ハルヒSSの部屋
オキノイシノ 4
白のブラウスにダークグリーンを基調とした縦縞のボレロ。ちなみに臍丈。下はダメージ加工されたスキニージーンズというなんとも凛々しい出で立ちでありながら、それでも女性らしさをまるで失っていないのは着こなしなのだろうか。
……ほら見ろ。不戦敗だっただろ?
「よお、おはよう」
「おはようございます。今、来たところですから、どうかお気遣いなく」
彼女は俺の姿を認めると、こちらに向かってふんわりと微笑んだ。本当に古泉と同じ因子から産まれているのかを疑問視出来るくらいには、そこにうさん臭さは含まれていない。
つーか、ぶっちゃけかなり可愛い。
凛とした美人でありながら、されど緩ませた口許からは年相応を感じさせて。照射されるほんわかオーラに思わずこちらも頬が緩みそうになる。
のだが。
「そりゃ、今来たところだろうよ。実際、アンタはたった今到着したんだしな」
初デートの待ち合わせに十分とは言え遅れてきておいて、それでも尚、白百合のような微笑を浮かべ続けていられる面の皮は、しかしやはり紛れも無い古泉の因子がなせる業である。
……騙されるものか!
「すいませんでした。わたしから誘っておきながら遅れてしまって」
「いや、一時間とか待たされた訳じゃないから怒ってはいないけどさ。しかし連絡くらいくれても良かったんじゃないか?」
秋も深まる今日この頃。少しばかり熱を失った足先の悲哀を込めて皮肉ってみる。しかし少女は気にする素振りも無く、どころか益々笑顔を輝かせた。
「携帯電話は置いてきましたので、連絡しようにも出来なかったんです」
「え?」
「ああ、部屋に置き忘れたのではなく、わざとですよ、勿論」
「話が見えないんだが」
「折角のデートなのに機関からの呼び出しが入ってしまっては、興冷めではありませんか」
なるほどね。どうも忘れがちだが、コイツ、古泉一姫は古泉一樹と二人で一人なんだよな、そう言えば。
エスパー少年が呼び出されるって事は、このエスパー少女が仮死状態に陥るって事と同意であるからして、彼女の言い分は分からないではない。
「だが、昭和じゃないんだし、ケータイ文化が花開いた現代社会では時刻表からデートスポット検索までコレ一発だぜ?」
左手に握っていた(右手はまだ傷が塞がってないんだ)ケータイを振る。なぜポケットから出ていたのかは聞くな。時間が気になるお年頃なんだと、そうしておいてくれ。
……連絡を今か今かと待ち構えていたなんて話はこれっぽっちも無いからな?
「それに……良いのかよ?」
呼び出しを無視するようでは正義の味方エスパー戦隊は成立たない気がする。
地球が今、地味にピンチだったら、これは果たして俺のせいになるんだろうか?
「機関の上司には招集に応じられない旨は伝えてありますし、大丈夫です」
「だが、そういう予定が立てられないのが超能力者だろ?」
「おや? 一樹から聞いていらっしゃいませんか?」
少女が問いながら眼を丸くする。
「目的語を言ってくれると助かるんだが?」
「最近……そうですね。ここ三か月の涼宮さんは、殆どゼロと言って良いくらい、閉鎖空間を創られなかったのです」
古泉……ニヤケ面の超能力少年も言っていた。ハルヒの力は無くなりつつ有る、と。
「だから、こんな真似が許された……そういう事で、ご納得頂けますよね?」
一年前には考えられなかった状況だと、そう二の句を継いで少女は笑った。朗らかに。
「……積もる話は数有りますけれど、話し込むには公園は少し寒くないですか?」
「少しじゃないな。天気予報を見てきたが、昨日の冷え込みが尾を引いていやがるらしい」
「雨が降るとか、分かります?」
「降水確率はゼロ。風が冷たいだけで、今日は一日晴れだ」
俺の言葉にへにゃっと頬を緩ませる、彼女のその幸せそうな表情を見れただけで、遅刻された元は取れたかな、なんて考える始末。
挙げ句にリップサービスまでしちまうんだから、全く男ってヤツは女の笑顔にほとほと弱い。
「絶好の……その、なんだ。デート日和、ってヤツか」
ああ、羞恥から吃(ドモ)っていなければ結構二枚目な台詞なんだけどなあ。
俺には古泉♂の真似事は無理らしい。アイツ、よくこんな歯の浮くような台詞を噛まずに言えるね。感心しちまう。いや、割とマジで。
「天気が良くて良かった。……さて、どうしましょう?」
首を少し右に傾げる、どちらかと言うと幼い仕草が美人系の外見とはミスマッチで。
こうかは ばつぐんだ !
