帝王院高等学校
楽園喪失前夜
「あ、あああぁ、あああああああああぁああああ」

この星には。

「Why! Why did you have to be born?!(どうして!っ、どうして生まれてきたの?!)」

夥しい数の生命が混在している。
生命の数だけ言語が生まれ、些細な外見の違いで争いは生まれ、命の炎はたやすく揺らいでは瞬く間に消えてしまう。

「You say that I should't have been born.(…貴方がどうしてと問うのか)」
「汚らわしい、黒羊…!」

今もこの瞬間、骨と皮だけの体に繋がれたチューブを引き抜いた女の命の灯火が、激しく震えている様に。

「あの方は完全だった!アダムとイブは世界の始まりの父と母になるべきだった!悪魔が…!女を否定して男になる事も出来ない醜い悪魔!ああ、蛇の様にしつこいったらないわ…!私のノアを誑かしてイブの座を奪っただけじゃ飽き足らず、まだ私の邪魔をしようと言うの?!」
「You should have killed me before I woke up, but failing that Just so you want me to die.(つまりは死ぬべきだと。ならば、目覚める前に殺しおけば良かったんだ)」
「私はあの人のイブになる筈だったのに!私だけが彼を理解する事が出来るのに!ずっと見ていたのに!ねぇ、彼は何処なの?!ねぇ、早く陛下を呼んでちょうだい!イブから希望の光を奪った悍ましい蛇は、もう世界の何処にも居ないんでしょう?!あ、あははははははははっ、アイラブユーも言えない癖に欲しがったりするから、罰が当たったのよ…!」

いつか、燃え尽きる前のキャンドルを見た事がある。
深夜のバースデーパーティー、多忙な祖父からのプレゼントは沢山の絵本と幾つもの生命を記した図鑑。夜更けまで部屋の飾りつけに勤しんでいた片方の父は夢の中で、いつも明け方まで仕事を片づけているもう一人の父は、ケーキに立てられた蝋燭を吹き消すのを待って、こう言うのだ。

『…花を見に行こうか。透ける様に白いお前の桜色の皮膚と同じ色の、満開の花を』

何せ生まれたばかりの乳幼児に、ケーキを食べる事など出来はしない。
密やかに(It's stealthily、透明になったかの如く)、完全犯罪を犯す様に(In other words the absolute crime、絶対的な犯罪)、月のない深夜。

『どうだ神威、気に入ったか?お祖父様がお前の為に用意してくれた、花と光で溢れた空中庭園は…。父さんの誕生日に植樹したんだ、屋敷の庭からな』

外は春の嵐だった。

『ほら、見えるか?桜がとても綺麗だろう。この桜は受粉する事が出来ないんだ。自家不和合性と言う』

轟々と山風が唸り、真っ黒に塗り潰した空から叩きつける恐ろしい雨の中で、硝子張りの庭園に咲き綻ぶ染井吉野はたった一本。

『此処はまだ完成したばかりで、咲いている花はこれしかないんだ。お前の一回目の誕生日に間に合う様に、と言っていた。…くっく。また小難しい事を教えていると、オオゾラに叱られそうだな』
『こむずかしいこと?』
『…まだ言葉を覚える必要はないよ。お前の母親が何を言っても、理解する必要はない』

言葉は容易く刃に変わる。
言葉なき悪意は瞳に出る。
全て、あの人から教わった事だ。母親を選ぶ事が許されない自分に、彼だけはあの瞬間、この星の真理を教えてくれていた。




「Why did you give birth to me?(どうして産んだ?)」

この星には、










The fall of Lies, the desperate truth dawns.







己を守る為についた嘘は、
いつか己の首を落とす刃となるだろう。


ならば他人の為に塗り潰した嘘が崩壊した後、
絶望的な真実は、


一体誰の、





…何に、なるのだろうか?











