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「この寺にある書という書は全部読みました、完璧に頭に入ってます」
「完璧に‥?」
はい!と佐紀は誇らしげに肩を竦めた。
「佐紀、物覚えにはとっても自信があるんです」
「ほう、例えば?」
俄然興味を持った秀吉の問いに、佐紀は予想を遙かに超える答えを示して見せた。
膨大な教典や史書を誦じるばかりか、二十一代に渡る勅撰和歌集それぞれから秀吉が何気なく言った頁に割り振られた和歌を作者に至るまで全て答えてみせた。
正直、それが正しいのかどうか確かめる方が骨だと思われる量の情報が、すらすらとその愛らしい唇から紡がれた。
正継が語った幼い頃の彼女の信じがたい話もこうして見ると俄に真実味が増してくる。
「見事なものだな、これはかなり凄いぞ佐紀」
腕を組み、顎を撫でつつ感心する秀吉に、佐紀は嬉しそうに笑みを浮かべた。
そう言えば、正継によれば石田父娘は年に数度の文の遣り取りが唯一の交流なのだという。
彼に再び会った時は、お前の娘は大層賢い美人になっていると伝えてやろう。
そんな殊勝なことを思いながら、秀吉はふと空になった茶碗を示す。
「あぁ佐紀、もう一杯茶をもらえるか」
「あ‥はい」
「袱紗は要らんぞ、そっちの髪もだ。俺はお前に穢があるなど思っていないからな、ゆるりと持ってきてくれ」
襖の奥に再び引っ込んでいった佐紀の背にそう付け加えた後。
残った秀吉は再び腕を組み直した。
「さて、どうする?」
正直、佐紀は予想を超えていた。
官吏の数合わせにするつもりが、その才覚‥特に膨大な知識とそれを使いこなす知恵においては自分に劣らないのではないかとすら秀吉は感じていた。
もしも彼女を戦姫として側に置いておくことが出来たなら。
書府一つまるごと持ち歩くのと同義ではないか、竹中半兵衛ら優秀な参謀と共に使えばとんでもなく役に立つだろう。
秀吉の頭の中では人使いの算盤が佐紀を招くべきか否か、迷いがちに上下していた。
「問題はあれだな、狐憑きの風聞とあの外見だ」
秀吉自身は、狐憑きだろうと有能であれば家臣にすることに一向に障りはなかった。
しかし、他の人間は違う。
異人のような金の髪も狐憑きの噂も、必ず佐紀の行く手に影を落とす。
未だにあやふやな出自を理由に非難を受ける秀吉にはそういう障りの厄介さが身に染みて解っていた。
(いらぬ後ろ指を差され、いらぬ乱が起きる。解っていながらそんな思いをあの娘にさせていいものかどうか)
ぱちりぱちりと頭の中に珠を弾く音が響く。
だが、ぱちりと一際大きく珠が一つ弾かれた後は、迷いも打算も全てが結論を出していた。
「‥佐紀を招こう。断られたならともかくあの異才を他人に取られるのは我慢できん」
あっけらかんとしたものだった。
佐紀への遠慮で迷っていた算盤は結局自分の都合で答えを出してしまっていた。
「お待たせ致しまし‥た‥?」
戻ってきた佐紀は、憑き物が落ちたように晴れやかな秀吉の表情に首を傾げた。
相変わらず被り物も袱紗もそのままだったが、上機嫌の秀吉はにこにこ無視をした。
良い良い、人の話を聞かない所は、俺が直々に矯正してやるから。
また袱紗越しに渡された茶碗に口を付ける。
一杯目より温かい茶に気分がほっこり緩んだ。
「なぁ佐紀」
「はい」
「俺の家臣にならないか」
今日の夕餉は何だ、とでも言うような軽い口振りだった。
しかしそれの持つとんでもない重みに、佐紀は口を噤んだまま黙り込んだ。
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