恋響【1】
夏夜が生まれたのは今から十八年前のある熱帯夜だ。分家の一つで、茶道を家業とする仁科家の次男夫妻に生まれた待望の長女である。
母親から一字貰ったのと、夏生まれってのが名前の由来。
読みは母親のあだ名「さや」から貰った。
どうDNAを選んだのか顔立ちは美人の母親に生き写し、芸能界にスカウトされたのも一度や二度じゃない。
恋愛結婚だった夏夜の両親は基本的にいつも仲が良く、従兄の一成が保護者のようなものだった。
面倒見の良い一成に夏夜の両親は甘え、放任に拍車がかかり、ますます夏夜は一成に懐く始末。
「小さい頃は、本当に自分が一成くんの妹なんだと思ってた」――そう、十八歳になった夏夜が語るほどに。
携帯を買い与えたのも、算数の宿題を手伝ってくれたのも一成だった。
通知表を最初に見せる相手もそう。
『自分を一番に見てくれたひと』である年の離れた従兄に、恋をしない方がおかしかったのだ。
初めて告白をしたのは十二歳の夏だった。
もし断られたら仲の良い従兄妹の関係さえ崩れるかもしれない、子供の戯れ言だと冗談に伏される可能性だってある。
けれど伝えれば、夏夜だってれっきとした女の子なのだと意識してくれるだろう。
そんな打算も含んでいた。
作戦は完璧なはずだった。
屋敷の近くで催される花火大会に一成を誘い出し、最後に『恋響(こいゆら)』という花火が打ち上がったら告白する。
女子の間でまことしやかにささやかれるジンクス――『恋響』が花開くのと同時に告白すれば、恋が叶う――に縋ろうと考えたのだった。
しかし、夏夜の作戦は失敗することになる。
周りにいる人々は皆楽しそうだった。
ふと人と人との垣根の間に見えた光景は、わたあめをねだる子供に今日ばかりはと母親が買ってあげ、金魚すくいの屋台では仲が良さそうな姉妹がお揃いの青い浴衣を着てじっと水面を眺めている。
ぼんやり淡く橙色に光る行燈、ボン、とヨーヨーを弾ます音。
先ほどクラスメートにもすれ違った。
デート中のようなので声はかけないでいたが。
泣きたい気持ちで従兄を追いかけているのは夏夜だけだ。
「まっ…一成くん、待って……!」
声は喧騒に掻き消された。
太陽は段々と見えなくなっていき、東の方はもう濃い青色に染められている。
一成の背中が判断し難くなってしまうのも時間の問題だった。
(どうして、こんな風になっちゃったんだろう)
慣れない下駄のせいで足は歩く度にズキンと痛む。
まだ着る頻度の高い浴衣でさえも動きにくいことに変わりはなく、一成が立ち止まらない限り追いつけない。
しかし、立ち止まってくれるはずもなかった。
一成は一成で『迷子になった夏夜』を探しているのだから。
迷子防止にそっと掴んでいた袖を、自ら離したのは夏夜だった。
何故かは分からないが、夏夜が遊びに来てからというもの一成はずっと機嫌が悪く、今日の花火大会も渋々という様子であった。
だから「手を繋ぎたい」なんて言えなかったのだ。
精一杯の勇気を出して浴衣の袖を握った時、一成に拒否されなくてどれほど嬉しかったことか。
けれどそれも、甘いりんご飴の誘惑には勝てなかった。
(……良いな、って立ち止まっちゃったから)
つい屋台の前で見入ってしまい、気がついたら一成の姿は遥か先。
なりふり構わず駆け出そうとした瞬間、「お、仁科じゃん」――天敵の男子に見つかったのも原因の一つだ、と夏夜は考えた。
英語のロゴが入った赤いTシャツにカーキ色の半ズボン。リーダー格の元ガキ大将。
友達らしき男子二人と、飲みかけのラムネを片手に持ちながら歩いてくる。
幼稚園から私立に通っている夏夜とは学校こそ違うものの、同じ町内に住む幼馴染みには変わりなかった。
両隣にいる二人は知らない。
知り合い?
ん、幼馴染みってやつ。
短い会話を交わした後、気安い調子で話しかけ浴衣の袖を握った。
迷子防止のためではない、きっと夏夜を逃がさないためだ。
「お前一人かよ。他の子は?」
夏夜は災難に耐えるべくただ俯いた。
今日の為に新調した下駄は鼻緒の朱色が目に鮮やかだが、親指の皮が剥けているのが痛々しい。
バンドエイド持って来れば良かった、とぼんやり思った。
「……うん、一人じゃないけどちょっとはぐれちゃって。探さなきゃいけないから、ゴメン、行くね」
「相手は噂の一成くん?」
勢いよく顔を上げる。
細く結った三つ編みが跳ね、数回揺らめいてから耳の横に戻っていく。
「関係ないでしょ」
出来る限り低く抑えた、熱の孕む声。
これだから夏夜は少年が嫌いだった。
事あるごとに一成との関係を揶揄するし、その他も必要以上に干渉してくる。
舌打ちしないのも手が出ないのも一成の教育が良いからだ。
「ンなことない。夏夜さ、そろそろ従兄離れしたら?」
「なっ」
「普通女子の友達と来るじゃん。いつまでも一成くん一成くんって後ついて回って、その内あっちにも迷惑に思われるぞ。それとも何、お前学校で友達いねーの?」
「ちょ、言い過ぎ」
少年の友達が合間に入る。
僅かに力が緩んだ瞬間、夏夜は少年の手を振り払って人込みに紛れ込んだ。
制止の声なんか聞かない。
嫌いなアイツから離れられるように、もう姿も見えなくなってしまった一成を見つけられるように、隙間があってはどんどん前に進んだ。
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