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「篠崎、今さらっとひどいこと言わなかった?」
「気のせいですよ。貴方のお得意でしょう」
 医師は爽やかな笑顔で流し、汗ばむ額から彼の髪を掬って横へ退ける。
 そろそろ手拭いを使わなければ、と思う。本人が冷たいから嫌だと言って拒否しても、こればかりは譲れなかった。

 次に女中がこの部屋に来たら、水の張ったたらいと、真新しい手拭いを持って来て貰おう。たまには粥を自分で作ってみようか……そんなことをぼんやり考えていたから、篠崎医師が私を見ていることにも気付かなくて。ふと視線を上げれば、二十センチにも満たない距離に医師がいた。
 ずいっと顔を寄せていた医師は、僅かに不思議な色合いの目を細めてから身を離していく。私が考えていることの全て、見透かされているようだった。
「――よく眠れるお茶があるんです。後で茶葉を差し上げますね」
 なっ。
「何を仰るんですか。大丈夫ですって」
 ば、と言いきる前に声が重なる。横から口を挟んだのは不敵に笑う彼、で。
「それは嘘だね。ほら、綾子は嘘をつく時は瞬きが多くなるんだ」
「嘘っ!?」
 さっと瞼を目で覆う。そんな癖があるなんて知らなかった。もしかして、今までも彼に嘘をついた時に瞬きをしていたのだろうか。彼は気付いていないと勝手に思い込んでいるだけで、本当は知っていたのかもしれない。優しいから、何も言わなかっただけで。

 混乱する頭を抱えながら考えていると、彼はぷっと吹き出して表情を緩め、「嘘」と言った。
 文章にするならば、この言葉の後に音符でもつけていたかもしれない明るさ。こみ上げてきた怒りを奥歯を噛んで我慢し、医師に視線で助けを求めて――残念ながら、思った通りの答えは返って来なかった。
「本当に、もっと眠った方が良いですよ。大方寝ずに誠さまの看病でもしているのでしょうが、奥さままでが倒れては本末転倒です。これ以上私に心配と仕事をさせないで下さいね」
「……」
「分かりました、は?」
「……はい」
 医師が諦めるまでずっと黙っていようと思ったのに、渋々ながらも返事をしてしまったのは彼のせいだ。

 下からの悲しげな視線が、私の中の彼を思う心をちくちく突付くから。柔和な笑みを浮かべる医師が答えを促し、彼が私に是と言わせる。悪質な詐欺としか思えない。
 広い和室には私と彼、そして診察を終えた医師だけだ。医師は診察を手伝おうとした女中をまずこの部屋から出し、見舞いに来た彼の弟を追い払って三人きりの状態を作った。それなのに、今度は私に片手を伸ばして外を示す。
「では、申し訳ありませんが少し席を外して頂けますか? こいつにお説教をしてやりたいので」
「聞いていてはいけないのですか?」
 嫌なのだと、甘ったれた我侭を言っているのは自分でも理解している。

 それでも、撤回するつもりは毛頭なかった。……実を言うと、私のいない所で何か重要な話をするのではないか、という疑念もあって。
「構いませんが、かなり乱暴な言葉を使いますよ。女性にはお聞かせしたくないですね」
「それでも」
 聞きたい。十六の春の日のように……もう二度と仲間外れにされたくない。彼の体に関することなら、何と言われても真摯に受け止めるだけの覚悟は出来ている。やんわりと断りを入れてくる医師に食い下がっていると、彼は布団から手を伸ばして着物の裾を摘み。命令の響きで名前を呼んだ。

「篠崎の言う通りにしてくれないかな」
 また、私だけ姫君扱い。
「……誠さまもそう仰るのですね」
「花を替えてきて欲しいんだ。何にするかは綾子が決めて良いし、稔に相談しても構わない。やってくれるよね?」
 私が嘘をつくのが下手なら、彼もそうだ。私はちらりと掛け軸の下、生けられている八重桜に視線を走らせ、立ち上がって笑顔を向けた。迷惑をかけないようにするので精一杯。
 今の私に許されることと言えば、もうこれしかないような気がする。
「分かりました、行ってきます。……篠崎医師、どうぞごゆっくり」
「行ってらっしゃい、宜しく」
 最後まで言いきらないうちに部屋を出た。
 時間の止まったかのような屋敷とは裏腹に、きちんと手入れされた日本庭園は既に初夏の風を醸し出している。

 池は日の光を反射してきらめき、この前までの雨はどこに行ったのだか、空は雲一つない晴天だ。
 目を閉じて吹き抜ける風を感じ、先ほどの花を思い出した。……桜の花は、替える必要がないほど綺麗に咲き誇っていた。


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