……危ねえ。クラッと来た。
「あー……取り敢えず、喫茶店に入って今日の予定を決めないか?」
「では二駅先に一樹のお気に入りのお店が有るのですけれど」
「オッケ。なら移動すっか」
「はい」
方針も決定した所で、並んで歩く。デートってのが具体的に何を指すのかは知らないが、道すがらの会話なんかもきっとその言葉の中には含まれるんだと思うんだ。
と、そう思ったから。
特に何の下心も持たず「肩を並べて」歩ける位置についただけで。
……まさか腕を組まれるとは予想だにしなかった。多分、この辺りが鈍感の言われの原因だろうね。やれやれ。
「……当たってるんだが?」
「当ててますから」
「……わざとか!?」
「嫌ですか?」
「……こ、古泉は嫌じゃないのかよ」
「わたしは好きな人相手ですから、気になりません。それよりも『古泉』と呼ばれる方が気になるくらいです」
そう言ってニッコリ。俺は自由な左手で頬を掻きながら空を見上げた。
嫌になるくらいの快晴だね、全く。
「なら、なんて呼べば良い? この愚鈍なる男に、どうか教えてくれたら助かるんだけどな」
「名前で読んで貰えたら、飛び跳ねて喜びます」
いや、ちょい待ち。少女の名前の読みは少年とまるで同じだから、それは出来れば御免被りたいぞ?
少年エスパーとデートしている錯覚に陥りかねんとか、想像しただけで身の毛がよだつ。
「なら、いちひめ、と。小さい頃はそう呼ばれていましたから」
「それなら……まぁ、なんとか」
駅の改札を通る時は流石に腕を放さなければならない。俺に続いて改札を抜けた少女に、声を掛ける。
「で、どっち方面なんだ、いちひめ?」
なるべく自然を装ってみたつもりなんだが、少しばかり頬に血が集まっていた。
彼女はちょっとだけ驚いたような顔をして、そしてすぐに顔中を絵に描いたような「幸せ」で埋めてみせた。
「こっちです、キョンくん」
恥ずかしい。楽しい。こそばゆい。嬉しい。
そんなこんなが綯(ナ)い交ぜになって一秒置きに表情がクルクルと変わる。
それがデートだってんなら正しく。

俺達は「デート」を始めた。


古泉が懇意にしているという喫茶店は、よくは知らないが「隠れ家的名店」と言われる類であるらしく、客は俺たち以外に片手で数えられるほどしかいなかった。
ま、つまり多くて五人って意味なんだが。実際はどうだか分からないが、聞こえてくる話し声から推察するに大体そんなもんだろ。
テーブル席が全て、他の客からの死角になるように造られているせいで、正確な人数までは俺の位置からは把握出来ない。
それは言い換えると、他の客からも俺たちは見えない、って事なんだが。
「なるほどな」
テーブルに肘を突いて呟いた俺に、少女がピクリと反応した。
「何が『なるほど』なんですか?」
「いや、古泉……あの副団長が好みそうな店だと思ってさ」
運ばれて久しい、もう湯気を吐く熱量を失ったコーヒーを一口啜る。うん、美味い。アイツの部屋で飲んだヤツも美味かったが、流石に喫茶店のには敵わんな。
懇意にしてるだけの事はある。それは金を払っても良い香味だった。
「一樹が好きそう? えっと、それはどういう意味でしょう?」
「そのまんまの意味で、かつ深い意味は無いさ」
「そうですか。わたしはまた、てっきり内密な話をするのに適した場所だとでも仰りたいのではないか、と愚考してしまいました」
コーヒーカップから指を外し、自由になった手を顔の前で振ってみせる。
「深読みし過ぎだろ。普通に『良い店だな』ってそんだけの意味だよ」
