そういやあの日も君がいて(ルーペ、クロム)
先ほどまでくすんだ赤い色を見せていた空が、群青色に染まってきた。
少量の絵の具をたっぷりの水で薄めていくように静かにゆっくりと変化していく空。
明かりなしに室内での読書を続けるのが難しくなってきた頃、ルーペは視線を感じて、パタリと本を閉じた。
窓際に置かれた椅子に座り、こちらを見つめる少年と目が合う。大きな黒い瞳は夜の闇を含んでか、深みを増して神秘的な黒を表していた。
王都の中でも閑静な住宅地として有名なこの地区にある二階建てのこの家は、一人暮らしには広すぎるものだった。
窓際のその席はいつの間にかクロムのお気に入りになっていたのだ。
「何?」
「そんなに面白いのか?」
何が、とは言わなかったが、たった今厚い表紙を閉じたこの本についてだとはすぐに理解できた。
いや、この本と言わず、本全般に対してか。
クロムとは長い付き合いではあるが、彼が読書をしている所を見た事などほとんどない。
姿を消している時はどうであれ、ルーペの知っている限りではボーッと外を眺めていることが殆どだ。
「面白いよ。クロムも読んでみるかい?」
「いい」
考える素振りも見せずに却下。興味が無いのか、クロムにとっては積まれた本が椅子になる程度の関心だ。淡々とした様子の彼は、窓の外に顎を向けた。
「もう夜だ」
そうだね、とクロムの小さな背越しに外を見れば、まだほんのりと薄明るい空に強く輝く星があった。
「何がそんなに面白いんだ?」
今日のクロムはやけに饒舌だ。
何事にも興味を持つことが無い彼がこんなにも食いつくのは珍しいことだった。
そんな彼に小さく肩をすくめて、ルーペは片手に持っていた本をクロムに差し出した。
「読んでみればわかるさ。毎回新しい発見がある」
手を伸ばせば容易く手に入れられる未来への唯一の鍵。
そして何より、本は孤独を癒してくれる。
知識は武器になった。
泉のようにこんこんと湧き出てくる知識。それは人間が存在する限り続くのだろう。
ふと思い出すことがある。
埃っぽい薄暗い部屋の隅。窓の外のどこか遠くで顔も知らない子供たちのはしゃぎ声が聞こえる。
雨の日。しとしとと降る雨が心地よい音楽のようだ。家々の灯りが雨に反射して、ぼんやりと幻想的な光を纏っていた。扉の向こうから自分の名を呼ぶ師匠の声。
晴れた日の木陰。澄んだ青空に雲がゆっくりと流れている。頭上の木の葉が優しく日差しを遮り、軽やかな風がページをめくった。足元に影ができたと思えば、しゃがみ込んで不可解そうにこちらを覗き込むクロムの顔。
パタリと本を閉じて顔を上げた時に見えた世界。色や香りなどの感覚が鮮明に呼び起されるのだ。
「そんなことより、食事はいいのか?」
しかしクロムにはやはり本は興味の対象ではないようだった。
顔の前に差し出した本を一瞥しただけで体を半歩ずらしていた。
そんな様子に苦笑をして、閉じた本を机の上に戻す。
室内はすっかり暗くなっていた。このままでは床に積み上げた色々なものに躓いてしまう。
椅子を引いて立ち上がった時に軋んだ身体と、きゅうと切なげに鳴いた腹の様子に、そういえば朝から何も食べていない事を思い出した。クロムはそのことを気にかけてくれていたようだ。
休日はいつもあっという間に終わってしまう。
「そうだね、せっかくだから夕食でも食べに行こうか」
机の上に置いてあったランプに火をつける。
立ち上がると共に目の前の少年の頭に感謝の意を込めて手を乗せる。見た目よりも柔らかな髪質だ。
「触るな」
しかしそれもすぐに冷たくあしらわれるのだった。
軽く伸びをすると、近くに無造作に掛けられていた上着を羽織り、外へと向かった。
もちろん、めんどくさそうに顔をしかめるクロムの首根っこを掴んで、だ。
そういやあの日も君がいて
Title by No News Is Good News
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