恋響【2】
「大っ嫌い」
呟くと、隣を歩いていたお姉さんがギョッとして夏夜を見る。
視界の端で確認できたが訂正する心の余裕はなく、無視を決め込んだ。十二歳の夏夜にとっては周りへの気配りよりも自分の精神状態の方が大事だったのだ。
(嫌い。嫌い。大っ嫌い)
赤とカーキと水色と黒と朱、全部混ぜ込んだ汚い負の感情がぐるぐる渦巻いて思考を支配していく。
そしてそう思ってしまう自分すらも夏夜は嫌いだった。
どうして綺麗なままの気持ちでいられないんだろう。
一成を見つけるのは割合簡単だった。
普段から家の都合で和服を着ている一成は周りとオーラが違うのだから、男性用の浴衣を一番カッコ良く着こなしている人を探せば良い。
問題は見えるか否かなのだ。
目を細めて見やれば夏夜の百メートルほど先、かき氷の屋台の前で立ち止まり、忙しなく首を動かしている。
ここにいるよ、と手を挙げたが気付いてもらえない。
すぐに駆け出せないのがもどかしかった。
早くしないと一成は動き出してしまう、そうしたら折角縮めた距離がまた開くのだ。
お願い、そこに着くまで待っていて――。
祈りは、届かなかった。
一成の背が遠くなっていく。
夏夜はもっと前にいると考えたのか、諦めて一成の家――仁科の屋敷に戻ろうとしているのか。
はぐれたことが皆にばれたらどうしよう、と考えるとぞっとした。悪いのは夏夜なのだから、夏夜だけが怒られるのならば道理にかなっている。
しかし伯父や伯母は監督不行届きとしてまず一成を責めるだろう、それは嫌だ。
夏夜は更に足を速めた。
花火の開始時間が近付くにつれて人込みは緩和されているが、それでも人と人との合間を縫って前に進む程度しか出来ない。
去年、一成たち家族と湯島天神の初詣に行ったことを思い出した。
あの時は確か、夏夜が言わずとも一成の方から進んで手を繋いでくれた。
「危ないから」と言って、微笑んで。
ちりめんの巾着袋は揺らさずに紐の根元部分を掴み、浴衣の裾が乱れても直さない。黒塗りの下駄を容赦なくアスファルトに打ち付ける。
立ち止まったら二度と一成に追いつけないような気さえ、した。
あまりに前だけを見ていたから、下が注意散漫になっていたのだろう。
カッ、と鈍い音がして地面を踏みしめていたはずの力が抜けていく。
理由をごく簡単に示せば小石に躓いたのだ。
「ひゃっ……!」
体が前に倒れ――反射的に、夏夜は前にいた人の腕にしがみついた。
「大丈夫?」
二人一緒にバランスを崩して転倒とならなかったのが幸いだった。
驚きながらもとっさに支えてくれたのは一成と同じくらいの年頃の少年で、ダメージジーンズに白いシャツを合わせ片手にはビニール袋を持っている。
何が入っているのかは分からないが、今の衝撃で中身が零れなかっただろうかと心配になった。
控えめな声でもう一度同じことを訊かれ、夏夜はハッとして少年を見る。
首を傾ける角度が一成を見上げる時と同じだった。
「あ……はい。大丈夫です、すみません」
「良かった。君、一人なの? 迷子?」
人の流れの中で夏夜と少年だけが立ち止まっていた。
夏夜の頭を軽く叩き、くったくなく笑う少年につられて微笑み返す。
その通りだと頷きかけ――閃光のような声が、真っ直ぐに届いた。
「何やってんだよ」
その声が自分を呼ぶ限り、どこにいたって必ず感知出来るだろう。そう夏夜は自負していた。
証拠に人々のざわめき、屋台からの呼び込みも目の前の少年の声も全く聞こえなくなるという錯覚に陥る。
両親や友人ではこうはならない、一成の声だけだ。
声の方に視線をやれば、助けてくれた少年の斜め向こうに一成の姿が見えた。
形の良い眉を吊り上げ、唇を真一文字に引き締めて組んだ両腕をとんとんと人差し指で叩いている。
怒られる、と長年の経験と直感が言っていた。
一成は呆然としている夏夜の代わりに素早くお礼を告げ、手首を引っ張って人込みから連れ出した。
ずらりと並んだ屋台の列が途切れ、青色の簡易テーブルが幾つか置いてある。飲食スペースになっているようだった。
空いた席に夏夜を座らせ、動くなと言い聞かせて再び人込みへ戻っていく。
どうしたんだろうと首を伸ばして見ていると、帰ってきた一成の手にはりんご飴が握られていた。
「ほらっ、夏夜」
ぶっきらぼうに差し出されたそれを、手に取るかどうか一瞬迷った。
「良い、の?」
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