ハルヒSSの部屋
古泉一樹の情操教育 6
『外伝:長門有希の情操教育』

薄暗い道を僕は走っていた。
帰り際、長門さんから渡された一冊の大学ノート。そこにはまるで印刷した様に丁寧な文字が並んでいた。

「ドロシーは嵐に巻き込まれて不思議な世界に飛ばされた。
それは今まで彼がいた世界とは似て非なる世界だった」

なぜ、もっと早くにノートを開かなかったのかを悔やむ。陽はすっかりと落ち切って、見上げた空には月が踊っていた。
それが僕にはまるで夜に開いた穴に見えた。
多分、あの穴の向こうには見た事も無い世界が広がっているんだろう、なんて夢想する。柄にも無く。

「その世界の名はオズと言った。
彼は元の世界へと帰る為に、魔法使いの居る世界の果てへと旅を始めた」

もしかしたら、彼女はあの穴の向こうから来たのかも知れない。


『Yuki Nagato's intellectual development
"The Wonderful Wizard of Oz"ver.』


「彼は旅の途中で三度の出会いを果たす」

主人公の名前はドロシー。で有りながら代名詞として使われているのは「彼」。
それが誰を指しているのか。考えるまでも無いと、そう思うのは些(イササ)か驕りが過ぎるだろうか。
けれど、そう思わずにはいられない。

「考える脳を持たない案山子(カカシ)に出会った。案山子は思考を欲しがっていた。
誰でもない、自分だけの思考を。
ならば一緒に魔法使いにお願いしに行きませんか、と。そう言ってドロシーは案山子に右手を差し出した。
その手はとても暖かかった」

願わずにはいられない。それが僕の事であって欲しいと。

「感情を持たないブリキの木こりに出会った。木こりは心を欲しがっていた。
誰でもない、自分だけの心を。
ならば一緒に魔法使いにお願いしに行きませんか、と。そう言ってドロシーは木こりに左手を差し出した。
その手はとても優しかった」

自分自身の思考を持たない。自分自身の感情を持たない。
案山子は、木こりは、彼女自身だ。

「臆病なライオンは勇気を欲しがっていた。
ただ、その身の丈に見合う量で良い。
自分自身の意思で、世界と向き合う勇気が欲しかった」

彼女を探して僕は、月明かりの下を駆けた。
マンションには帰ってきていないと、緑髪をした彼女の同僚が教えてくれた後は、行き当たりばったりだった。

「案山子に考える力をくれたのは魔法使いではなかった。
それをくれたのはどこにでも居そうな、たった一人の少年だった」

公園、駅前、喫茶店。彼女の姿を探して走り回った。
でも、月の灯りに煌々(キラキラ)と。光を返して輝く銀髪は見つけられない。

「与えられた監視という仕事を、それまでの案山子はじっと行っているだけで良かった。
けれど、ドロシーと何度も話す内に、案山子の中には確かに何かが芽生えた」

「我思う。故に我有り。この言葉が真実ならば。
彼女は生み出されてから三年を経過して、ようやく初めての産声を上げた」

左手に握ったノートは、強く掴み過ぎて折れ曲がってしまっていた。けれど、問題は無い。
物語は、確かに届いたのだから。

僕の、心に。

「初めて、仕事以外で思考した。
自分の事を考えて、貴方の事を考えた。
いつしか案山子には、魔法使いに願う事がなくなってしまっていた」

「それでも、彼の旅に同行するのは案山子の意思。
たくさんたくさん考えた上で、彼女はそれを選んだ」

闇雲に探していても埒が明かない。そう判断して彼女が居そうな場所の目星を付ける。
「そりゃ、長門が興味を示す場所って言ったら図書館一択だろ?」
ありがとう。僕は速やかに通話を切った。

「ブリキの木こりに願う心をくれたのも魔法使いではなかった。
それをくれたのはどこにでも居そうな、たった一人の少年だった」

既に閉館している図書館の鍵の開錠には思っていたよりも時間が掛かった。
指先が、震えていたせいだ。

「ただ仕事をさせる為にのみ生み出されたブリキの機械に、感情などは必要無かった。
より安定を求める意味において、それは設計の時点で心の容器を取り払われていた」

「けれど、ドロシーはそんな人形にすら心が有ると言った。
貴方はとても嘘吐きだけれど、その言葉だけは嘘にしたくなかったから。
だから、木こりは心を手に入れた」

暗がりの中を彼女の名前が反響する。呼んでいるのは僕。
そしてそれ以外には虫の羽音にも似た機械音しか聞こえてこなかった。
どれくらい探しただろうか。

「我想う。故に我在り。この感情が本物ならば。
機械は生み出されてから三年を経過して、ようやく初めての夢を見た」

ここには居ない。そう判じて外に出る。月はその居場所を変えていた。
次はどこに行こう。どこに行けば良い?
貴女は今、どこに居るんですか?
行き先は一向に決まらなかったけれど、脚は思考よりも早く動いた。
まるで、主人の居場所を嗅ぎ分ける忠犬の様だと、そう思った。

