帝王院高等学校
昨日の歌を振り返って踊りましょう
冬は酷く烟る空も、春を迎える頃には澄み渡る。

「…リヒャルト。お前はまた外に出ただろう?」
「月が余りに綺麗だったので」

心持ちいつもより大きく見える満月を二重窓越しに見上げ、男はワイングラスを持ち上げた。

「濃い白ワインですね。まるで月の光を閉じ込めたかの様な、美しい黄金だ」
「燻したばかりのダージリンだ」
「お茶でしたか」
「我が妻は酔った男を嫌うからな。私が酒を飲むのは、彼女の胸の中だけだ」
「エリシアの男嫌いは病的だ。流石の兄上も治療出来ませんか?」

甲高い獣の鳴き声。天井裏を鼠が走る音がする。この屋敷では人も獣も共存しているので、誰も気にはしない。
野良猫が迷い込み彼らを捕食したとしても、それは自然の摂理だ。人の手が解する不自然より、ずっと正しいのだろう。

「まさか。己の行いの罪深さを涙を流しながら悔い、我が家へ救いを求めた彼女の繊細な心を理解してやり、また癒やす事が出来る者も私だけだ」
「恐ろしい人を妻として迎え入れた兄上は、少々狂っておられる。頭が」
「ふ。褒めているのか?」
「褒め言葉に聞こえたのであれば」

グレアム家の住民は、深夜に目覚める。昼間は使用人と居候の数名が屋敷を切り盛りしてくれているが、健常な皆もグレアムの生活に慣れると昼夜逆転してしまう傾向にあった。故に町の住民には吸血鬼説を唱える者も居るそうだが、魔女狩りを宣う人間は流石に少ない。今は廃れた古い文化だ。

「私が狂っているのであれば、お前もまた狂っていると言う事だ」
「我らは同じ日に生まれた」
「母腹は違えど、ナハト=キング=グレアムが授かった光の子」

日が暮れるのと共に全裸で庭へ飛び出し、娶ったばかりの妻と情熱的なフラメンコを踊る事に意義を見出したリヒャルト=グレアムは、何度目かの夜に倒れた。

「跡取りがこれでは、我がグレアムは父上の代でおしまいだな」
「何を仰るんですか兄上。私が死のうとも、貴方の子孫が爵位を継げば良い」
「その事だが、どうやら私はお前の兄ではないらしい」
「また意味不明な事を」

ベッドの上で全裸で横たわる男は、ワインボトルを持ち上げてコルクを引き抜くと、どぼどぼと己の肌に振り掛けた。
日が遠い冬の、煙で烟った夜であればともかく、同じ日に別々の母親から生まれた腹違いの双子は、兄は目に、弟は肌に呪いを継いで生まれてしまう。

「薬を用意してやっただろう?」
「我が家の薬など恐ろしくて使えたものじゃありません」
「ああ、お前の推測は正しい。天命に逆らうのは、愚かな振る舞いだ」
「ええ、紳士的ではない」
「どうも私には、子供を作る能力がない」

日傘を差せば昼日中も出歩く事が出来たナハトとは違い、兄は外へ出る際、必ず目元を隠した。引き換えにリヒャルトは夜の晩餐会に素顔で出席しているが、まるで真実の双子の様に姿形が似通っている兄弟は未だに一人の人間だと思われているだろう。

「毎日エリシアの胸を揉んでは挟まっている癖に」
「それだけではない。吸ってもいる」
「ああ、紳士の振る舞いとは思えませんね。そこまでの変態性を遺憾なく発揮なさっていて、今更何を仰るのか」

世間を欺く事がナハト=グレアムの悪癖だった。
普段はこれ以上なく紳士で愛情深い男が、6人の妻と8人の子を成した男が。家族以外を虫の様に見ていた事を、屋敷中の誰もが知っている。

