[携帯モード] [URL送信]
肩を並べたあの日は【前】


 どーしよ、この先一生分の幸運使い切ったかも。

 由布は繋いだ右手をぎゅっと握った。だいじょーぶ、ゆーまの幸運は私が補ってあげる。半歩先を歩いていたゆーまは、振り向いてちょっと驚いたように目を見開いて、それからそっか、と言って笑った。
 隙間なく組み合わせた手に込められる力は由布からだけでなく、共有した体温が春先の夕方の、まだ少し残る寒さの中では心地よかった。じゃれてぶらぶら揺らしたのも、ホームに滑り込む電車に間に合おうとゆーまを引っ張って走ったのも、ぜんぶぜんぶ、楽しかった。
 だからかどうかは分からない。
 けれど、ゆーまが自分から手を離したあの瞬間を、由布は今でも夢に見る。

 音楽ホールの入り口ではいくつものカタマリが出来ていた。記念写真を撮るクラス、担任が熱弁を振るうクラス、そして、湿っぽい空気に包まれたクラス。
 由布のところも、ピアノ担当の女の子が肩を揺らして泣いている。課題曲と自由曲をそれぞれ担当した指揮者二人も。丸くなった輪の中心――実際には中心に人なんかいないのだけれど、比喩的な意味で――にいる固まった三人から伝染するように女子がつられて泣いて、何人か男子も目を潤ませている。由布は彼らの対極にいた。クラスの皆でお揃いにしたカチューシャを早々に外し、けれどしまう気にはなれなくて手の内で弄んでいた。
 とっとと帰ることが出来ないのはなぜだろう、と由布は思う。
 クラスよりも、合唱コンクールなんかよりも大切なものが自分にはあったはずだ。練習初めの頃は楽譜を見ながらも常にケータイを気にしていたし、すっとんで帰ったから美依につかまらない限り放課後練はサボったし、朝だってゆーまと会うための貴重な時間を減らされて不満たらたらだった。
 それは今も変わらない。帰りたい。ゆーまのいるところに帰るべきだ。
 なのに、頭以外の何もかもが言うことを聞かない。……これは、由々しき事態だ。
 考えている間に話が終わったのだろう、輪が崩れ、声をかける美依を先頭にぞろぞろ移動していく。これから皆で打ち上げに行くようで、ケーキのバイキングが楽しみだと女子達が笑いさざめいているのが少し離れて立ち竦む由布にも聞こえた。自分は事前アンケートに何て答えていただろう。合唱コンクール以前に訊かれていたならば迷わず不参加だったはずだが、今となっては思い出せない。
 取り残されかけたところを、列の最後尾を歩く女の子が振り返って首を傾げる。同じパートの、ソプラノの子だった。練習の際に何度か喋ったことがある。

 由布ちゃんはどうする?
 ……用事があるから、パス。

 残念ね、と言って微笑んでくれた彼女への別れの挨拶は、多分おざなりだった。わざと急いでいる振りをして、皆のもとに向かう彼女を小走りで追い抜いた。美依の横を通り過ぎる時に視線を感じたけれど、決して見ないようにして。
 音楽ホールから駅に行く生徒達の人数は多く、広い道を高校の制服が埋め尽くして歩いていた。どこもかしこもグループばかり。一人でいる子は少なくとも由布の周りにはいない。自分だけが何か別のイキモノのように思えた。社会や学校やクラスには馴染めない不適合者だ。
 由布は皆から離れがたくなった理由を知った。
 光の洪水に紛う眩しい照明の中、壇上にいる指揮者が全員に微笑みかける。笑って、と両手の人差し指を頬に添える。すっかり呼吸が合うようになった伴奏者と視線を通わせ、そして、響きあう四つの音。自分の声が自分の声として聞こえなくなる不思議な酩酊感。『個』がなくなり、クラスが大きく一つにまとまる心地よさ――練習を重ねている間に、自分でも気付かないうちに魅せられてしまっていたのだ。

 行事が終わるまでの、期間限定の魔法だと知らずに。

TO:ゆーま 終わったよ。
TO:ゆー  そう、お疲れ。頑張ったね。
TO:ゆーま ……次はゆーまの番だからね。
TO:ゆー  やるだけやってみるよ、とだけ言っとく。ところで今どこ?
TO:ゆーま 満員電車の中。
TO:ゆー  ちょ、優先席付近なら止めておきなよ。メールは後で。
TO:ゆーま 了解。でも何で場所?

 二人の間に会話を続けようとする努力は要らなかった。そもそも話題が途切れることが稀だし、ほんの時々、喋りたいことがなくなったならぼーっと寄り添っているだけでも満たされていたからだ。会話の全てをメールで交わすようになってからは、少し変わった。いつまでも返事をしないでいるとゆーまがパニックに陥る。メールの返信速度を遅らせるのはゆーまの了承を貰った後だと、この前決めた。
 由布はイイコなんかじゃないけれど、ゆーまの言いつけを守って打ち終わったケータイをトートバッグの中に入れた。すぐに返信されてケータイがピカピカ光り出しても手に取らず我慢する。その代わりの暇つぶしに何となく景色を眺めたり、ベビーカーに乗った赤ちゃんと目が合えば手を振ってみたり。クラスの皆のことはわざと考えないように、寧ろ考えるならばゆーまのことに集中するようにした。
 ゆーまは、いつになったらちゃんと学校に来れるようになるのか。いつになったら戻ってくるのか。それは、答えが出ないと知っていても繰り返し考えている疑問だった。
 そうやってぼうっとしていたのが悪かったのか、電車を降りてすぐ、どんっと正面から体に衝撃が走った。由布自身は背後へたたらを踏んだ程度だったものの、指に引っ掛けていただけのトートバッグが落ち、ペンケースや定期や汗拭きシートなど無秩序に入れていた中身が散らばる。すかさず聞こえてくる舌打ちは、おそらくぶつかった人が発した音だ。反応して振り向くと背の高い、灰色の背広を着た後姿が電車の中に消えていった。

 ……仕方ない。由布は一つため息をつく。人間なんて所詮そんなもの。

 立ち竦む由布と荷物に視線をよこしながらも、別の入り口から乗り込む人々。踏まれるよりかは避けてくれた方がありがたいと思おうとして、しゃがんで拾おうとした時、手を伸ばしたペンケースを青白い手が掴んだ。ハンカチも、袋に入ったままの文庫本も、その大きな手がひょいひょいと拾って、

 これで全部かな。怪我はない?
 
 優しく声をかけながら、トートバッグに入れてくれたのもまた人間で。
 かっと頬が熱くなった。こくこく頷くと日光が苦手そうなその人――青白い肌とぶ厚いメガネをかけて、ひょろりと痩せている男性に、ありがとうございますと頭を下げる。
 そのまま脱兎のごとく逃げ去った由布には、残された男性の手に、渡しそびれた由布のケータイが握られていたなんてことは知る由もない。

TO:ゆー  んー……さっき大学の先生とかいう人が来たからさ。多分大丈夫だと思うけど、ゆーと鉢合わせしないようにと思って。

2011/09/25 投稿



[*前へ]
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!