「初めて、他者を想った。
自分の事を考えて、貴方の事を考えた。
いつしか木こりには、魔法使いに願う事がなくなってしまっていた」

「心を手に入れて初めて願ったのは、彼の願いを叶えたいという事。
たくさんたくさん考えた上で、彼女はそれを望んだ」

僕は北高校門の前に居た。
ここがダメならばもう、僕には他に彼女が居そうな場所なんて思い付かない。
けれど、確信もしていた。
彼女はここに居る。

「足りないのは勇気」

文芸部室に、彼女はきっと居る。
明かりも点けず。月に照らされるがままで。

「かつて案山子だった少女は、かつて木こりだった私は、今、それが欲しい」

それだけを頼りに、きっと本のページを捲っている。
頼りない、幽玄の灯りを頼りに。

「臆病なライオンは、ドロシーの声に奮い立った。
もしも私が、かのライオンでもあるのなら。
それをくれるのもきっと彼」

「欲しい勇気はたった一つ。
貴方に貰った心から
貴方が教えてくれた大切な事を下地に敷いて
たった一人の貴方に伝えたい言葉を口に出す
その為だけの勇気が欲しい」

僕は散々慣れた筈の文芸部室の扉を、まるで初めて開く様な心持ちでノブに手を掛けた。

「ドロシーへ。
貴方がもしも私を選んでくれるなら。
どうか私を探して欲しい。
月が地平に沈むまでに、魔法使いを連れて来て」

果たしてそこには、月を背景にした銀髪の少女が手元に目線を落としていた。
まるでいつも通りに。

「私の大切な人を連れて来て」

彼女の手元に有る本は「オズの魔法使い」。



探しましたよ。
「見つかった?」
見つかりませんでした。
「そう」
魔法使いは居ませんでした。
「そう」
だから、この世界からは出られそうにありません。
「そう」
でも、僕はその事を悲しんでいたり、悔いていたりはしていませんよ。
「なぜ?」
好きだからです。
「この世界が?」
この世界が。
「そう」
ですので、謝らなければいけないかも知れませんね。
「魔法使いは居なかった。ならば仕方が無い」
ええ、言った傍から発言を撤回しますが、実は僕に謝る気は有りません。
「どういう事?」
ライオンに勇気を与えたのは、魔法使いではありませんよね。
「そう。魔法使いではなくドロシー」
だったら、魔法使いではなく、この場で僕が連れて来るのはドロシー……いえ、「彼」ではありませんか?
「だったら?」
であるならば。ええ。連れて来ましたよ。
「どこに?」
ここに。
「貴方が?」
所望されましたドロシーです。

「そう」
はい。
「貴方が……ドロシー」
自意識過剰かも知れません。ですが、他の誰にも譲る気は有りません。役を降りる気も、有りません。
「頑固で嘘吐き。けれど、大切な事に決して嘘は吐かない、私のドロシー」
愛犬を連れて来るのを忘れたのは、そこまで考えが至らなかった僕のミスです。そこだけは謝ります。すいません
「構わない」
……待ちましたか?
「割と」
これでも出来得る限りの最速で来たんですけどね。
「怒ってない」
助かります。
「来てくれてありがとう」
どういたしまして。

「貴方に、伝えたい事が有った」
聞きましょう。
「案山子はドロシーの旅路に同伴したい」
はい。
「木こりはドロシーの為に生きていたい」
はい。
「ライオンは貴方の為ならばどんな困難にも立ち向かうと誓う」
はい。


「わたしはあなたがすき」

僕もです。僕も、貴女が好きです。


「やっと言えた」
やっと言えましたね。
「貴方のそんな顔は、初めて見た」
僕だって、こんな時くらいは表情を崩すんですよ。
「嬉しい」
そうですか?
「可愛いと思う」
止して下さい。僕はそんな形容詞を使われる類ではありませんよ。
「でも、そう思うのだから、仕方が無い。思った事を素直に口に出すべきだと、教えてくれたのは貴方」
えっと……今更ですが、その発言を撤回しても良いですか?
「ダメ。……可愛いと言われるのは恥ずかしい?」
まあ、僕も男ですから。それなりに。
「私も恥ずかしい」
でしょうね。
「でも、しあわせ」
それはなによりです。

