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正純はその時、屋敷の廊下を家康達とは反対方向に向かっていた。
これという命は出ていない。
しかし正純は、自分の好奇心のままにとある部屋へと一直線に歩みを進める。
屋敷の最奥、さる要人を保護する隠し座敷だった。
その視線の先、正純はこちらに歩いてくる女性の姿に気付いた。
ゆっくりした足取りで、壁に手を付いて伝うように歩みを進めている。
「‥あら、どなた‥?」
「於愛の方様‥御機嫌麗しゅう」
うっそりと辺りを見回しながら声をかけた女性に、正純は近寄りながら会釈をした。
「ああ‥上野介殿でしたか」
於愛の方、と呼ばれた彼女は正純に顔を近づけて、暫く見つめたのちに苦笑した。
彼女は築山殿亡きあとの家康最愛の室として、同時に継嗣徳川秀忠の母親としてこの屋敷にも同道している。
戦姫ではないが武芸や兵法を嗜み、利発そうな容姿に相応しい聡明な女性であるが、極度に目が悪く一人で出歩くことは殆どない。
今も懐から取り出した眼鏡でもう一度正純を見る。
裸眼では夜目もままならないというのに、「玻璃越しの世界は酔ってしまう」と笑って余程のことがないと眼鏡を掛けたがらない。
飾り紐で繋がれた金縁のそれを掛けた於愛の方は、普段以上に知的に映る。
「どうなさいましたか?もう夜も深くございますが」
「ふふ‥お笑いにならないで下さる?」
正純の好ましげな目線に、於愛の方は緩む口元を押さえた。
「狐の戦姫を殺してしまおうとしたのですが‥伊賀同心の方々に止められてしまいました」
「おや」
「上様の意にそぐわない事は致しませんゆえ、大人しゅう奥に戻ろうと思います。上様にはこまちが付いておりますし」
こくり、と小さく頷いて、於愛の方は奥を指差した。
彼女の子の一人はこまちが後見に就いている。
その縁で、於愛の方はこまちに信頼を寄せていた。
「‥それが宜しいかと。お送り致しましょうか」
「お心遣い有り難う、でも上野介殿は上様のお勤めを先になさって下さいな」
「畏まりました。では‥お気をつけて」
正純の申し出を断ると、彼女は眼鏡を外して再び壁伝いに歩き出した。
深く一礼して、正純もそれを見送る。
(彼女の元には伊賀忍の監視が付いているか‥当然のことだが、こちらの過激派からも迂闊に手が出せない。上様もやって下さるよ‥)
座敷のある離れまで来ると、にわかに四方から窺うような視線を感じる。
ああ、と苦笑を浮かべながら外から閉じられた襖を開けた。
「お加減は如何ですか、姫君様?」
小綺麗な和室の中には、ぽつんと佐紀が一人座り込んでいた。
前田邸から大名屋敷を転々としていたというが、どうやら結構な逃避行の果てに転がり込んできたらしい。
彼女が普段身につけている男物の豊臣家の装束でなく、ありふれた女物の小袖を纏うだけだった。
「佐紀お姫様じゃないよ、石田治部少輔三成」
「‥そうだね、君は天下の治部少殿だ」
彼女は、佐紀としての女性らしさと、三成としての矜持を明確な線引きをもって併せ持っている。
それをかなぐり捨てて女の姿で政敵の屋敷に飛び込んだというのだから、彼女の決断力と飽くなき執念に正純は堪らなく惹かれていた。
「何しにきたの?佐紀は内府と話がしたいんだよ」
「そう言うなよ、俺も君と話がしたくてここに来たんだから」
後ろ手に襖を閉めると、すかさず無表情の気配が閂を掛ける小さく低い音がした。
おそらくその気配は正純を含めこの部屋の動向を逐一監視し続けるつもりなのだろう。
背後の目線を感じながら、正純は佐紀に対峙する場所に腰を下ろした。
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