「家族に血の繋がりは必要ない。お祖父様はそう仰られたと、母上から聞かされた」
「私達兄弟の6人の母上は、アルビノとして。或いはユダヤとして。外の人間共に迫害された方々」
「我らグレアムは救いを求める者を差別しない。けれどそれは、慈悲ではない」
「家族になれる者は極僅か。バラムは王室の血を継ぐけれど、我らの家族になる資質があります。あの男はユダヤ人のジズを妻にと望んでいる」
「…共に悪魔の名を持つ夫婦、か」

心優しいキング=ノアは、毛が生えていない獣は食料だと言った。牛も馬も兎も口にしなかった男は、魚や蛇や蛙などは好んで食したものだ。けれど彼は家族以外の人類を、食べられない虫だと思っていた。

「愚かしい生が幸福と思うか?」
「絶望を抱く生涯を幸福とは到底思えません。母上から頂いた命を謳歌せずに死ぬ事は、絶望に等しい」
「成程、確かにお前の言う通りだ」

実験動物だ。乞われては薬を処方していたが、平等な慈悲では迫害は終わらない事を彼は知っていた。ソワール=キング=ノアがフランスを追われた日からずっと、母親を殺された日からずっと、ナハトは人間を憎み続けたに違いない。

「我らは死を恐れない。死を恐れるのは無知な生命の証である」
「風と共に流れ、光と共に歌う。大地の掟に逆らう人工的な生は、如何に罪深いものでしょう」

知恵を持たない、他者への自愛を知らない愚かしい人間は虫。きらびやかな光に誘われ、強欲に燃やされている事に気づかない哀れな生き物。その愚かな命を永らえさせる事は、これ以上ない罰だ。

「21年疑問に思わなかったんだが、お前の股間にぶら下がっているそれが、私にはない」
「些細な事です」
「どうも私は女性なのではないだろうかと、近頃考える様になった」
「待って下さい、辛うじて覚えています」
「ほう?」
「兄上の股間にぶら下がっていたものは、兄上がお祖父様の書斎で見つけた怪しげな薬を躊躇なく飲んだ次の日に、酷く爛れて腐り落ちた」
「…そうだったか?興味がない事は忘れてしまう」
「あの惨劇を忘れてしまえるとは、一体どんな脳構造をなさっておいでか」
「この数年はエリシアの乳房の記憶しかないな」
「お手上げですね」
「私達が幾つの時だった?」
「生後9ヶ月程かと」
「そんな昔の事など覚えていられるものか。3日会わないだけで王の顔も忘れる、この私が」
「どんだけ〜」
「何だ今のは」
「いつか流行します」
「そうか」

先に生まれた5人の姉は、その内二人が生後間もなく亡くなり、二人は嫁いでいった先で流行り病で亡くなった。
表向きは流行病と言っているが、その内一人は自ら毒を飲み死んだのだ。愛した男と共に生きる希望を見出したものの、理想と現実は掛け離れていたのだろう。
ナハトは娘を絶望へ陥れた相手の男と、その親族を全員殺した。慈悲深い笑みを浮かべたまま、娘が飲んだ毒と同じ猛毒を使って彼らを死を導いたのだ。

『私からの、せめてもの慈悲だ』

事切れる瞬間まで許してくれと叫び続けた男とその家族に、ノアは最後まで微笑み続けたと言う。
愚かしい生の継続こそが罰にして試練であれば、簡単に殺してやったナハトのそれは慈悲だったのだろう。

「お前はお前で、定期的に外に出ては何ヶ月も寝込む羽目になってしまう」
「そう言えば、兄上がお祖父様の薬を飲んだ日は、私が初めて外に出た日だ。肌が焼けて、寝込んでいたんです」
「自分がアルビノだと忘れているんだろう?」
「まぁ、興味がない事は忘れるので」
「仕方ない男だ」
「お陰様で人生の半分ベッドの上で過ごしましたが、皮膚が焼け爛れたくらいで死ぬつもりはない。治ったらまた月の綺麗な夜、星空の下で踊ります」
「裸でか」
「裸で生まれた人間が服を纏う、その罪深さがお判りでないと?」
「エリシアは娼婦の振りをして男の一物を切り落としていた指名手配犯だ。いつか切り落とされるぞ」
「アイルランド人を憎悪するエリシア姉様は恐ろしい方ですが、兄上と同じ顔をした私の一物を切り落としたりはなさらないでしょう。流石に」
「そうか」

