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 私は膝の間に頭を埋めたまま、そんなことをぼんやりと考えていた。傘を差さずに私を見下ろす彼が、泣きそうになっていることにも気付かないで。
「綾子」
 何度も繰り返し呼ばれる名前に、返事をしないことだけが私の反抗だった。そうすれば私をオモチャにして遊ぶ、意地悪だけど優しい同年の幼馴染みは、何も出来ないと分かっていたから。
 ぽた、ぽた、ぴしゃん。
 桜の木の下には所々に小さな水溜りが出来ていて、花から滴り落ちた雫が容赦なく地面を穿つ。余所行き用の着物がどれだけ雨に濡れて、泥で汚れても構わなかった。寧ろそれで『手の付けられないじゃじゃ馬』の烙印を押され、彼の婚約者の座から降ろされれば。

 どれだけ長い間、そこにいたのだろう。

 名前を呼ぶ声の代わりに聞こえてきた、微かな衣擦れの音に、私はこっそりと視線を上げ――驚愕した。
「僕の力不足だったんだ。謝っても許して貰えないのは分かってる、ごめん。稔にも申し訳な……」
 止めて。そんなこと、しないで。貴方はそれをして良い人じゃない。
 私は弾かれたように立ち上がり、地面につく彼の手を無理やり取った。引っ張って立ち上がらせ、手の平についた土を落とす。おそらく土下座をするのも初めてなんだろう、でなければこんな場所で膝をついたりはしない。
 稔のことは頭から離れて、無茶な振る舞いをする幼馴染みのことだけに意識は集中していた。うっすら汚れた額を乱暴に着物の袖で拭っていると、「どうして」と痛みに眉を寄せながら彼は呟く。
「……分かりましたから、誠さま」
 呼び捨てからさま付けへ、敬語へ。婚約者となるからには、もう対等な立場でいられない。幼馴染みの気楽な立場でもいられない。彼はその意図を正確に理解したようで、安心の色はすぐさま暗雲に染められていく。

 そうして、現在まで続く私の雨は降り出した。

 篠崎医師の言う「私の雨」が誠さまとこの家であるならば、大切な物とは何なのだろう。私は何を失うことになるのだろう。
 そんなことを、外を眺めながらぼんやり考えていた。朝からの霧雨が止む気配はまだなく、散りかけの桜を蜃気楼の如くぼかして見せている。少し首を回すと誰もいない日本庭園が目に入って。どうやら、元気なのは池にいる錦鯉だけのようだった。
 ……違う。
 黒い傘を差した誰かが、こっちに向かってきている。目を眇めて見つめ、それが誰なのか理解したのと同時に立ち上がった。

 見張りの女中を置いてこないのが間違いだったか。いっそ自由にプラプラ出歩けないように縛ってしまえば良かった。
 縁側のすぐ下まで寄ってきた彼は、傘を斜めに差して私の表情を伺う。彼の妹が飼う子犬にも似た仕草で、無闇に邪険に出来ないのが余計腹立たしい。
「まだ怒ってる?」
 怒っています。でも、それ以上にご自分を大切になさらないから怒っているんです。とは、言えなかった。彼の目が私から逸れ、また別のものを見ていたからだ。
 雨の中の桜を見上げながら問いかけられると、何のことを指しているのか分からなくなる。先ほどの戯言のことを言いたいのか、婚約した時のことを言いたいのか見当がつかなかった。
「どっちのことを仰っているか存じませんが、怒ってないです。……部屋にいて下さいってお願いしましたのにっ」
「女中を向かわせようと思ったんだけど、中々来ないから諦めた。僕が迎えに行った方が早いじゃないか」
 あっけらかんと言う彼は、自分の状況を全然分かってない。あれほど安静にと言われたのに、私を置いて逝かないと約束したのに。

「ご自分が病み上がりであること、理解なさってます?」
 こうして泣くたびに、私は何故泣いているのかと言いようのない不安に囚われる時がある。彼がいなくなってしまった後の自分を考えて死んで欲しくないと思っているのか、彼に生きていて欲しいという気持ちだけなのか。
 利己的。結局は自分が一番可愛いだけで、彼のことなんかこれっぽっちも思っていないのではという疑問。答えは、まだ出ていない。
「分かってるって。一緒に戻ってくれるよね?」
 黒い傘の下から純粋な笑みが覗く。靴もないのに手を差し出して、私を庭に下ろそうとする。


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あきゅろす。
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