『この星には、夥しい数の炎が潜んでいる』


この星には、夥しい数の炎が潜んでいる。

『肉体に魂が宿るのか、魂が記憶を与えるのか。
 多くの人間が作り出してきた実に様々な宗教では、死後についての絵空事が描いている』

何処までも広がる宇宙の極一部でしかない星の渦の、更にその一部。

『生命の器たる肉体に魂が宿り、意志として自我が芽生えれば、それは誰からも認められる生命体になるのだろう。例えば人間の形をしていて、自我があり、言葉を知ればそれは最早人以外の何者でもない。疑う要素はない。誰もが己と同じ人間であるのだと無意識で信じる筈だ』

奇跡的な確率で誕生した地球の内側で生きる人間は、その生涯に於ける一喜一憂の全てを記憶する事が出来ない。

『輪廻転生が現実に有り得るのであれば、生命の本質とは魂であるべきだ。何故ならば肉体は死ねば直ちに腐敗を始め、遠からず風化してしまう。炭素だけがいつまでも残るのだろう。白く変色するまで燃やしてしまえば、魂も肉体も存在しないただの骨だ。いつか生命体だったものの、骨格だったもの。それを説明するにはたったこれだけの言葉で事足りる。その骨格だったものが肉を纏っていた頃の記憶は、白骨自体には何一つ残っていない』

喜びも悲しみも少しずつ忘れ去る事で新たな明日を受け入れ、新たな感情を産み落とすものだ。

『然し今一度問う。人の自我とは意思そのものであり、人の生涯はその全てが誰かの記憶にのみ記録されるものだ。例え映像として残ろうと、それを見る者が現れなければ記録は記録としての役目を果たしはしない。
 記憶とは大脳に刻まれるものだと人類は結論づけた。血が巡り続ける限り酸素が運ばれ心臓が稼働し、人は己の生涯を歩むと共に数々の記憶を蓄積していく。心臓がなければ動くまい。脳がなければ記憶する事はないだろう。ならば人の魂と呼べる自我とは、意志とは、須く肉体の一部である脳・血液・細胞、それらに刻まれるものべきだと言うより他ない』

今日の喜びも悲しみも、明日には既に風化しているだろう。

『されば再び問う。
 果たして輪廻とは存在するのかと。肉体に記憶が宿るのであれば、人は腐敗を始めた瞬間から溜め続けた記憶と共に魂を風化している筈だ。魂が肉体に宿るのか、はたまた肉体が魂を産むのか。そのどちらも正解の様でいて、まるで遠い仮定の様にさえ思えてならない』

忘れる事が出来ない者は死んでいく。生きている者は死んだ者を儚み、明日には忘れている。
世界には慈悲などない。無慈悲であるが故に自由である事を受け入れて、生命は誕生と死を繰り返していく。

『人は欲深い生命だ。生きる為だけでは物足りず、理由なく他の命を奪う。見た目を飾る為だけに毛皮を狩り、愉悦を求めて競争し、いつか食う為に狩っていたマンモスを絶滅に追いやって尚も、牙欲しさで象を狩る。戯れに家畜を増やす。育てもしないのに産む事を善と言う。文明が栄える度に滅ぶ。何度繰り返しても容易く忘れる』

奇跡の様で必然と言わざる得ない生命の起源を幾ら遡っても、それを正しく紐解ける者はついぞ現れなかった。宇宙を構成する夥しい数の星々の如く、或いはそれよりも遥かに多くの命が生まれ死んできたこの星では、地球を青く染める水以外の全てが消えていく存在だった。

『輪廻が有り得るのであれば、何故こうも人類は失敗を繰り返すのだろうか?
 少なからず、疑問に感じた事はあるだろう。つまり輪廻転生とは所詮死に怯えた人間が慰めの為に生み出したに過ぎない絵空事であり、永き時間の中であらゆる生命は誕生と死を繰り返し、そして全てが無へ帰るだろう。
 無から産まれたいつかの如く、死ねば消えるだけの我々は、繰り返す事が出来ない有限の一部だ。戻る事が出来ない時間の流れと何ら変わらない』

