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「だからこそ、私はこう思う」
「きゃ‥うっ‥殿、下っ‥!?」
佐紀の視界は鈍い痛みと共に横に吹き飛んだ。
転変の瞬間、秀次の手が浪游の鞘を掴んだのが垣間見えたような気がする。
だがそれがどういう事なのかは、英邁をもってする佐紀の頭脳も理解しかねていた。
「ここで策を弄し御許を取り込められたなら私は生き長らえたのだろうな」
頭がずきずきと痛む。
殴られただけなのか血は出ていない。
しかし佐紀は血の気が引いて、頭を押さえて臥せたまま身動きが取れなかった。
「しかし、御許が叔父上を裏切らないだろう事は承知の上だ。おそらくこの会見が知られただけでも、叔父上は私を指弾するはずだ‥我が寵臣に手を出したと」
秀次が立ち上がる衣擦れの音がした。
次第に歩み寄ってくるがちゃり、と刀を握る気配に佐紀は身を起こそうとした。
しかし、
「‥!」
つっかえるような感覚。
わずかに持ち上げた顔の前には、秀麗な立ち姿の秀次が佐紀の長い金髪を踏みつけて笑っていた。
「だからこそ‥その指弾通り御許を殺めてしまえばよいのではないかと、思うのだよ。我が死出の旅路の慰みに‥そして我が最期が叔父上の天下の傷とならん為に」
乱れた髪の間から仰いだ秀次は、とてもこれから人を殺そうとしている男には見えない安らかな表情で刀を握っていた。
逆手に持たれた浪游の切っ先は、佐紀を捉えて冴え冴えと光る。
「‥時に、欲が過ぎて黄金の卵を産む鶏の腹を割ったという愚者の故事があるな。御許の腹を割ったらやはり妖狐が入っているのだろうか」
「やめ‥て、ください‥殿下‥」
髪を引かれながら後退り、震える唇が言葉を絞りかけた、刹那。
電気が走った。
「っく‥あ‥あああっ‥‥!」
何かが切れた嫌な音が自分の横腹の辺りからした。
佐紀の意志とは全く違うところで身体が胎児のように震えて縮こまり、痛覚を通り越した虚無感が悲鳴になって溢れ、頭のずっと上の方を抜けていく。
力を抜いたらそれは手の届かないところに飛んでいってしまうような気がした。
だが激しく脈を打ちながら、それは確実に流れ出て抜けていく。
(だめ、玉藻まで流れていっちゃう)
そのくせ既に力尽きた声は、音になる前に血潮と一緒に抜け落ちてしまった。
しかし佐紀の声は、心の内の唯一人にだけはしっかりと届いていた。
「‥妾を‥」
ぐったり横たわる佐紀の手が、不意に赤い血と金の髪を伝いながら秀次に伸びた。
「なっ‥治部少輔‥?」
闇雲に握った掌は彼の装束の裾を無造作に掴む。
血潮はじわじわと指の形に不気味な染みを作った。
足元に目を落としかけた秀次は、その途上の佐紀の視線に動作を止める。
涙が溜まった瞳は、苦悶でも哀願でもない鋭利な敵意で秀次を睨み据えていた。
紅い熾り火のような瞳。
秀次が戦慄する程、その表情は別人と化していた。
「いや、まさか、狐‥」
「妾を見るな、下衆‥!」
呟きを掻き消し、炎のように這い上がる低い怒声。
その直後、聚楽第が揺れた。
「‥ふう」
高虎は眺めていた書物から顔を上げた。
脇息に頬杖をついたまま、大儀そうに読み終えた書物を脇に積む。
佐紀を送り自らが待たされている間、気の利く小姓に読書を勧められたが、気づけば用意された書物は全て飽きたように積み上げられてしまった。
仕方なしに手を叩いて人を呼ぶ。
「すまないがもう何冊か用意してくれないか」
「はい、畏まりました」
顔を出した侍女が利発そうに答えると、高虎は思い出したように付け加えた。
「ああ、出来れば城の縄張りにまつわるものが良いな。この年になって恥ずかしい話だけど読み書きは得意じゃないから」
返答に困っている侍女に冗談めいたように苦笑いを向ける。
「後学の為に、備前中納言殿を教育なさった宇土の戦姫に一度教授して貰うべきかな」
「摂津守様‥ですか?あらゆる語学に堪能な御方とお聞きしました、女中衆の中でも憧れの方です」
「おや、それは姫君に名誉なことだ。今度会ったら伝えておこう」
嘯く高虎に侍女の表情も緩む。
だが、何か言い掛けた言葉は地響きに似た揺れに遮られた。
辺りの書物が崩れ落ち、棚が軋みを上げて調度を振り落とした。
「きゃあっ」
一度だけ、畳の下がごっそり抜けるような振動のあと、びりびりと嫌な余韻だけが残った。
(‥地震か?)
よろめいた侍女を支えつつ、高虎は腰を上げる。
「殿下の身が案じられる‥治部少殿と共におられたな、様子を見てこようか」
「危のうございますが‥」
「君のような美女に心配されると実に気分が良いんだがな、言葉だけ頂いておくよ」
制止をのらりくらりといなし、高虎は一人で秀次の居室へ向かった。
その途上には混乱した小姓や家人達を見かけたが、復旧に右往左往するばかりで高虎を引き留める者はいなかった。
しかし桟の向こうに目をやってみると、聚楽の内部程に荒れた様子もなければ目に見える被害もない。
僅かに窺える塀の外には、被害者どころか爆音を聞きつけた野次馬が人だかりを作っていた。
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