機関の秘密連絡に使えそうだとか、そんなん言われて漸く思い至ったっつの。
「アイツの印象は、そこまで黒くないさ」
「そうですか。ええ、気に入って頂けたのでしたらば、連れて来た甲斐が有りました」
一姫はそう言って、本当に安堵したように微笑んだ。口元にカップを運ぶ、その姿も絵になる少女を前にして、俺は少しばかり見入ってしまう。
「うん。美味しい」
小さく動く薄い唇の、ほのかなピンクがカップに跡を残す画が、普段化粧っ気の無い少女達に囲まれている俺には不意打ちだった。
不意打ちは、防げない。
「……それ」
「え? ああ。今日は少しだけ、お化粧を」
そう言って、一姫ははにかんだ。だから……その外見でそういう幼い表情をするのは反則だろ。
「折角の、デートですから。柄ではないのですけれど、気合が入ってしまいました」
その気合は誰のためにだよ、なんて問う気も起きない。今日のコイツのデートの相手は、誰でもない、この俺だから。
「ごめんなさい。実は遅刻してしまったのも、それが理由です。時間直前まで、どの服を着ていこうか、迷ってしまって」
「……俺と」
「ん?」
「俺と、同じだな。もっとも、俺の場合は今朝じゃなくて昨晩だったけどさ。こういうちゃんとしたデートってのが初めてだから、着てく服で、その……困った」
ああ、何を正直に話してんだ、俺は。デートだぞ、デート。そんな情けないエピソードなんざ脇に置いておけってのに。
「そうなんですか? えっと、私のために、迷ってくれたんですか? 貴方が?」
「……そう……ああ。そう、なるのか?」
「なります」
言って嬉しそうに。クリスマスの朝、枕元にプレゼントが置いてあった事を今にも両親に報告しそうなほど嬉しそうに、ソイツは微笑む。
そんな笑顔を見せられたら……俺にはコーヒーを飲んで苦そうな顔をする事しか出来やしない。
うっせー。照れ隠しだよ。分かってる。ほっとけ。
「えっと、わたしは服を決めるのに結局三時間くらい掛かりました」
「勝った。二時間だ。勝ち負けの問題じゃないとかは、この際だ。脇に置いといてくれ」
「ふふっ。二時間も、わたしの事で悩んでくれたのですか?」
だからそんな顔をしないでくれるか。眩しくて直視出来ないだろうが。先刻から目線逸らしっ放しで、そろそろ店員さん辺りに不審がられたらお前のせいだぞ。
「なんでしょう……凄く……嬉しい……かも」
悩んだのはデートって点からで有って、一姫が相手だからじゃない。なんて言ったところで見透かされるのは分かり切っている。生憎、俺はどっかの超能力者みたいに口を開けば嘘八百とは程遠い。
大体、口に出しても進行方向の看板には泥沼と墓穴しか示されてない気がするし。
「ま、その末のコーディネイトにしちゃ俺は普通過ぎるけどさ。お前と違って」
「お前、じゃありませんよ、キョンくん」
意地悪く、けれどどっかの超能力者とは似つかない朗らかさを湛えて笑う、その唇を俺は横目で追っていた。意識せずに、薄い桃色の乗ったその唇を、追っていた。
「いちひめ、です」
どうやら味を占めやがったらしい。
「……同年代の女を下の名前で呼ぶのは、意識して呼ぶのは結構恥ずいんだが?」
「でしたら意識しないで、自然に。ごく自然に呼んで下さい。それに、わたしの下の名前は『いつき』ですよ。『いちひめ』はニックネームです」
だから呼び易いでしょう、とでも言いたいのだろうか。確かに「いつき」呼びの方は死んでもお断りだが。
「……なあ。俺みたいな冴えないのをからかって、面白いか?」
「申し訳有りませんが、素直にとても楽しいです」