ナハト=ノアは晩年、最後となる息子を抱いた。
リヴァイと名づけた末の弟を生んだ6人目の妻は、生来体が弱く幾つもの病を乗り越え出産を果たし、十歳は迎えられないだろうと言われていた体で、二十歳まで強く生きた。彼女はアルビノでもユダヤ人でもなかったが、体が弱いが故にグレアムの屋敷の前に置き去りにされた娘だった。
ナハトの一人目の妻が見つけ娘の様に育て、自ら妻になりたいと望んだ。リヒトもリヒャルトもそれまで姉様と呼んで彼女を慕っていたが、その申し出の後押しをする様に母様と呼ぶ様になる。
彼女を拾い育てたナハトの一人目の妻はその数年前に亡くなっていたが、他の妻達も新たな妻を迎える事に好意的だった。家族を置く残す事がナハトの望みであり、グレアムの為だと判っていたからだろう。

「マリルーシャ姉様が生きていらした頃はロンドン中の女性を口説いて口説き落としては、己の生爪を剥いで愛の証として捧げておいででしたね」
「そうだな。生えてこなくなるまで剥ぎ過ぎて破傷風で亡くなってしまうとは…」
「死ぬ前日まで女性を口説いておられましたからね。良く刺されずに生きながらえたものです」
「あの方の女好きは最早病気だった」
「愛人達の胸と尻に挟まれて、安らかな最後でした」

最後の一人、ナハトの亡くなった叔母と同じ名をつけられたマリルーシャ=グレアムは人生を絶妙に謳歌して亡くなった。余りの見事な散り際に、彼女の死を嘆いたのは愛人達だけだった程だ。

『私の蜜蜂達。私の事は忘れて、何処ぞの馬の骨と宜しくやりなさい。セックスは女を美しくする』

これが最後の言葉だ。
ナハト=グレアムは娘の死を悲しむ間もなく、マリルーシャの後を追おうとする彼女の愛人達を宥めすかし、それぞれに縁談の話を見つけてきた。それが娘の遺言だったからだ。然しどの愛人も癖が強い女性達だったので、それはそれは苦労したのだろう。
間もなくリヴァイが生まれていなければ、気疲れで死にそうだったナハトの晩年は絶望の底だったかも知れない。

「全く残念ですよ。私は業火に焼かれる凄惨な死に際が良い」
「お前は変人だな。私は最後の最後までエリシアに包まれて死ぬぞ」
「我が家にまともな人間など存在しましたか?」
「否定は出来んな。50を過ぎて我ら双子を産み落とした父上も、最後はまさか腹上死とは」
「父上は愛情深い方でした。5人の妻に娶られた最後は、安らかだったでしょう」
「6Pか。確かに多少、興味はある」
「嫉妬深いエリシア姉様に切り落とされますよ?頭を」
「それもまた、一興」

リヒトとリヒャルトから十年以上遅れてリヴァイが誕生し、子を授かる幸せを思い出したナハトは年甲斐もなく頑張り、頑張り過ぎて心不全を起こした。グレアムにしては珍しく長生きの部類だったが、ロンドンの住民からも慕われていた彼の人望は、葬儀の場で初めて明らかになったのだ。

「姉上達を妻にと望む声が上がっている」
「我らグレアムと血の絆を築きたいのでしょう。くっく、我が家に残っている姉上は血の繋がりなどないのに」
「我らは血を繋ぐ事に然程意義を感じない。家族に必要な繋がりは、魂に結びつくものだ」
「愚かな人間共め。やはり奴らは虫以下だ」
「虫だろうと、我らと同じ命を宿している」

