祈【2】
「散らかってるよ」
「知ってる。どうせ菓子の袋ばっかり散乱してるんだろ」
「そこまで酷くないよ」
「それも知ってる。汚いなら最初から招待なんかしないもんな、夏夜は」
夏夜はため息をついた。
「……まあ、その通りだけど」
とはいえ、モデルルームのように綺麗とは言い難い。
最低限のベットメイクはされているが皺が所々に寄っているし、本ややりかけの宿題は勉強机の上で放置、隅の旅行用バッグはチャックが開いてコンビニの袋に入ったお菓子が飛び出ている。
タオルケットを広げてバッグに被せ、どうにか見られる状態に仕立て上げた。
作業を終えて振り返ってみると、一成は所在無さげにドア付近で立ち尽くしていた。
ベッドを軽く叩いて座らせ、夏夜は何となくその足元に。
テレビはつけなかった。
せっつくのもおかしい気がして、一成が自然に話し出すまで黙って待っていた。
あるいは話してくれなくても構わない、夏夜と寄り添うことで少しでも一成の傷が癒えることを願った。
「怒ってるより、悔しいや悲しいと思うのに近いんだ」
呟きが聞こえてきたのは退屈を通り越してとろとろ眠くなり始めてきた時である。
先ほどと対照的な落ち着いた声で、夏夜はうっかり激しい怒りの炎が沈静化したのかと錯覚した。
「……うん」
「そうだ夏夜、お茶会の間はずっとここにいろ。呼ばれたからってホイホイあっちに行くんじゃない、あっちは悪魔の巣窟だ」
嘘。
やっぱり怒っていた。
ベッドから背中を離し、くるりと体を半回転させて一成を見上げる。
「何で?」
「お前だって自分の好きな人を侮辱されるのは嫌じゃないか?」
夏夜は馬鹿正直に考えてみた。
一成や、冬哉や親友のメグや両親の悪口を面と向かって聞かされる。
どれだけ苦痛で、胸がえぐられるような気がして、我を忘れて耳を塞ぎたくなることだろう――。
一成は見る見るうちに泣く一歩手前の表情になった夏夜の髪に手を差し入れ、そっと目元を緩ませた。
ただその微笑が、夏夜の目には全てを諦めた人特有のものに見える。
「そういうことだ。借りるぞ」
ぎしりと盛大にスプリングを鳴らして落ちるように上体を横に倒したきり、一成は動かない。
本格的に寝てしまおうと思っているようだ。
今度は夏夜が膝立ちになり、サラサラの黒髪を梳いていく。
「……夏夜で良いなら、聞いてあげるよ。一緒に怒るし、一成くんが望むなら泣いてあげるし、お茶会に行ってお抹茶飲むんだって嫌だけど我慢してあげる。
一成くんと違って跡取り問題はないから、失礼なこと言った人に面と向かって悪口言いまくるのだって出来るよ。
忘れろって言うなら、聞いた後全部忘れる努力だってするから」
何だってするから、夏夜のちっぽけな手の上にあるものなら何でもあげるから。
心が訴える。
「そんな顔しないで」
この人を、悲しませてはいけないのだと。
大好きな従兄は驚いたように目を見張ると「そんなに甘やかすとつけ上がるぞ」と言って、男のひとらしい筋張った手で慎重に夏夜の腕をどかし、それからくしゃりと顔を歪ませて笑ってくれた。
良かった、と思う。
もしこの発言を馬鹿だと思って笑ったのでも、結果としてそれが一成の気を紛らわせたなら大成功。
不機嫌な顔はそれもそれで凛々しく格好良いけれど、一成の良さを最大限に引き出してくれるのは笑顔に決まってる。
十三年一緒にいる夏夜が言うんだから間違いない。
でも夏夜は、その後を聞いて微笑むことすら出来なかった。
「彼女が出来たんだ」
一成の涙を、代わりに引き受けたかのように。
「…………え?」
呟きと一緒に丸い水の玉が転がり落ち、ベッドのシーツに淡く滲む。
続けてぽたぽたと途切れなく零れる涙を夏夜は強く手の甲で拭った。
不思議な現象はそれだけでない、下腹部はまるで大量の水を入れたかのように重く。
夏夜にはどうして涙が出るのか分からなかった。
だってそれはずっと前から予想していたことだ。夏夜と一成との年の差はどう頑張っても埋められないし、一成は今年で十九になる。
自分が邪魔をしていた節もあるが、こんなに素敵なのに今まで彼女がいなかった方がおかしい。
「家にも近いうちに連れてくる予定だった。親に紹介しようと思ってさ」
「大切な人、なんだ」
ゆっくり肯定する声が耳を打つ。
夏夜よりも大切? なんて言えば一成が困るか、あるいは自分がもっと傷つくのが目に見えていて、訊けなかった。
「もう花火大会連れてってとか言えないね……お正月も。彼女さん優先しなきゃ」
春の花見も秋の紅葉も、一成の横では見られなくなる。
優しさに甘えて居座っていられた場所は彼女が新たに入ってきて、夏夜は出て行かなければいけない。
それを考えると、心が擦りむけたように我慢すべき痛みを帯びた。
「そうだな。夏夜の面倒ばっか見てられるのは今日が最後だろうな」
「どんな子? 美人?」
「美人って感じじゃない。俺にはもったいないくらい可愛くて素直で、人を疑うって言葉が辞書からすっかり欠落してる子」
「何それ」
酷い言い様だけど羨ましかった。
夏夜は一成をこんな風に笑わせられるだろうか。
暫くクスクス笑って、ひっきりなしに落ちていた涙もようやく引っ込ませた頃、ようやく夏夜にも余裕が出来た。
彼女が誰なのか知りたくなったのだ。
「彼女さんって夏夜も知ってる人? 今日のお茶会に来てる?」
叶うなら、家柄も教養もスタイルも、夏夜がどんなに頑張っても絶対に追いつけないような人が良い。
夏夜の母か伯母のような。
「違う、今日も来てないし学園で知りあったわけでもない」
「どこで出会ったの?」
矢継ぎ早に聞いてすぐに両手で口を塞いだ。無意識のうちに高い家柄を前提とする、なんて傲慢な言い分だったんだろう。
まるで『○○に貴女は相応しくないのよ!』とでも言って主人公をいじめる少女漫画の悪役だ。
「言う必要はないだろう。第一、お前が知っている人じゃないといけないのか?」
当然、一成は軽蔑したような冷ややかな声を浴びせてきた。
「……ごめんなさい」
よく考えずにこんなことを言ってしまった自分が恥ずかしい。
謝ってどうなることでもないけれど、許される資格もないと思ったけれど、ただ謝りたくて「ごめんなさい」と呟いた。
名前や家柄が、その人の証明になるなんて限らないのに。
「彼女さんにも伝えておいてくれる……?」
一成は薄く微笑みを浮かべたきり、何も言わずにいきなり話題を変えた。
「普通の家ですくすく育ったんだ」
その時、一成の眼に宿っていた感情は『憧憬』であったと確かに思う。
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