それに、と彼女は続ける。
「貴方を『冴えない』とは、わたしにはまるで思えません。自虐は結構ですけれど、しかし私の好きな人を悪く言うのは幾らキョンくんでも許しませんよ?」
ニヤリと笑う、その破壊力は二重丸。
どうやら、本日一杯、俺のターンは回ってこないみたいだ。けれども攻められっ放しってのは性分じゃないから、それでも一応の反撃はしてみる。
「許さなかったら、どうするってんだよ」
「キスします」
カウンターパンチは剃刀のような切れ味で俺の顎を打ち抜いた。くっ……良いの貰っちまったぜ。座っちゃいるが、しかし立ってるので精一杯だとかそんな感じ。
「ちなみに次にわたしの事を『お前』と呼んでもキスをさせて頂きます」
……ってか、キスしたいだけなんじゃないだろうな、コイツ。
「キスしたいだけです」
言い切りやがった。
自分の欲求に対して私生活に支障が出るくらい従順な少女だった。
「わたしは、恋する乙女ですから」
自分で自分を乙女とか言っちゃうのは正直どうかと俺は思う。
「ファーストキスを奪った責任を取って頂けないでしょうか?」
「それを言ったら俺は被害者だろ……なあ?」
「いいえ。貴方は初めてではなかったでしょう? ですがわたしは初めてですので、八二で貴方の責任の方が重大です」
どこの交通法だよ。ええい、俺は断固として抗わせて貰うぞ。控訴だ、控訴。
「女の子はいつだって被害者なのですから」
何、そのジャイアニズム(短絡的解決法という意味な)。男が捕食する側だったのも今は昔か?
「男女差別反対だ。弁護士を呼べ、弁護士を」
「機関で良い弁護士を紹介しましょうか?」
「完璧絶対完全にいちひめの息が掛かってるじゃねーか!」
クスクスと、少女が笑う。楽しそうに……ま、楽しんで貰えてるなら、何よりだけどさ。
「今、わたしの事、いちひめって、呼んでくれましたね」
「人が折角自然を装って言ったのに、ツッコミ入れるんじゃありません。そこは優しくスルーしとけ。優しくな」
俺の諌言もなんのその。一姫はテーブルに少しだけ身を乗せた。……顔が近い!
「ご褒美、です」
浅ましくも目前で震える唇に、口付け違った釘付けになる俺の両目。
ふるふると、長い睫が帳みたいに閉じていく。
「……ん……」
「目を閉じるな!」
「ご褒美が嫌でしたら感謝の気持ち、と言い換えましょうか?」
「どっちでも同じだ! そして人目を憚れ!」
「聞きましたよ。人目を憚ったら、キスをして頂けるのですね?」
彼女は眼を開けて、そして映画のように鮮やかなウインクを一度、俺に向けて行った。お芝居が行き過ぎて、役に入り込んでしまった役者のように、俺には彼女が「そう」見える。
芝居掛かり過ぎて、自然に見える、みたいな。
「……どうかな」
お茶を濁す事しか出来ない俺。情けない。情けなさ過ぎる。なんか皮肉の利いた返し方でもパッと思い付く事は出来ないものかね。
俺の脳味噌には酷な要求なのだろうか。サンドバックにでも生まれ変わった気分だよ。
「拒否、しませんでしたね、キョンくん。この後、映画に行きませんか?」
ああ、少女は。季節を先取りして椿のように艶やかに笑う。
「暗いから、衆目を気にしなくても良いでしょう?」
今日の教訓。恋する乙女は敵に回すな。だからと言って彼女に迎合出来ない俺は今日一日、言葉尻を取られて攻められ続けるしか無いのかも知れん。
チラリと見えた脳内十字路の交通看板には、「墓穴」と「泥沼」に続いて「玩具」と書いてあった気がした。で、どうしてその選択肢が直進なんだい、俺?