それまでナハト=グレアムのプライベートを知らなかった住民達も王室も、ナハトに2人の養女と5人の妻と3人の息子がいる事をその場で漸く知る事になる。

「あまねく命は、須く欲と言う業を負う」

跡取りとして知らされていたのはリヒト=グレアムだけだった為、リヒャルトは病弱な弟として伝えた。幸いな事にリヒトは人前では顔を隠しており、夜に出歩くリヒャルトは化粧を施して多少の変装をしているので、夜のリヒャルトがリヒトの素顔だと思われているらしい。

「今宵も嘘で塗り固めた世界の踊る様を肴に、エリシアの胸に抱かれて酒を飲もう」
「グレアムは嘘を好む」
「人生は束の間の喜劇だ。回り続ける天体の下、大地と言う舞台で踊る命は星空の如く煌めくだろう」

そしてそれを、屋敷の誰もが訂正しない。

「どうせこの会話自体翌朝にはお忘れでしょう」
「お前もな」
「ええ、興味がない事は忘れる性分なので。どうせ暫くはベッドの住民なので、楽しい夢を見る事にします」
「良い提案だ。所で、聞いてくれるかロイ。私は女性なのかも知れない」
「私はもう寝るので、話はリヴァイかオリヴァーに」
「ああ、そうだった。私には新しい弟が出来たんだった」
「リヴァイは妹では?」
「全く、お前の記憶力はどうなっている?妹はオリヴァーだろう?」
「オリヴァーはバラムの子ですよ。悪魔の名を持つ者は、我が家には居ない」
「ああ、そうだった。オリヴァーは、ジョージ=オリアス=アシュレイの事だったな」
「ユダヤの民は名を隠す。ロイを名乗る私の様に」
「ああ。我らは太陽に厭われた光の民」
「そして貴方は王を名乗る純黒。…真実の名をお忘れなきよう、キング=ノア」

回る。
回る。
見事な満月も軈ては地平線の向こうへ落とされて、世界は再び光に包まれるだろう。

「お休みリヒャルト。いつかお前が望む凄惨な死を迎えられるよう」
「お休みリヒト。いつかお前が望む愛に包まれた死を迎えられるよう」

灰被りの一族は、黎明と共に眠りにつく業を負っている。













「「我らの最期が、眩いものであらん事を」」

























冷たい土の中。
季節が巡らない大地の下は、いつだって冷え切っていた。

「マザー、あの穴の向こうには何があるの?」
「…楽園さ」
「楽園ってどんな所?」
「お前が生まれた場所だよ、アダム」
「どうしてマザーは此処に一人で住んでいるの?」
「今は一人じゃないよ。お前が居てくれる」
「此処はこんなに暗くて寒いのに」
「私は目が見えないからね、明かりがなくても困らないのさ」
「…僕は怖い」

まだ、目に映る狭い世界が全てだと思っていた頃。

「楽園には三種類の人間が暮らしているんだよ」
「三種類?」
「ABC、上から順にABSOLUTELY。決して揺らがない絶対的な柱、彼らは12人しか存在しない」
「…時計みたいだ」
「上手い事を言う。12柱が描く円卓はゾディアクと呼ばれ、左回りに星座が刻まれている」
「時計と反対だね」
「時を巡らせない、永遠の存在だからさ」
「永遠?」
「神は永劫の時の巡りを傍観している。ふふ、まるでランクBだね」

盲目の修道女は囁いた。

「Bは何?」
「BYSTANDER、傍観者。彼らはランクAの忠実な手足となる。…そして最下位はCAPITAL」
「キャピタル」
「またの名を、CITIZEN。楽園で暮らす事が許される、市民の事だ。楽園の住民にである資格を得られるだけの、手駒」
「楽園で暮らすことが許される…」
「私はランクCに成り下がりたくなかった。だから楽園を離れ、この場所を選んだ」
「どうして?」
「…つまらない、プライドだろうね。崩れた柱は戻らない。観る事が出来ない傍観者に意味はない。そうと判っていて私は、見窄らしく老いさらばえていく私を神の視界に入れたくなかった」
「マザーは神様が好きだったの?」
「とんでもない事だよ。神は人を愛さない」
「どうして?」

