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 ……今日も、雨。

 音なく降る雨を見て、私はそっと溜息をついた。先ほどからずっとこの縁側に座り、桜の花を見上げ続けている。
 略装とはいえ、普段なら許されない奇怪な行動だとは思う。何をやっているのかと不審に思われても仕方ない。けれども、「立場を考えて下さい、綾子さまは女主人なのですよ!」と口煩い女中の声は聞こえてこなかった。私が、人払いを命じたから。

「綾子?」
 反射的に顔を上げると、優しい笑みを浮かべる夫と目が合った。
「えっ、あ……おはようございます、お体の調子は如何ですか」
「まあまあだよ」
 心配しないでと軽い調子で告げて、彼は私の後ろに座り込む。片手を私の肩に置き、僅かに体重をかけて前のめりになり。頬と頬が触れそうなほどの近さだった。
 こういう行為も、人前では滅多にしない。珍しい、と思った瞬間、彼からも同じ言葉が飛び出てくる。
「それよりも珍しいね、綾子がこんな所にいるなんて。何か良いものでもあった?」
 彼が思うような良いものなんてないのに。まるで同じ光景を見たいとばかりに、首を伸ばして私の視線の先を追う。頭を振れば結ばれていない髪が夫にかかってしまうから、私はただ俯くことしか出来なかった。
「いえ……。今日も雨で憂鬱だなあ、と思っただけで」 
「この時期は仕方ないさ。育花雨という言葉は知ってるかい?」
 いくかう。
 この状況で言うのだから、少なくとも『行き交う』ではないのだろう。今まで聞いたことのない言葉に、私は少し考えて呟いた。彼は雨すら愛でているかのような、穏やかな眼差しで外を見ている。

「無教養な妻で申し訳ありません」
 素直じゃない。もっと奥ゆかしく、可愛く言えれば良いのに。自分の発言に気付くたびにそう思う。
「漢字そのまま、花を育てる雨ってことだよ。植物にとっては恵みの雨なのだから、綾子も我慢してあげなさい――っ、と」
 ふっと肩が軽くなって、口元に手を当てた彼は私から顔を背ける。こんこん、とささやかなものではない。
 例えるならゴホゴホと、少しずつ命を削っていく咳。それが彼にとっては『まるで』で済まないことを、私は知っていた。
「誠さま!」
 裾を捌いて膝立ちになり、広い背中を擦っていく。暫くして咳が治まると、私は縁側から一番近い部屋の襖を開けた。肩に両手を添えて支え歩きながらも、私の小言は止まらない。本人が気楽に考えている分、周りがやかましく言わなければ。
「どこがまあまあなのです。もうっ……」

 入った部屋は普段、客間として使っている部屋で。わざわざ女中を呼んで持って来させる必要もなく布団は押入れから新品のものを降ろしたけれど、三つ折りにされた状態のまま、ついに敷かれることはなかった。使うはずの本人が、横になることを断固拒否したからだった。
「日常茶飯事じゃないか。心配性だね」
 結局、布団は座布団代わり。彼はくつくつと喉の奥を鳴らして、隣に座らせた私の腕を引いた。自然、私が彼に凭れかかる格好になる。
 自分でもずっと外にいて冷え切っていたのがよく分かった。あたたかな彼の体温が心地良い。
「誠さまが楽観的すぎるだけですわ。もっとご自分を大切にして下さいませ」

 あまり体の強くない貴方が無理をして下さる、それ程の価値なんて私にはありません。言えずにごくりと飲み込んだそれすら柔らかく包み込んで、彼は私の頬に指を滑らせた。
「分かっているよ。それより、誕生日の贈り物は何が良いかな。そろそろだっただろう?」
 小さな体の触れ合いは日常になり過ぎて、もう恥ずかしくも何ともない。
「贈り物? そんな習慣なんてなかったではないですか」
 今まで贈り物を貰うことはもちろん、祝うことすらなかった。私に限らず、誕生日とは年を一つ重ねるだけの日という考えの人が多いはず。非難を込めて問いかければ、彼は「それがね」と言って笑う。それも、楽しげに。

「欧米の文化であるらしいんだ。君も二十歳だし、記念に贈らせてよ」
 何が欲しいかと聞かれて、すぐに思いつくほどこの屋敷での生活は不自由していない。全てのものが足りなくなる前に補充され、身の回りのことは女中が担当している。書斎には沢山の本が揃っているから退屈もしない。
 結局、当り障りのない贈り物は何も考えつかなかった。
「残念ながら、今の生活は満ち足りておりますの。何も欲しくはありませんわ」

 何も欲しくないと言えば語弊がある。臆病だから、それを欲しいと強請れないだけで。
「たまには我侭を言ってくれれば可愛いのに」
「可愛くなくて結構です。……もしかして、それだけの為にこちらにいらっしゃったんですか?」
「あはは……」
 まさかと思って釘をさしてみれば、矢張りその通りだった。
 今いるのは屋敷の離れだけれども、現在ここは全ての部屋が来客時用の場所となっている。何らかの理由がない限り、好き好んで離れに行こうとは思わないだろう。それに私は人払いを命じていたのだから、女中に聞けばどこにいるのかはすぐに分かる。


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