水から生まれた生命はいつか大地に還る。宇宙で生まれながら、故郷たる宇宙を知る事が出来ないまま死んでいく哀れな生命の、その生涯が奏でた五線譜は地球だけが記憶しているのだろう。いつか崩壊する瞬間まで。

『以上の推察から、私は決定的な仮説を提起した。
 人には魂などない。命は死ねば終了する。記憶は何にも継承されない。生まれ変わりなど有り得ない。人は個として産まれ群れで暮らし個として死に、無の一部になる。肉体に宿った魂と呼べるだろう自我は無限世界で永久の眠りについたまま、二度と目覚めはしない。
 罪深き人の業さえも虚無の底。そこには時間の概念など存在しない、真実の常世だ』

人の一生とは正に喜劇だ。星より遥かに短い生涯、星の様に燃え尽きる事も出来ず死ねば直ちに腐敗していくだけ。その中の幾つかが死して尚も残り続けるが、ミイラとして晒され続ける『有』と誰もに平等な『無』は、どちらが幸せな結末だろうかと。
己の矮小な人生の道中で、いつか考えた事がある。

『然しこの世界は存在している。何処かで始まったと言うより他ない。何らかのターニングポイントが無限世界に有限の種子を目覚めさせた。ギリシャ神話に於けるクロノスの種、混沌から産まれたガイア・エロス・タルタロスが器・魂・業をそのまま現しているのであれば、その全てを持った生命が誕生した瞬間に時限も誕生した事になる。

 正に同神話にも、ガイアが自らが産んだ天空の神を夫とし、クロノスを産み落としたと記述されている。然しこれは人が描いた絵空事でしかない。だが実に興味深い内容でもある。

 無とは混沌そのものだった。

 混沌には光があって光がなく、つまりは色があって色がなく、無でありながら有だ。混沌は全宇宙の母たる女、ガイアを産んだ。ガイアは天神ウラノスを誕生させ自らの伴侶に選んだが、クロノスは与えられた大鎌で、父親の男性器を切り落とした。母に命じられるままに。

 己を恥じた天の神は去る事を選んだ。ガイアに寵愛されただろうクロノスは、父の最後の言葉に縛られる事になる。

 愛され、甘やかされ、傲慢に育ったクロノスは自らの子を喰らい、ゼウスの怒りを買う。傲慢な息子に手を焼いていたガイアはゼウスを唆し、とうとう6番目の息子の前でクロノスは倒れた。クロノスが喰らった5人の子は吐き出され、三人ずつの兄弟姉妹は初めて顔を会わせる機会に恵まれたのだろう』

容易く忘れてしまうからと言って、人はその全てを思い出せない訳ではない。
風化した記憶の残片を手探れば、当時の記憶は感情と共に蘇るだろう。あの日の喜びも、匂いも、景色の鮮やかさも。あの日の悲しみも、音も、震えるほどの恐怖も。

『クロノスが統治していた時限世界に天界、海、冥界が誕生した。独裁者の統治が如何に恐ろしい事か永き戦いで知ったゼウスは、兄らと共にそれぞれの世界を統べる事にしたそうだ。
 見ろ。世界は常に三脚で支えられている。一つでも二つでもなく、三つだ。三位一体とは、古くからキリスト教が唱えている森羅万象の根源でもある。
 肉体だけでも、まして魂だけでも生きられず、何の理由もなく産まれ落ちた分際で己の意味を求めたがる強欲な人間の業。それら全てが存在しなければ、世界は世界として存在する事が出来なかったのかも知れない。
 ならば虚無もまた、酷く不安定な概念だ。全てが存在し全てが存在しない混沌など、何が起きても不思議ではないだろうか?』

生きてさえいれば、人の体はその生涯を記憶し続ける。思い出そうとすれば蘇る。生きている限り。
喜びも悲しみも全て淘汰した先、最後の瞬間が安らかであれば、それが真実の結末なのだ。それ以上の終幕など何処にも存在しない。
自らの手で明日を手放さなければ、今日の悲しみを抱いたまま一歩踏み出そうとするのであれば。