悪魔の名を与えられなかった、彼女は。



「…愚かで、弱いからさ」

永遠に続く闇の世界に、怯えもせずに。













廻れ。
(独楽の様に)
廻せ。
(オルゴールの螺子の様に)
世界から淘汰されて尚、生に執着する者よ。

踊れ。
(昨日聴いた歌を)
(私は今日歌う)
(明日もし誰かの歌を聴いたなら)
(今度は誰と歌うでしょう)
踊らされるままに。
(愛ではないかもしれない)
(けれど愛に良く似た)

周り続ける星の内側で。
(祈りにも似た声で)
踊らされている事を知らないまま。
(いつか失くしたあの場所へ)
(私は今も還る日を)






体内を巡る真紅の血液が、
(酸素を必要としなくなる刹那まで)















「あ、い、うぇ…」
「う」
「う、え、…お?」
「ああ、上手だよ。私よりずっと上手だ」
「上手って何?」
「ナイスって事さ」
「えへへ」

あの日。

「さぁ、おさらいをしよう。アップル」
「林檎」
「チャーチ」
「教会」
「ABSOLUTELY」
「絶対的な」
「BYSTANDER」
「傍観者」
「CAPITAL CITIZEN」
「首都、市民」
「DEVELOPER」
「開発者」
「The SINGLE」
「唯一神」
「…そうだ、完璧に覚えたんだね。我らはSから始まる」
「Stealthily」
「音もなく忍ぶもの。妖精の笑い声。人の目では捉えられない、地球に救う蟲の事」
「虫?」

大地に巣食う、蟻の様な生活を強いられていたいつか。

「微小な昆虫、若しくは爬虫類を指す。群れを成す存在の事さ」
「ねぇ、シスターは何でシスターなの?」
「神に仕えているから」
「神って誰?」
「我らが光」
「光?何処にいるの?」
「この世界の中心にして、星の中枢に」

あの生活は永遠に続くものなのだと、何一つ疑わなかった。

「地球の中にはマグマがあるんだよ」
「黒き皇帝の最後は、眩い光なんだ」
「黒いのに眩しいなんて、変だよ」
「お前は本当に賢い子だね。鼻ったれヤコブも言葉を覚えるのが早かったんだ」
「ヤコブって誰?」
「ジャックも賢い子だったんだ。甘ったれで無慈悲で、優しい子だけれど容赦がない」
「う?…判んない」
「私達は黒を崇拝しながら、強く光に焦がれる。危険だと知っていて炎へ飛び込む虫の様に」
「火が綺麗だからだよ」
「古来より、火は多く命を奪ってきた。あらゆる生命体の中で唯一火を生み出す術を知っている人間は、どれほど罪深い生き物だろう」

罪の意味も。
自分の始まりさえも。

「…悪い事をしたらアビスに落とされるんでしょう?」
「けれど、お前達は火を絶やしてはいけないよ」
「どうして」
「ふふ」
「?」
「アダムも昔、お前と同じ様に『どうして』と私から答えをねだったものだ」
「だって判んないんだもん」
「絶望に怯え目を閉じてしまったら、最後の希望が見えない。…松明は燃えているかい?」
「うん、大丈夫だよ。さっきイブが外へ行ったから、窓の外は真っ赤だ」

何一つ知らず、知らない事を疑問にも思わず。
暗い世界で唯一の光源である松明の光だけを、決して絶やさない様に・と。彼女は毎日そう繰り返した。永遠の眠りに就く日まで、何度も。

