しいんちゃうか?」
「さっき、中央委員会に手を出す奴はプレミアって言ってたでしょ?」
「言ったな。少なくとも、会長絡みのトラブルは過去に2度」
「誰と誰ですか」
「閃紅親王と、紫水親王」
「センコーとシスイ?」
「女帝と呼ばれた母親への恨みから、学園内で拉致されそうになったお坊ちゃんと、家がデカすぎる余りに殺されかけたお坊ちゃん。ま、あんまおもろい話やないで、暇ならちょっと先生に付き合わん?」
「どう見ても忙しいんですけど、俺」
「さっきからスライム乱獲しとるだけやないかい」
「メタルスライムは普通のスライムじゃないんですけど」
「駄菓子食べ放題、キンキンに冷えたジュース飲み放題の、クーラーが効いた天国みたいな空き部屋があんねん。裏にワイファイアンテナがあるから、速度も保証するで」
「どこにそんなパラダイスがあるんですか」
「部活棟。空き部屋だからって黙って私物化すんのは気が引けるやろ?誰か部室にしてくれたら、先生も助かるんやけどなぁ」

そしてその摂理は、こう変換される。自分は永遠に進化しない。それが天罰だからだ。

「愛好会って、ゲーム同好会とか?」
「それはもうあるさかい、申請通らんやろな。ああ言うのは死角を狙ってくねん」
「死角」
「絶対要らんやろと普通は思うのに、この学園じゃ逆にアバンギャルドな」
「あばんぎゃるどって何ですか?」
「はっはー、山田君は英語苦手やろ?あかんで、先生は英語と世界史担当やさかい、頑張って貰わんと。たまに数学の試験監督もするさかい、数学も」
「…ハゲたらいいのに天パ」
「何?」
「東雲先生って言い難いんで、天パ先生って呼んでもいいですか?」
「村ぱち先生って呼ぶのは許可」
「天ぱち先生?」
「なんでやねん」

遠ざかる大人と子供の背を見えなくなるまで見送り、叶二葉は熱を持つ強化ガラスを殴りつけた。この程度で壊れる様なやわな設備ではない。


「…気に食わない」

それは間男に対する嫉妬なのか、意気地がない己に対する嫌悪感なのか。



























「うっ、うぇ、うわぁん、じっちゃん、ば…ひっ、ひっく、ばーちゃぁん!」

この状態で正しい感情はどれだ。
幼い子供の甲高い泣き声が耳障りでならない、今の自分は恐らくまともな精神状態ではないに違いない。

可哀想だ。
慰めてあげるべきだ。
大人が。
理性では幾らでも正論を並べられるのに。どうして、扉一枚隔てた向こう側の子供の泣き声を、自分は止めようともしないのか。

「起きてよお!じっちゃん、ばーちゃん、ひっく、もう黙って山に行ったりしないからあ!うぇ、ぐす、えっ、ごほっ、っ、うぇぇぇん!」

ああ、駄目だ。
せめて今は、固く握り締めたドアノブを回さず手を離す事に全力を尽くそう。それ以外の事を考える必要などない。速やかに踵を返し、ただでさえ良い思い出のない病院で最も陰鬱な場所から、一目散に離れるべきだ。


「あ、は。…ばーちゃんって、何」

余計な事は考えるな。無駄な事に頭を使うな。自分は知っているだろう、この体に流れている血の呪いを。
考えるな。
歩け。
少しでも早く、この耳障りで哀れな子供の慟哭から、遠ざかれ。

「…私のお母さんはあの人だけ」

例えその声の主が血を分けた息子であろうと、今はどうでも良い。こんな所には初めから来るべきではなかったのだ。
ああ、それすらどうでも良い。早く離れろ。もっと遠くへ。

惨めな呪いの言葉を叫ぶ前に、一分一秒でも早く。

「何処の誰かも判らない他人が祖母…?あは。あはっ、あは!っ、誰に似たらあんな馬鹿に育つってのよ、あの糞餓鬼…!」

違う。それはどうでも良い事だ。
仕事以外に大切なものなど何一つない父親に、期待した事などある筈がない。だから憎んだりしない。さして多くもない思い出を、わざわざ思い出す必要もない。忘れられないからと言って、四六時中欠かさず覚えている訳ではないのだから。