『男でありながら男の役目を果たせなくなった天王星ウラノスは何処へ去った?
 天を総べるゼウス、海を総べるポセイドン、冥府を総べるハデスの威光に平伏し畏怖しながら大地で暮らす権利を得た生命達は、大地で暮らしながらクロノスの恐怖に縛られ続ける。

 クロノスに協力した巨人族で、結冥府へ落とされなかったアトラスは天と地を支え続ける罰が与えられ、罪深き者達はハデスが総べるタルタロスの牢獄へ閉じ込められた。浅ましきガイアはオリンポスに牙を剥いたが、獣の姿で逃げるオリンポスの神には頼らずゼウスは戦った。神の力では倒せない巨人族を、人の血を引くヘラクレスと共に打ち破ったのだ。

 神々の母ですら過ちを繰り返す。ならば人はどうだ。クロノスが倒れて尚も続いている時間の流れは、果たして正常なのか?

 肉体は男と女から生まれる。
 意志はガイアの如く己一人が生み出し作り上げる魂そのもの。
 それならば業は、いつから存在する?生涯に於ける全てが偶然だと決めつける確証はない。万一、業と言う目には見えない宿命の様なものが世界に存在するのであれば、我々の存在こそが虚無の業なのだと結論づけられる。

 無とは一つとして存在しないものを指す。
 混沌とは全てが混ざり合ったものを指す。
 宇宙は矛盾の産物だ。有限に縛られた存在でありながら、果てしなく無限に酷似している。

 ノアと呼ばれる者は、去った後に光と呼ばれる。…矛盾しているだろう?』

けれど常に、舞台で踊るキャストだけはそれを知らない。
脚本の通りに喜び、嘆き、笑っては涙を流した先に、結末を迎えるまでは。演者の誰もが必死に演じている。あるかどうかも知れない結末の為に、今この一瞬を全力で。

『いつか私は、その全てを解き明かしたいと考えた。
 それ即ち、私個人の肉体に芽生えた業に他ならなかったのだ』

我が身は踊った。
その他大勢の遺伝子の境で、一人分の遺伝子として。
つまりは人類の一部として。
一介の雄として。牝の前で羽根を広げる孔雀の如く、灼熱の太陽の下で叫ぶ夏の蝉の如く。

『子守唄が招く眠りは安息か、虚無か。共に答え合わせを』

この愛が届かないのであれば、光る事も轟く事もなく死んだのだろう。虚無から生まれた命が辿る、宿命のままに。

『最終文責。
 人間科学部名誉教授カエサル、…いや。この場で一行訂正する』






いつか、余りにも鮮やかな薄紅色の世界に、それは現れた。
正に人の血を吸ったかの如く色づいた染井吉野は、彼の存在を咽び泣くが如く祝福し、歓喜し、狂った様に舞い続けたのだ。散り急ぐ事も構わずに。

此処に最後の言葉を残そうと思う。
泡沫の春風の如く吹き抜け、誰の手にも残る事なく過ぎ去りし日々の残片を。



僅かな光の粒を灯して黒に溶けた、脆弱なノヴァの記憶の全てを。







『最終文責。帝王院学園東京本校高等部、帝王院高等学校所属3学年、』





…さぁ、結末の向こう側へ還そうか。


















「まだ笑ってるの?」
「…無意識でした。私は笑っていますか?」
「さっきからずっとニコニコしてる。楽しかった?」
「お腹が膨れて苦しいくらいだけれど、…ふふ。今日が人生で一番楽しいと思います」

ちゃぷちゃぷと、小さな水溜りを見つける度にわざとらしく踏んでいく女の少し後ろで、自棄に鮮やかなビニール傘を指している人は口元に手を当てた。
叶貴葉は眩しいものを見る様に目を細め、照れ隠しの様に水溜まりを大きく踏み締める。