「明るくて、ちょっと眩しい。でも綺麗だよ」
「目を逸らすんだよ。眩いものを直視する事が出来ない生き物は、目を逸らし足元の影を見る。正常性バイアス、人は全てに適応してしまう。良くも悪くも、全てに」
「どうして」
「さぁ。けれどそれが、人の罪なのかも知れない」
「じゃあ、どうして生きてるんだろう。神は人間を洗い流す為に大洪水を引き起こした。復讐の為に空へ続く塔を建てた人は神の怒りを買って、裁きの雷でバベルは崩落した。神はいつでも人間を殺す事が出来るのに、何で僕達は生きているんだろう」
「…賢い子だ。お前はどうだ?」
「僕?」
「この世界はたった一人の神だけが住まう、広大にして膨大な箱庭だった。宇宙の本は読んだかい?」
「うん」

世界にキャストは3人だけだった。

「この星さえ一粒の砂に等しい広大な宇宙に、神はたった一人。時間の概念が生まれるずっと前、停止した世界の中で、神はまず光を生み出した」
「その次に色が生まれたんでしょう?」
「…そうさ、神ですら光に焦がれたんだ。その神に造られた生命もまた、光に焦がれる」
「神様の罪って事?」
「神に罪などないんだよ。神は常に裁く者なんだ」
「判んない」
「神は叱って貰えないって事さ」
「悪い事をしても?」
「一人ぼっちだからね」

ただでさえ狭い世界の小さな教会には、部屋は3つしかない。
ステンドグラスがはめ込まれた聖堂には木で作られた長椅子が数脚、神父の居ない祭壇には女神像が一つ限り。壁際には夥しい数の本棚が並んでいて、長椅子を2つ隙間なく並べてマットを敷いただけのベッドが3つ。元々2列に並んでいたのだろう参拝席の半分は、簡易ベッドで埋まっている。
窓があるのはほんの一部の壁だけで、本棚が置かれていないのは窓の部分と暖炉がある壁の一部だけだ。

「…何か、可哀想。シスターはいつもイブを叱ってる」
「ふふ。叱るってのは難しいんだよ。そして気力と体力も使う」
「ふーん」
「涙なんていつまでも出るもんじゃないんだけど、イブは特別な娘なのかも知れないね。ジャックの様に」
「ジャックも泣いてるの?」
「あの子が心を捧げた神は、私とは違ったんだ」

備蓄庫を兼ねた台所は地下水を組み上げるポンプと、何年も使われていない調理器具が幾つか。
数ヶ月ごとに運ばれてくる支給品は日を追うごとに減っていき、狭いパントリーが尽きるのはあっと言う間だ。

「私はノアに、あの子はメアに。それぞれ、たった一つしかない心臓を捧げたんだ」
「ふーん」
「生ける黒を見た事がある。ノアの遠き祖先はアルビノの呪いを負ってしまい、故郷を追われた。彼らは灰かぶりの一族。光の中では生きられず、けれど光の中で死にたがる。まるで夜光虫の様だろう?」
「呪いって何?」
「神の禁忌に触れたのさ」
「それって悪い事?」
「…お前にもその血が流れているんだよ。神にも等しい、灰の血が」
「判った。グレアムの事だ」
「そうだよ、賢い子だね。流石はソロモンの血を引く子だ」
「ソロモン王は愚かな王だった」
「人の身で神の領域に触れてしまった。…そして、呑まれた」
「何に?」
「…さぁ。オリアスって名のジョージが生きていたら聞いてみたいものだけど、彼は何年も前に死んでしまったそうだ」
「ジョージって誰?」
「ジャックの兄だよ。悪魔の名を持つレヴィ=ノアの忠実な従者だった。ジョージの母親と、陛下の二番目の兄の妻が姉妹だった。共にユダヤの民として酷く迫害された、可哀想な姉妹だったそうだよ」
「ジョージも心を捧げたの?」
「ああ、そうさ。私達伯爵家は、男爵を敬愛していた。私の父は幼い頃に病に倒れたが、ナハト=キング=ノアが救って下さった。そうしてリヒャルト様の家庭教師として招かれ、…公爵家に殺された」
「公爵?」
「キャノンティターニアは砲台を真っ直ぐロンドンへ向けている。ホワイトハウスの4444メートル下、一度火を吹けばバッキンガムごと奴らの屋敷を炎に包むだろう。我らはヴィーゼンバーグを決して許さない」

