◆幾つかの慈愛の形象
紫苑+真寿
どうという事はない談話
大坂城の上層は、眼下に繁栄する都市を臨み、その向こうの湾景まで見渡すことが出来る。
「天下人の居城」に相応しい偉容に、小早川真寿は素直に感心していた。
大胆にもこの天守閣の一角を、真寿の親友は待ち合わせの場に指定してきた。
桟に手を置き、眼前を過ぎていく風に撫でられるまま、暫し景色を眺めていると、小さな足音が近づいてくるのに気が付いた。
摺り足と床を突く不規則な三つの音。
天下の俊英が数多揃うこの城に於いて、真寿は背を向けたままでもこの足音の主を判別出来る。
彼女が近付いてきた彼の主に振り向こうとした隙を縫うように、どん、と床が高く鳴った。
「これは黒田ど‥」
「ちょっと見ないうちにまた偉くなったそうじゃないか」
「‥えぇ、ま‥あ」
目の前に大写しになった友人の顔に、真寿は思わず背後に一歩後ずさった。
その辺、この年下の友人はまるで遠慮がない。
「もう容易く名も呼べないな、御大老殿」
「そのような事仰らないで下さいな。私と我が宗家の輝元が豊家にあるのは偏に太閤殿下のお引き立てあってこそです」
「何を馬鹿な‥誰が高松城からうちの主人を見逃したんだか」
にい、と人の悪そうな笑みを浮かべ、彼女は上目遣いに真寿を見た。
「あの時既にここまで読んでいたんだろ?それともただの怪我の功名ってやつかね?ま、あんたの場合は澄ました顔した前者なんだろうが」
「もう‥後者に決まっておりましょう、紫苑殿。あなたじゃないんですから」
溜息混じりにすっかり辟易している真寿に対しても、どうだか、と彼女は肩を竦める。
天下に遍く知られた秀吉の軍師、黒田紫苑。
官兵衛の名を用いていた頃は「両兵衛」の一翼として知られていたが、豊臣家が天下に手を掛けたと同時に名を変えて家督を譲ってしまった。
それも数年前のことで、今は如水の名で通っている。
とはいえ、真寿にとっては私的な友人として昔から持つ名の方が自然だし、何より一人娘であるみあんが彼女を母上でなく紫苑、と呼ぶおかげで女の名に濃い印象が付いてしまっているのだが。
「ああ‥この間はうちの馬鹿娘が世話になったね」
ふと思い立ったように紫苑が話題を変えた。
「いえ、広家も心配していましたよ?怪我などしてはいないかと」
「あはは‥まさか、ちゃんと五体満足であたしの前に詫びを入れに来たさ。一揆相手に大負けして堪えちゃいたようだがね」
桟に背を預け、肘をつきながら紫苑はやれやれ、と眉を上げた。
引きずる程長い袴に隠れた足を投げ出すと、義足ではないかというあらぬ噂を彷彿とさせる重たい金属音が続いた。
「戦場では向こう見ずに押し出す癖に、謝罪となると又兵衛の方が肝が据わってる有様じゃあね、全くあたしの娘ながら情けない」
「そんな、あの子も十分立派な才をお持ちではないですか。あなた譲りの兵法に、優れた武勇があるなら黒田家も安泰でしょう」
「何を言うんだか、天下が定まればそんなものはただの要らん道楽になる。必要なのは、よく回る舌とおつむの方さ」
紫苑はそう言って自分のこめかみを指で差した。
「うちの主人から天下を絡め取る程は求めちゃいないが、精々御家を守る位の口は作って生んだはずなんだがね」
「でしたら紫苑殿の半分のお口もあれば十分ですね」
「おや、誉め言葉かい」
「謹んで違うと教えて差し上げます」
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