時間が止まったみたいにゆったりと流れる喫茶店で、対面に座った少女がポツリと呟いた、時間が止まってしまえば良いのに、という一言を俺の耳は聞き逃さなかった。
その台詞は、シチュエーションと言葉だけ切り取ってしまえば、幸せの絶頂に有る今の再認識にしか聞こえない。
けれど。
一姫は、まるで古泉みたいに……失礼、どっちも古泉だったな。あー、っと。まるで超能力少年みたいに、裏の有る苦笑をその頬に浮かべていた。先刻まで、つい十秒前まで楽しそうに笑っていたのに。
その陰りの有る横顔は……けれどなぜだろう。とても、綺麗だった。
笑ってた方がお前は可愛い、なんて言葉をこの先、俺はこの少女に決して吐けなくなってしまう程に。
壮絶に。凄惨に。憂い顔は綺麗だった。それが古泉一姫という少女の本質だと理解してしまう程に。
その理解が決して俺の誤解ではないのだと、そこまで理解してしまう程に。
眉目秀麗な美少女が不意に見せた影は、平時鈍い鈍いと言われ続ける俺の心にさえ何か言いようの無い不安を植えつけるのに十分だった。
「なあ」
「……あ、ごめんなさい。少しだけ、考え事を」
「何を」
空気の読めない男だと、そう思われても良い。
「何を、考えてたんだ?」
それでも、聞いておきたい。彼女がこんな顔をする理由を。彼女にこんな顔をさせる、敵を。
敵?
敵だって? 敵ってなんだ。
何、やろうとしてるんだよ、俺。そんなに好戦的だったか? 違うだろ?
何、自分から面倒事に首突っ込もうとしてるんだよ、俺。
「ん……何でもありませんよ」
少女は俺を見て笑う。でも、すぐに分かった。分かっちまった。その笑顔が、仮面だって事に。
「何でも無く、無いだろ」
「いいえ」
彼女は、首を振って拒絶した。
「本当に、何でもありませんから」
そう言って、笑顔の仮面を被って、俺の追及を振り切ろうとした。
「ただ、夢みたいだと。そう、思って。思って、しまって」
「夢じゃない」
「……私はずっと、こんな風になりたいという夢をずっと、見てきましたから」
古泉一姫。眠り姫。起きたばかりの、眠り姫。
「だから、今、起きているのか。眠っているのか。あやふやで」
「俺は他人様の夢に出張するほど、暇でもお人好しでもないぜ?」
「でも、貴方には涼宮さんの夢に招かれた、前科が有りますから」
「……う」
ああ、一樹が知ってる事は一姫も知ってるんだよな。忘れてた。アイツには今度、プライバシーって言葉を教えてやらなきゃならん。
「勿論、その時が貴方にとってファーストキスである事も知っていますよ?」
「待て! アレは夢って事でノーカンだろ!」
「だったら、わたしとのキスを初めてにしますか?」
「凄く答え難い二択だな、オイ」
しかも一方の本人目の前にしてか。
「我が袖は」
「へ?」
「我が袖は、潮干に見えぬ、沖の石の、人こそ知らね、乾く間も無し」
「あ……それは」
聞き覚えが有った。それは古泉が最近呟いた和歌だ。
「私の袖は、海の底に有る石のように、誰も知りませんが常に濡れています」
袖が濡れる、っていうのが何の隠喩なのかくらいは俺にも分かるってモンで。
「それは……つまり泣き虫の歌か?」
「顔で笑って、心で泣く歌です」
それはなんて……まるで「古泉」みたいだな、とは言えなかった。残りのコーヒー全てを使って、飲み下す。
「イツキが好きなんですよ、この歌」
イツキ。男の一樹か、女の一姫か。どちらの事を言っているのか。業と暈したようなその言い方は追求を許さない。
また、拒絶されている気がした。
「ちなみに涼宮さんは小野小町の『夢の歌三首連作』が好きだそうですよ」
「悪いが、寡聞にして知らん」
「彼女らしいですよね」
「だから、その歌を知らん俺には何が『らしい』のかがまるで分からん。もしも暗唱出来るなら、聞かせてくれるか?」
