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 くらくらする。
 どうしてもっと、分かりやすくて彼が動く必要のない、暖かい場所にいなかったんだろう――。

「何も要りません。誠さまがお元気でいて下されば十分です」
 自分の願いよりも彼の体調の方が大事だった。けれども、必死になって言い募れば募るほど、彼は頭を縦に振ってくれない。「何か言いなさい」とそればかりを繰り返して。
「本当に、要らないんですってば……」
「そう言わずに。何でも良いよ、好きなものを用意してあげる」
「ですからっ」
 更に紡ごうとした唇を、長い人差し指がふさぐ。
「では、考えておきなさい。何もねだらないのは許さないからね」
 穏やかな印象を与える垂れ目はすっと細まり、お願いよりも命令としての意味が強く感じ取れた。この家の家長である彼には、妻である私であれども逆らえない。彼が優しいから、いつもはそれに気付かないでいられるだけで。
「分かりました」

 そう言うと、彼は満足したように頷いて立ち上がった。用事はこれだけだったらしく、私も本邸に戻るべく腰を上げる。桜を見るのは、また明日にしよう。
 迷路にも似た長い廊下を連れ立って歩いていると、彼はふいに振り返って言った。
「――そうだ。幾ら君が憂鬱でも、この雨を止ませてくれという頼みは聞けないな。こればかりはお天道様に頼むしかない」
 彼の言う雨は、きっと天気のことじゃない。
「……そのくらい、分かっておりますわ。てるてる坊主を作ることに致します」
「なら良いんだけど」
 小さく笑い、私の手を取って歩き出す。元々人前では会話が少ないから、こうしないと私が置いていかれてしまう。私は迷子になった子供のように、強く彼の手を握り締めようとして――気付いた。熱い。
「誠さま、熱くないですか?」
 引っ張って前に進もうとする彼を引き止め、額に手を乗せた。先ほどは何とも思わなかったけれど、温かみを取り戻したこの体ならば分かる。どう考えたって熱すぎる。

「暑い? 今は春だよ、綾子」
 彼は緩く首を傾げ、きょとんとした様子で聞き返してきて。少し観察してみればすぐに分かった。笑みを抑えきれず、口角が微妙に上がっている――確信犯。
 何で熱があるのに、私なんかの所まで来るのだろう。
 誕生日の贈り物だって今日でなくとも良かったはずだ。泣きたい気持ちを押さえ込んで、私は地面に足をつけた。ここからならば母屋まで直線、走っていった方が速い。
 着物のまま走るのも、裸足でぬかるんだ土を蹴る行為も、はしたないとは思わなかった。
「誠さまの体温のことですっ。待っていて下さい、誰か呼んで参ります」
「大丈夫、寝ていれば下がる」
 つかまれた紬の袖を振り払って、私は叫んだ。
「誰か、手拭いとたらいを持って来なさい! 篠崎さまを呼んで、今すぐよ!」


 夫の着替えを持った私が部屋に入って早々、実にあっさりとした口調で篠崎医師は言った。
「風邪です」
 既に診察は終えているようで、二つの大きな鞄は広い和室の端に揃えられて置いてある。彼の眠る布団以外には本棚と文机しかない、殺風景な私室。入るのは久しぶりだった。
 しみじみと昔を懐かしんでいる間もなく、医師は「最近、気温の変化が激しいですからね」と続ける。医師にとってもまた、彼の件で呼びつけられるのは日常茶飯事になりつつあるようだった。
 要するに、自分一人だけ騒いでいたのだ。少し気恥ずかしくて、私は医師から視線を逸らして返事をする。
「……そう、ですか」
「ただ、誠さまの場合は命取りになりかねない風邪、ですが。こじらせなければ一週間ほどで治ります」
「一週間も?」
 どうしてそんなにかかるのだろう。帰る支度をしていた医師と、静かに眠る彼の表情を見比べる。この前の風邪も三日ほどで良くなり、四日目にはお弟子さんに茶道の稽古をつけていた。

 それほど悪いのかと聞くと、篠崎医師には逆に呆れられた。「それは誠さまが無謀なだけだ」、と。
「体の弱い人間は、風邪一つ治すのにも長い時間がかかるものです。今はただ、誠さまを安静にさせることだけを考えて下さい。激しい運動は厳禁ですからね」
 医師が彼の横から退き、代わりにその位置に私が座って。言外に何かを伝えているような、含んだ物言いには苦笑せざるを得なかった。私たちの間では有り得ないのに。
「分かりました。他に、何かすべきことはありますか?」

 すっかり温くなった額の上の手拭いを濡らし、軽く絞って。寝巻きの襟を緩めながら問いかけると、医師はクスクスと笑い、手を左右に振った。
 手馴れている私に言うべきことは何もない、ということらしい。
「いつもの看病で結構です。ああ、看病は出来るだけ奥様がなさった方が宜しいでしょう。見えなくなると勝手に動き出しますから、こいつ」
 ふっと変わる彼への呼称と、爪先で布団の端をつつく態度。そこに彼の幼馴染みとして過ごしていた頃の医師の姿を見つけて、何だか懐かしくなってしまう。昔は、私を含めた三人でよく遊んでいたものだった。


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