あんな男。愛も憎悪もない、赤の他人だ。
死んだ妻そっくりなロボットに家政婦の真似事を任せて、時々帰って来たかと思えば死んだ様に眠るだけ。本当に死んでしまえば良いのに・と、寝言を聞く度に何度思ったか。

カオリだかサオリだか、思い出すだに胸糞悪い。
成程、幾つになっても男は成長しない生き物と聞いた事がある。あれは俗説でも何でもなく、摂理だったと言う事だ。
女を馬鹿にするから、ろくな死に方をしない。全身煤だらけの炭化した老体は、どれほどみっともない死に様だったのか。

「…あーあ、清々した」

この目で確かめて、高笑いしてやるつもりだったのに。耳障りな泣き声を聞くまでは、本気で。

「好きなだけ好きな人生を謳歌したんだから、アンタはきっと真っ逆さまに地獄逝きよ。生きたままアビスに落ちてくれた方が、もっと清々しかったでしょうけどねえ」
「お父様にはお会いになられないので?」
「私の事はどうでもよいから、あの子と遺産整理の話つけて来てくれる?私、これから仕事だから」
「その件ですが、ご実家周辺の土地は別名義でした」
「はあ?」
「確かに家屋と敷地の名義は神崎なのですが、庭を含めた私道に至るまで、家屋裏手の山林を含めたあの町内の実に8割が…個人の持ち主だと判明しました」
「それだとどうなるっての?」
「地役権は当然の権利なので、公道に至るまでの通行に不自由はないでしょうが…」
「煮え切らない物言いはやめて」
「神崎龍人氏が現在の場所に移り住んだのは7年前。庭を含めた他人名義の土地を時効取得するには年数が足りず、家屋のみで販売する場合、所有権の表示は難しい。いわゆる賃借権が発生します」
「はあ?自分の家なのに、賃料払えって事?アンタ弁護士でしょ?!」
「実際、お父様は毎月送金なさっておいででした。家屋敷地以外の庭、山林、通行権使用料を」

やっと自由だ。
何にも囚われず、探す事が出来る。母の家族を。彼女が知りたがっていた、遠い祖国の家族を。

「死亡認知した今日より3ヶ月以内に相続するか放棄するか、ご子息にも同様の案内を申し上げて参ります」
「…住みもしない家にコストを掛ける気はないわよ。住んでなきゃ、支払う必要はないんでしょ?」
「そうなります。家屋を売却するか取り壊してしまえば、債権は発生しません」
「今すぐ相続放棄するわ」
「残念ですが、その場合家屋の放棄のみとなります」
「は?敷地も神崎名義なんでしょ?」
「ええ。然しご実家の敷地名義人は、神崎隼人氏です」
「あの子はまだ6歳よ?!」
「民法では所有権に年齢制限はありません」
「っ、あの糞ジジイ…!」

けれどその権利さえ、あの男は奪うと言うのだろうか。
やっと死んで清々したこの瞬間でさえ、父親と言う名の他人でしかない、あの男は。

「ご子息にはすんなりご納得頂けるとこちらとしても助かりますが、先程待合室に市長と副市長のお姿を拝見しました。お父様は、腕の良い医者だったと評判だったそうですね」
「無駄口叩くわね。その減らず口で幼児の一人や二人、上手く説得しなさい」
「お仕事中にご連絡は可能ですか?」

あからさまに連絡先を聞き出そうとしてくる弁護士から顔を背け、ひらりと手を振る。

「事務所に話通しておくから、何かあったらそっちに伝言入れといて」
「承知しました。所で外は酷い大雨ですが、こんな時も撮影は行われるんですか?」
「大雨?天気予報じゃ降るのは明日からだって、」
「晩夏の天気も気紛れなんですよ」

嘲笑混じりの弁護士の声と、窓の向こうの重苦しい雨雲を目にしたのは、殆ど同時だった。

←いやん(*)(#)ばかん→
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