一姫は温いコーヒーを口に含み、少しだけ考えるような素振りを見せた後に、出来ますがお断りします、と言った。
「敵に塩を送るつもりは有りませんから」
「敵って」
「恋敵。そうでしょう?」
「……俺はそういう眼でアイツを見てないからな」
嘘を吐くのは、苦手だ。少女はそれに関しては何も言わなかった。騙されてくれた訳じゃ、無いだろうが。
「一樹は、消えますよ」
それ以上に、伝えたい事が有ったのだと、そう考えれば納得出来る話で。
「涼宮さんの力が消えれば、彼は消えます」
ハルヒの力。でも、それはアイツが身に着けたいと願った訳でも、アイツが放棄したいと望んだ訳でもない。
「ええ。言わば、天災です。一樹の事で彼女を憎むのは筋違いですよ。分かっています。でも」
一姫は、その身に溢れる古泉の因子を存分に表情に現して言った。
「わたしはそれでも彼女が嫌い」
まるで猛禽のように、笑いながら毒を吐く。
「わたしから普通の生活を奪った彼女を。わたしから一番の理解者を奪っていく彼女を。わたしはどうしても好きになれないのです。割り切る事の出来ない幼い女だと、笑いますか?」
哂いますか? そう言う少女は、笑顔でありながら、泣いているようにも見えて。その表情はまるで沖の石のようだと、その和歌の意味する所もよく分からないままにそう、俺は思った。
「彼女はそして、わたしから人を好きになる権利まで取り上げようとしている」
「そんな……そんな事は無いだろ。アイツだって、人の心にまでは干渉出来ない」
「口にするのも嫌なのですけれど」
嫌ならば口に出さなければ良い。なんて喉から出掛かった台詞を半ば強制的に飲み込まされる、彼女の鋭い眼つき。
「でしたら、貴方はどうなんですか?」
俺? 俺が、どうしたって?
「ああ、ご存知ないのですよね。一樹は言ってませんでしたから。まあ、言いたくは無かったのでしょうけれど。機関としては貴方の不評など率先して買いたくないでしょうから」
「だから、何の話だよ、先刻から」
「ですが」
少女は微笑む。何かを企んでいる副団長よりも、怪しく妖しい顔で笑う。
「わたしには機関の思惑など興味有りませんので。世界がどうなろうと、そんな事は知りません。キョンくん。貴方は」
俺は。
「涼宮さん以外に恋をする事は出来ないのですよ」
そんな馬鹿な話が有るか。
「それは神が望まれないからです。神が望まない事は起こり得ない。ねえ、誰が言いましたか? 誰か言いましたか? 神が人の心に干渉出来ない、なんて。相手は神様ですよ?」
信じられるか。信じられると思うか。他でもない、俺自身の感情だ。
「神は」
けれど、彼女は言い切る。反論など許さないと、断固とした口調で言い切る。
「貴方からも、奪ったのですよ。恋愛の自由という、侵されざる領域を。踏み躙ったのです。だから貴方は」
一姫が、一樹に見えた。真実とやらを俺に言い聞かせる時の、あの少年に目前の少女が重なった。

「だから貴方は、わたしを好きにはならない」

不意打ちだった。
不意打ちは……避けられない。
彼女は俺から顔を離すと、首を動かして耳元で喋った。
「何をしても、貴方はわたしを好きになってはくれない」
そのまま重い頭を預けるように、俺の肩に柔らかい髪が乗る。
キスをされても。睦言を囁かれても。
それでも、俺の心はどこかで冷静だった。まるで背中の後ろでじっとスクリーンを見ているみたいに。全てを他人事のように感じている俺が、頭の隅に確かに居た。
「わたしがどれだけ好きになっても」
……少女の声は、音に涙を伴って聞こえた。
「貴方は彼女のもの」

まるで呪詛みたいだな、なんて。どこか他人事の様に俺の頭はそんな事を考えた。


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