アダムは此処で、植物を育てていたらしい。技術部が開発したと言う地下で育つ植物は、茸と受粉を必要としない野菜が幾つか。
備蓄庫の片隅にプラントの名残がある。イブは兄の代わりにせっせと世話をしていたけれど、いつからか枯らしてしまってからは、見向きもしなくなったそうだ。

「レヴィ=グレアムが流した心の涙を思い知らせるまで」
「思い知らしたら、どうなるの?」
「…さぁ、どうだろうね。お前もいつか、心を捧げる時が来るだろう。良く考えるんだ」
「考える?」
「そう。知恵の実を喰らった罪深き人間には、考える頭があるのだから」
「知恵の実…林檎の事だ。僕、剥き方知ってるよ」
「ナイフを扱う時は心を鎮めるんだよ。怪我をしても、私は手当をしてやれない」
「平気だよ」
「アダムも林檎が好きだった」
「アダムはイブを置いてアビスに落ちちゃったんだ。イブは泣いてる」
「罪を犯したからだよ。…仕方がない事なんだ」
「アダムは神の弟なのに、光になれなかったの?」
「あの子は影だったからね」
「影」
「そこにあるけれど存在しない、光の残骸の事だよ」

クリスティーナの名を与えられた若いシスターは、修道服で泣き暮らす。親友を失った直後に兄を失い、彼女の心は今も尚、悲しみの涙を流し続けているのだろうか。
彼女が待ち続ける『光』は未だ訪れず、泣き疲れては眠り、起きては泣き腫らした目で一冊の手帳を読み耽っているだけ。あんなに小さな読み物をまだ読み終わらないのかと、この狭い世界で最も小さい生き物は考えた。

「柘榴がまた、腐ってる」
「果物は日持ちしないから、仕方ないね。…何処かの物好きが果物を配給リストに書き記したんだ」
「うん。リストの責任者はカミルって書いてある」
「もうこの世には居ない悪魔の名前だよ。女には与えられない銘を欲しがって、呆気なく死んでしまった」
「イブはイールって言ってた」
「そう、ill。あれは病気だったんだ」
「病気?」
「呪われた血を継いでしまった。男爵に仕える伯爵家の分際で、…穢れた王室の血を」

世界の半分以上を占める地底湖の一部には、天井が崩落した場所がある。
そこからは僅かな光が差し込み、夜には煌めく星空が見えるそうだ。けれど此処には船などない。透明度の高い湖も、教会からの明かりが届く場所以外では永遠の闇に包まれている。
アダムはいつも湖を泳いでは、あの場所から外の世界を眺めていたそうだ。母親から聞いた然程多くない話の殆どは、アダムの事だった。
見ず知らずの伯父、外の世界で死んでしまった神の影。彼の名は消されてしまったらしい。アダムは彼の名前ではないのだと、知っているのはその程度。

「アダムは、エアリーと同じ所には行けないんだって」
「土の中で生まれた者は、軈て土に還るのさ。土の中から生まれた蝉は空を飛ぶ力を与えられたが、最後には大地の上に落ちる。…そうだね、イースターエッグから生まれた神の鳥もきっと、翼を休めるのは大地の上だろうよ」
「上。外の世界?」
「…興味があるのかい?こっそり私の本を読んでいるんだろう?お前もいずれ、私を置いて行ってしまうんだろうね」

狭い地下世界、教会の側に生える林檎の木は2本。誰も世話などしていないのに気紛れに実をつける、アダムが残した最後の植物。

「僕はずっと此処にいるよ。何処にも行かない。天使は楽園に居るんだって、本に書いてあった」
「エンジェル…」
「だって、此処はエデンだもん。楽園は天使が暮らす所なんだよ」

楽園の地下に入る資格を、子供は持たない。
真紅の髪を持つ、深い藍色の双眸の幼子だけが。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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