「貴方はいつか、私もしあわせになれると言った。その時、私をしあわせにしてくれるのは涼宮ハルヒだと言っていた」
ええ、そうですね。
「嘘吐き」
何がですか?
「私をしあわせにしてくれたのは、涼宮ハルヒではなかった」
いいえ、貴女がここに居るのは彼女の導きによるものですから、やはり彼女のお陰ですよ。
「違う」
その理由は?
「貴方は私が遠く星の向こうに居ても飛んで来てくれると約束してくれた。
私ともしも出会っていなくても、必ず私を見つけ出すとも言ってくれた。
だから、涼宮ハルヒは関係が無い」
……そういえば、そんな恥ずかしい事も言いましたね。
「恥ずかしくなんて無い。私は、嬉しかった。今ならそう言える。私は、貴方に出会えて、とてもしあわせ」
僕も、ですかね。
「もう一度。わたしはあなたがすき」
ありがとうございます。
「何度でも言う。わたしはあなたがすき」
そういう言葉は希少だから価値が有ると、教えませんでしたか?
「しかしそれでも。わたしはあなたがすき」

「わたしはあなたがすき」

ああ、もう。貴女は僕を殺すつもりですか。
「そんなつもりはない」
それでも。僕は貴女にそんな事を言われて、それでもいつも通りに呼吸が出来るような完成した人間ではないのですから。
「折角伝えたのに死なれては困る。非常に困る。生きて」
分かりました。
「生きる?」
貴女の為に、生きましょう。
「そう。……良かった」
一緒に、生きましょう。

「そうしたいのは山々。しかし、貴方の相手は私であって私ではない」
何の話です?
「私には私の貴方が居るように」
……どういう事です?
「この水色のワンピース。今でも大事にしている。ありがとう」
待って下さい、長門さん!
「今日の私は、教育係(メッセンジャー)」
待って……どこへ行ってしまうんですか!?
「……再会を楽しみにしている」

そう言って、彼女は月の光に溶けた。
彼女の右手薬指、銀色の小さな指輪が光っていたのに気付いたのは、それが最後に消えたからだった。

文芸部室には、僕と手元のノートしか残されなかった。


古泉「なんで居るんですか?」
長門「最近の流れから、私が貴方の家に上がり込むのは既に仕様と言っても過言ではない」
古泉「いえ、部屋に居るのを咎めている訳では無いんです」
長門「それは以降の永続的な侵入許可と取っても良い?」
古泉「ダメです。……ではなくて、ですね」
長門「? ……そのノートは?」
古泉「え? 見覚えが無いんですか?」
長門「無い。その大学ノートから時間平面上の異常振動を探知した」
古泉「……詳しく聞かせて頂けますか?」
長門「過去か未来かは不明。しかし、この時間平面上の物質では無い」
古泉「……今の長門さんの言葉で、ようやく合点が行きましたよ」
長門「そのノートに関して説明を」
古泉「未来から……なんでしょうね、きっと。ラブレターです」
長門「ラブレター。恋文。私の既知範囲外で貴方には未来人との交友が有る?」
古泉「いいえ。僕は超能力者ですよ? そちらは朝比奈さんが専門でしょう?」
長門「……今の貴方は非常に楽しそう。しかし私はそうでもない。古泉一樹、引き続き説明を求める」
古泉「面白い人に出会ったんですよ」
長門「誰?」
古泉「秘密、としておきましょう」
長門「……そう」
古泉「一応、未来人のカテゴリになるんでしょうね。彼女は僕にたった一つの大切な事を教えに……いえ、自覚させに来てくれたんです」
長門「彼女……」
古泉「少しだけ、未来を垣間見せてくれたと、そう言い換えても良いでしょう」
長門「どんな未来?」
古泉「そうですね……悪くない、とだけ言っておきます」
長門「何を教えて貰った?」
古泉「誰かの好みとする指輪のデザインですね」
長門「誰?」
古泉「ふふっ。さて、誰……いえ、どちらのセンスなんでしょう?」

長門「その大学ノートを見せて」
古泉「……それはちょっとマズいかも知れません。中身の確認だけしても良いですか?」
長門「……分かった」

古泉「ぷっ……く……あははははっ!!」
長門「どうしたの?」
古泉「いえ、何と言いますか。用意が良いと言えば良いのか……」
長門「理解不能」
古泉「全文、消されてしまっていました」
長門「……嘘。貴方が笑った以上、そこには何か書いてあった筈」
古泉「ええ。代わりに一文だけ足されていましたよ。見ますか?」
長門「(コクリ)」

『Would you marry me ?』
(結婚しましょう)

長門「……私の機能に著しいエラーが発生した」
古泉「それは……いえ、皆まで言うのは止めておきましょう。長門さん、近くに行っても良いですか?」
長門「……構わない」
古泉「ああ……なるほど。自覚すると、こういう気持ちになるんですねぇ……」
長門「……エラー継続発生」
古泉「長門さんの髪が綺麗なのは知っていましたが……触り心地は初めて知りました」

長門「このエラーは……とてもくすぐったい。でも……消したくは無い。なぜ?」
古泉「それはきっと『しあわせ』というんですよ」


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