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「待て、佐紀‥いや‥狐!!」
目の前を通過していったひどく美しい妖異からはっと我に返り、秀吉は慌てて馬に跨り佐紀を追いかけた。
大声に佐紀が億劫そうに振り返る。
「お前の名は何だ、狐‥お前は佐紀の何なんだ」
歩くような早さでふわふわと浮かぶ佐紀に併走しながら尋ねる。
佐紀は何とも優しげに、慈しむように己の手を胸元に宛てた。
「妾は三国伝来九尾の妖狐‥この国では‥五百年ほど前まで玉藻前と呼ばれておった。そうよな‥佐紀が胎に置き忘れた生命を補う物とでも思えばよい」
秀吉は眉を顰めた。
玉藻前など、まさに御伽草子の中でしか聞いたことのない名前だった。
輪廻転生を繰り返し、美女に化けて国を傾ける狐の姿をした大妖怪。
御伽の中では大陸王朝を数度滅ぼしたのちに日本で帝をたぶらかし、陰陽師と源平の武士によって退治されたはずだ。
その身体は恨みから障気を吐き出す殺生石に化したとも言う。
「信じぬならそれもよい。妾が何故佐紀に憑いたかは、人には解らぬ因果の故としか言いようがないわ。妾とて人の心の因果は解せぬ、それと変わらぬ事よ」
諭すように、しかし結論は靄に隠したまま佐紀は静かに述懐した。
だが不意に、何かを思い出したようにその場に静止した。
僅かに黙考した佐紀は、またふわりと浮いて秀吉の目の前に舞い降りた。
羽衣を風にそよがせながら、馬を歩ませる秀吉の視界の斜め上に留まった佐紀は中空に手をついて秀吉に顔を近づける。
風に揺れながら優雅に空を泳ぐ姿は、玻璃の鉢を漂う金魚にも似ている。
秀吉はふとそんなことを考えていた。
「妾のことは良いのじゃ、貴様に頼みがある」
そう言って佐紀は小さく囁きかけた。
「佐紀の友垣に推挙したい男がおるのじゃ」
「ほう?」
秀吉の表情が明るくなった。
家の成長より遙かに速い勢いで身代ばかりが大きくなる羽柴家は今深刻な家臣不足にあった。
だから妖の推挙だろうが人材は喉から手が出るほど欲しいのが本音だ。
予想以上の好反応に佐紀の笑みも深くなる。
「並外れて賢く弁舌も立ち、弓馬の道にも明るい。佐紀が寺を抜けては遊んでおった相手じゃ」
「お前も中々可愛いところがあるじゃないか、で?その者の名は」
「氏は大谷、名は紀之介‥坊官の息にて血筋を辿ればさる高僧に至ろうが、今は京を逃れ近江に隠棲しておる」
佐紀はふわりと一回転すると秀吉の傍らに寄り添った。
「佐紀に妾が憑いておることも知っておるゆえ、頼み参らせる」
狐の房尾のように羽衣がひらひらと揺れる。
「佐紀の願いとあれば仕方ない、その紀之介も迎えよう」
秀吉が頷くと、佐紀はくすりと笑って首筋に腕を回した。
「礼を申すぞ、佐紀の主」
「な‥さ、佐紀」
そのまま鞍にすとんと腰を下ろす。
顔に似合わず‥それは中身が別人なのだから致し方ないが‥大胆にしなだれかかった佐紀は困惑する手元から無理矢理に手綱を取った。
「そうと決まれば早よう参るぞ、馬鞍は好まぬが仕方あるまい‥駒よ、疾く駆けよ」
こうして秀吉はなし崩しのように二人の若き逸材を手にすることとなった。
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