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数日前から、私は自由に庭を歩けないでいる。
自由に、とは女中につきまとわれたり始終お説教をくらったり、という意味ではない。気兼ねなく、ふらふらと日本庭園を散歩して新緑の季節を楽しみ、久々の晴れを満喫するということがどうにも出来ないのだ。
常に周りに気を配り、その人の影があればそそくさと立ち去る。よほど必要でない限り、顔を合わせたくなかった。
夫が手紙を出して頼み込み、ようやく雇えた庭師は数日前から屋敷で働き始めている。前の庭師より勤勉で仕事は正確この上なく、かつ速くてこの家の庭を知り尽くしているよう。新参の女中が素敵だと騒いでいるのを何度か聞いた。
その庭師は、私の視線の先で花に水をやっていて。何故だろう、と考えて答えを思いつくまで数秒かかった。
……ここ数日、ずっと晴れが続いていたからか。単に彼の部屋にこもりきりで、天気を一切忘れていただけ。あれだけ雨を憂鬱に思いながら、いざ天気が良くなっても何とも思わなかったのだ。
不思議だ、といえば。
私がここ、庭の中にある東屋に到着し立ち止まってから時折、庭師は肩を震わせている。
後ろ姿のため笑っているのか、または泣いているのかも不明だった。庭師が私の知っている少年のままならば、花の綺麗さに涙を流すような性格でもない。
明らかに、おかしい。首を捻りながら見つめていると、庭師は前振りなしに振り向く。隠れようとしても無駄だった。
「何をしたいのか知らないが、遠慮する必要はないだろう」
「仕事中じゃなかったの?」
「見ての通り、仕事中だ」
声、ずっと低くなったような気がする。背もあの時より伸びて、もう首を軽く傾ける程度で済まなくなっていた。外にばかりいるからだろうか、健康的な色に焼けた肌が精悍さを際立てていて。
ああ、でもぶっきらぼうな話し方は昔と変わらないな。
稔はぐっと言葉を詰まらせて、視線を宙に彷徨わせる。話しかけたは良いものの、戸惑っている様子がありありと見て取れた。
「……ここはお前の家なんだから。気にするな」
昔がどうだったにせよ、今は女主人と庭師の関係だ。
敬語で話さなければいけないと言い終えてから気付いたらしく、稔はばつが悪そうに顔を背けている。
小さな仕草の一つ一つが、私が好きだった稔を思い起こさせた。
長雨が続いたあの日。
言伝として茶色い封筒を受け取ったが、中身は私宛てではなく誠宛てだった。季節の時候を抜かした、最初から最後まで夫に語りかけて書かれた手紙。
書き手は稔。あまり気乗りしないがお前がそこまで言うなら庭師として雇われる、と几帳面な字で書かれていた。いや、もっと言い方が尊大だった可能性もある。
彼宛ての手紙が何で私の所に来るのか。どうしてわざわざ稔を――私の思い人であった男を呼び戻そうとするのか。
手紙を見せて直談判したが、はぐらかすのが上手い彼は「稔の仕事振りが素晴らしいと評判だからだよ」と言って、詳しい事情は教えてくれなかった。
私は動悸を抑えるため息を吐いて、にこりと微笑んだ。余裕があるように見えていれば良いのだけれど。
「そうね、戸惑うことなかった。今盛りの花で、何か良いものはある?」
「茶道で使うの……です、か」
たどたどしい敬語。無理やり搾り出したようで、私は思わず噴出して笑ってしまった。つくづく、稔との会話に敬語は似合わない。こうして一定の距離を保って話すのにも違和感があるが、それについては考えないことにする。
「二人きりの時は敬語じゃなくても構わないわ。慣れてないんでしょう?」
私は、身分の高い男と結婚した幸せな女に見えているだろうか。
「ああ。そもそも、お前に敬語を使うところを想像出来なかった」
この声が、ぎこちなく聞こえていないだろうか。
「私も、稔に敬語を使われる日が来るなんて思っていなかったから。お互い様よ」
それから暫く沈黙が続いて、お互いに何を言えば良いのか思案しているようだった。幼い頃から専属庭師の息子として出入りし、この家を知り尽くしている稔に『庭を案内しましょうか』はおかしいだろう。
では植物の様子を尋ねてみる? 椿の厚い葉には艶があり、秋の終わりに剪定した松は勢い良く枝を伸ばしている。どう見ても良好だ。
「誠の部屋の花か?」
あ、と呟く。そうだ、彼に花を頼まれて庭まで出てきたんだった。
春の花は離れの方に多いから、そうなると朱色に塗られた反り橋を渡り、東屋の前を通って行く方法しかない。
そこに稔がいた。私は堂々と稔の前を通り過ぎていくことも、諦めて母屋に戻ることも出来ずに立ち止まり、稔を、ずっと見ていたのだ。
「そう、でも良いわ。私を追い払う為の口実だもの」
警報が鳴る。これ以上話していてはいけない。余計なことを口走ってしまう、危険だと冷静な私が告げている。口を挟む隙を与えない早さで言うと、私はくるりと踵を返した。
自室に戻り、作りかけの浴衣を完成させてしまおう。彼から薦められた本を読んでみるのも良い。とにかく、ここから離れなければ。
「逃げるな」
電流にも似た、怒りの滲む声だった。恐る恐る振り向くと、稔は吊り上げていた眉を僅かに緩ませて離れの方に目を向ける。
「白木蓮……は、確か離れの西だったな。まだ咲いていたはずだ」
そんな花あったかしら、と少し首を捻る。
敷地が無闇に広すぎるせいで、どこにどんな花があるのか、住人である私や彼も完全に把握出来ていない。でも、稔がそう言うのならあるのだろう。有り難く好意を受け取ることにした。
「ありがとう。探してみるわ」
「待て」
……そこで呼び止めないで欲しかった。稔の声を無視し、素早く東屋の前を通って離れに行けない私も私だけれど。
「俺も行く。どうせお前一人じゃ分からない」
夫と医師には追い払われ、顔を合わせたくない元恋人と一緒にいる羽目になる。
今日は厄日なのかもしれない。
紅の雨TOP
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