「…お兄ちゃんは皆、僕に優しいんだ」
「そう」
「冬ちゃんも文ちゃんも、お勉強が大変だからたまにしか帰って来ないんだけどねぇ」

霧雨だ、濡れていこう。そんな嗜虐的な台詞、誰が言い出したのだろうか。
いつも何処かで降っている刹那の恵み。降らなければ生き物はすぐに死んでしまうけれど、降る事で死んでしまう事もある。恵みの雨なんて何処にもない。癒しの雨なんて何処にもない。

「お父さんが死んだ時、僕はまだ学校に通ってなかったんだ」
「マチルダが亡くなった時、貴方はまだ6歳だった」
「入学式は行ったんだけど、一緒に来てくれたお父さんがあの後倒れちゃったんだ。…破傷風なんて、今になれば嘘みたいだよねぇ」
「…あの子には我が家の呪いが伝染してしまったのでしょう。遡れば王族から発症した、忌まわしき血の呪い」
「家の近くには山と川しかなくて、住んでる人達はこの町は昔から変わらないって言うのに、神社もお寺もないんだ。だから観光客も滅多に来ない」

透明なガラス瓶の中、甘ったるい飲み物がしゅわしゅわと弾けている。何年振りに飲んだのかもう思い出す事もないラムネの瓶に閉じ込められた硝子玉は、まるで自分の様だった。徐々に炭酸が抜けていく事を判っていて、舐める様にちびちびと。然し時間を持て余しているのかと問われれば、貴葉は迷わず首を振る。

「たこ焼きばっかり食べてたけど、気持ち悪くない?」
「ちっとも。本当はもう一口食べられると思っていました」
「無理しちゃって」
「年寄りだと思って侮っていますね?」
「ふふ。さぁ、どうかな?」

美しい祖母が手に持つ透明な傘のビニール部分に、帝王院学園を英語表記にした手書きのロゴがある。

「好きなものばかり食べてると、今に飽きちゃうよ」
「飽きませんよ。ロンドンへ帰ったら、シェフにお願いします」
「嘘だぁ。帰ったら今日の事なんて、すぐに忘れちゃうんだ」

色とりどりの油性ペンで根気よく書かれたロゴは全部英語だったが、所々スペルが間違っていて、文字の勢いもデザインも悪くはないがとても読めたものではない。そもそも帝王院の表記が『MIKADOWIN』になっており、素直に読めばミカドインではなくミカドウィンだ。
ミカドさんは一体何に勝ったのだろうか。

「意地悪な子」
「おばあちゃんは優しい子の方が好き?」
「いいえ。陰口を言ういけ好かない人間より、正々堂々とババアと呼ばれた方が潔い」
「うふふ、本当に日本語が堪能だねぇ。話し相手も居なかったのに、どうやって勉強したのか知りたいなぁ」

などと、つまらない疑問を抱いたのは叶貴葉だけだったらしい。
ロゴと言えば聞こえは良いが、単に落書きされたビニ傘と言えばそれまでの男子高校生からの貢ぎ物をしっかり広げたまま、王族に近しい立場である筈の女帝はツンと唇を尖らせる。90歳を過ぎているとは到底思えない真っ直ぐな背中と、皺こそあれど白雪姫の様な肌が、雨で霞んだ世界ではとても瑞々しく見えた。

「お上手を言っても信じませんよ。先程の少年達には、きっと私の日本語は酷いものに思えたのでしょう」
「うん?」

エリザベート=セシル=ヴィーゼンバーグは腹ごなしの散歩を提案した孫娘に付き合いながら、ぷくっと頬を膨らませる。若さによるノリと、幼い頃からの閉鎖生活による無邪気さで公爵に接していた学生屋台の店主らは、堪能ではない英語で熱心に話し掛けていたものの、セシル本人はそれが不満だったらしい。

