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 嫌味交じりに言うと、夫は気にした様子もなくしれっと返す。
「言わないと、綾子は挑戦しようともしないじゃないか。あやとりにけん玉に羽子板に、ああそうだ縄跳びも」
「それ以上言わないで下さいっ。もう子供ではないのですから!」
 声を荒げただけで、手で彼の口を塞ぎはしない。
 視界の端では垂れた目が眇められていて、私は手近のお手玉を強く握り締めた。寂しさと悲しみと慈しみが、ごちゃまぜになった表情だった。
「そうだね。思慮分別のある大人になった」
「誠さま? 何を仰りたいんです?」
 思慮分別のある――それが引っかかった。ただ大人になったとだけなら胸を張って「そうですよ」と答えられるのに。まるで、私が大人になったことを良く思っていないような言い方をする。

「たまには泣いてわがままを言ってくれないと張り合いがないよ。元々少なかったのに、『大人』になって更に少なくなった。いや、なくなった」
 なりたくてそんな大人になったんじゃない。悲しみでいっぱいで、悲鳴を上げる心が張り裂けそうで、辛くて苦しくて。この世の全てを憎みたくなって。
「だって、その時は!」
 その時は。
「……口を過ぎました、申し訳ありません。私、ちょっと外に出てきます」
 これ以上彼に言ってはいけないと、頭のどこかで警報が鳴って。私はそそくさと立ち上がり、隙間なく閉められていた襖に手をかけた。
「今日も雨なのに?」
「離れに行ってきます。何かありましたら女中を呼んで下さい」
 文字通り、逃げるように部屋を立ち去る。いつもの言葉は言われなかった。


 結婚を告げられたのは、十六歳の春。その日はどんよりとした曇り空で、いつ雨が降り出してもおかしくないような重たげな天気だった。
 どこかで勉強したのか、妙に天気予報がよく当たる医師……篠崎の兄も「午後から雨が降る」と言っていて。ぎりぎりだったけれど、それでも彼の家で春のお茶会は実施された。
 ただの幼馴染みに過ぎない私は、行かないはずだった。
「綾子、貴女もお茶会に行くのよ」
 母から決定事項のように言われ、私はよく考えずに頷いた。私が招かれたのだから、きっと篠崎の兄も、もう一人の幼馴染みである稔もいるだろう。普段は着ないような上等の着物を身にまとい、実家の使用人からも綺麗だと褒めそやされて。
 私は純粋に嬉しいと感じ、大人っぽくなった自分を見て貰いたいと思った。

 喜び勇んで出かけた春のお茶会には、確かに篠崎の兄も稔もいた。けれどそれ以上に、自分を値踏みするように見る彼の親戚の視線が気になって。彼も稔も篠崎の兄も、どこか暗い表情をしていて。
「三人ともどうしたの? 様子が変よ」
 暫く押し黙ってから、言い難そうに篠崎の兄が口を開く。
「……気のせいだよ」
「気のせいじゃないわ。何で、さっきから返事をしてくれるのがお兄さまばかりなの? 二人は口を利いてはいけないの?」
「……そう。どちらが先に綾子ちゃんに話しかけてしまうか、我慢比べをしているんだ。だからなるべく、二人に話しかけないようにね」
 稔と彼がよくそうやって遊ぶことを、私は知っていた。
 二つのつぼみのどちらが先に花開くか、池で飼っている錦鯉が出てくるか否か。賭けの判定役を務めるのは大体篠崎の兄だったから、そうか、と納得してしまい。何か言いたそうに私を見つめる稔に、「頑張って」と背伸びして囁いた。

 なのに、お茶会が終わり、日本庭園での園遊会に移行しようとしていたその時――。
「誠と綾子さんの婚約を発表したいと思う」
 そう、彼のお父さまがその場にいる皆に仰った。

 和室を飛び出した私は、人目につかない離れの奥、一本の桜の木の下で泣いていた。
 座って自分の膝を抱き寄せ、視界を遮断し子供のようにしゃくりあげ。ぼろぼろと涙を零しているうちに、雨が降ってきていることに気付いた。新緑の季節ならまだしも、今はまだ花が咲き誇っている。容赦なく冷たい水が頭の上に落ちてきて、雨宿りにはならなかった。
 頭を占めるのは、お互いに好き合っていたはずの幼馴染み。――稔のことだけ。
 稔はこの婚約を知っていたから、あんなに悲しげな顔をしていたのね。どんな思いで、何も知らずに話し掛ける私を見ていたんだろう。何を伝えたかったんだろう。
 私たちが好き合っていることは、彼も篠崎の兄も知っていて。稔も私もそのことで彼にからかわれていたくらいで。子供たちの世話をする女中達の間でも公認だった。「綾子さまと稔、お二人の様子が微笑ましくて仕方ないのです」と笑み混じりに言われたのを覚えている。
 婚約を唐突に言われても、彼のことは、兄としか思えない。
「……綾子」
 どうしてその声が、大好きな人のものではないんだろう。


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