「ショップストリートの外れで、誰かと揉めている様だったでしょう?」
「あー、うん。タチの悪いお客さんだったみたいだねぇ」
「私達にはあの場を離れる様に言ってくれましたが、心優しい彼らが心配です」

自分の日本語が通じてないから気遣わせてしまった、とでも思っているのだろう。
実際はどう見ても外国人のセシルがすらすらと小難しい表現を使って会話しているので、平均偏差値50前後の少年らには全てを理解する事が出来なかっただけだと思われた。然し実情は『外国人とは英語で喋りたい』と言う年相応の好奇心だったに違いない。他人の気持ちなど知った事ではない貴葉にも判るのに、女王に続く権力を持つ女公爵には難しい様だ。

「平気だよ、大丈夫。喧嘩になったら警備が来ると思うし」
「ですが…」
「あの子達だっておばあちゃんには優しく見えたかも知れないけど、本校のEクラスは工業科って呼ばれてるんだ。日向と二葉とは違って、いわゆる『不良生徒』なの」

なので掘り下げた説明はしない。貴葉が先程の少年らの本心を知っている訳ではないからだ。

「私には彼らの方が純粋な少年に見えました」
「うふふ、言えてる♪でもおばあちゃんは二葉を跡継ぎにしたいんでしょ?」
「ええ。あの子の方が…目立ちたまり?でしょう」
「惜しい、目立ちたがり。僕から見れば、日向も十分目立ってると思うけど?」
「サジタリウスは底が見えません」
「射手座の賢者か。人馬一体の弓使いケンタウロス」
「あの子はライオネルを頂く我が家に紛れた馬です。肉食獣にその身を捧げる餌に擬態して、我が家を縦横無尽に踏み荒らす魂胆でしょう。…そうと判っていても、証拠が見つからない」
「ああ、そう言う事?二葉だったら影でコソコソしないよねぇ。正々堂々と『今からこの公爵家を乗っ取ります』って言いそう」
「ふふ。私もそう思いますが、ノアの従者が略奪する程の価値はないでしょう」
「ヴィーゼンバーグって、そんな状況なの?」
「ええ。ハーレムに収まっていない雌は、私だけです」
「ハーレム?」
「ライオネスと呼ばれた私に残っているのは、マチルダの代理として預かっている公爵の実権だけ。先に死んだ義妹、義弟の子孫を含めた公爵筋を筆頭に、親族達はあの子に取り込まれた」

あの子、と言うのがハーレムの王なのだろう。つまりはそう言う事だと貴葉は肩を竦めた。

「私以外の全員があの子を群れの長と認めていれば、私に悟らせず利権を奪っていく事も可能でしょう。私に出来るのは、先のない余生が尽きるまで静観してる事だけです」

己の人生に絶望して希望など持てないまま、折角助けられた命を粗末に扱っていると、生きる理由をやるとばかりに遠野龍一郎は組織内調査部の権限を与えてきた。ステルス在籍時代特別機動部長だった彼がどうして組織内調査部長の社章を持っていたのかは判らないままだ。以降の貴葉はアメリカに留まり、ルーク政権を間近で観察していた。
ほんの数日前、彼女の『天神』から帰って来いと命じられるまで。

「…僕に殺せなかったくらいだから、大丈夫だと思うんだけどねぇ」

そんな貴葉にも、今の円卓でたった一人だけ、素性が知れない枢機卿がいる。

「あの子に、何かしたんですか?」
「王子様の前で殺そうとしたら、その王子様が庇ったんだ。…いつかの逆だったよ。まるでお姫様みたいだった」
「ヴァーゴ…」
「…円卓の中には、褐色の肌が二人居るんだ。エデンはお姫様を庇ったけれど、もう一人はどうだろうねぇ」
「…」
「亡命を求めて縋ったロンドンの大使館で、母親を犯罪者呼ばわりされた、可哀想なニュージーランド人は」

祖母の瞳を見る事が出来ずに、揺らぐサファイアの瞳は、地面へと落とされた。

(#)ばかん→
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